眠い。

アリスの脳は睡眠を訴えていた。
だだっ広い庭の隅にある大きな木を背もたれにして、彼女は船を漕いでいる。
うつらうつらと下がる瞼。揺れる首。
時折かくんっと落ちては――はっと意識を取り戻し、それでもまたうつらうつらと…

暑くもなければ寒くもない昼の時間帯。
ぽかぽかとした日差しが辺りに降り注ぎ、そよそよと吹く風が草木を揺らして子守歌に聞こえる。
葉の覆い茂った木の幹は丁度影になっていて過ごしやすく、静かなこの場所は昼寝をするのに丁度良い。

とさりと音を立てて膝から落ちた本。
それが落ちてしまったことにも気付かないほど、アリスの意識は遠のいていた。
静かな場所で読書を…趣向を変えて庭に出ようと思って来たのに、これでは当初の目的を果たせない。

だがそれさえもどうでもいいと思えるほど――眠かった。

睡眠は十分に取っているし、別に身体が疲れているということもない。
夫に無体を強いられ続けたわけでもないのに、アリスの脳はひたすらに睡眠を訴えている。

ふいに――ふわりと心地の良い香りが鼻を掠めた。
紅茶と薔薇の、アリスが最も愛する匂い。

「―――――」

ブラッド……音にはならなかったが、口元だけがそう動く。
さらりと頭を撫でられた感覚が更に心地よくて、ふわふわと浮いていたアリスの意識がゆっくりと沈んでいく。

この世で最も安心できる場所がここにある。

ぐらりと傾いた身体を引き留める意識はアリスにない。
こつんと小さな衝撃がアリスの頭に響いたが、先ほどよりも一層強くなった夫の香りにアリスの意識は沈む一方。
身体を抱き寄せられる感覚がした。逆らう気など毛頭起きない。
自分の全ては夫に任せておけば何とかなると――それを最後にアリスの意識は完全途絶えた。





□■□





「最近アリス、調子悪いのか?」

なんか、おかしくね?

ブラッドのベッドで眠っている女主人をソファーから眺めながら、エリオットは心配そうにそう呟いた。
そんな腹心の呟きに、彼の上司であるブラッドは顔をしかめながら「あぁ」と答え、だが原因が分からないんだ、とイライラした様子で書類に目を通していく。
そんな上司を見つめながら、エリオットも同じように顔を顰めて首を傾げた。

「もう余所者じゃねぇのに…変だよな」

余所者だった頃はこの世界に馴染み始めた代償から時折倒れることもあったが、もう既に時間≠ニなった彼女にそんな事は関係ない。
病弱な夢魔がいるくらいだから、役付きだからといって病にかからないわけではないが、それにしても変だと思うくらいにはおかしいと思う。
体調が悪いようには見えないが、いつも利発な彼女がぼーっとする時間が増えたり、気を抜けばあらゆる場所でうつらうつらと船を漕いでいる。

常に一貫して「眠い」と呟くアリスに、最初は下世話な原因を思い浮かべたエリオットだったが、ブラッドの態度を見ている限り原因はそれではないらしい。

「夜はしっかり寝ているし、食欲も…まぁ減退はしているようだが食べないわけじゃない。風邪を引いているわけでもないし、仕事もしっかりしているだけ見た感じは元気なんだが…」
「いっつも眠い眠い言ってるんだよなー。この間も庭で寝てたんだぜ?」

ほんとに風邪引いちまうよ。

エリオットの言葉に、ブラッドはその通りだと深い溜息を吐く。
視線を背後のベッドへ滑らせれば、規則正しい寝息を立てて眠る愛しい妻の姿。
顔色も悪くないし夢見が悪いということもなさそうで…むしろ夢に関して問題があるなら、あのお節介な夢魔がここぞとばかりに出張ってくるだろう。
しかし様子を見ている限りそんな事態は起こっていないらしく、夢魔本人も「最近アリスはよく寝ているんだな」と世間話程度に言い出す始末だ。

全くもって原因不明。
ただ眠っているだけだが、今までこんなことが無かった分ブラッドは心配だった。

「医者には診せたのか?」
「随分前に一度な。過労じゃないかと言われて仕事量は減らしたんだが…」
「アリス働き者だしなー」
「だが様子を見る限り過労ではないな。むしろ仕事がなくて暇だと怒鳴られたくらいで…」
「…働き者だなー、ほんと……」

ガキ共に見習わせてぇくらいだ。むしろ半分分けてやって欲しい。

ソファーから立ち上がり、アリスの寝ているベッドを遠くから覗き込むようにして眺める。
あまり近くで寝顔を見てしまうと、彼女の夫の不興を買う恐れがあるため、どれだけ心配でもエリオットにこれ以上の距離は許されなかった。

「まぁ寝てるだけで…倒れたりしてるわけじゃねぇからまだ様子見だな」
「…あぁ。彼女に関しては、お前も目を光らせておいてくれ」
「りょーかい」

しばらく仕事ねぇから、ブラッドもゆっくり休んでくれよ。

なるべく明るい声を心がけてエリオットがそう言うと、ブラッドはいつも通りだるそうに――「あぁ」と返事をした。
だが先ほどまであった眉間の皺が少しだけ解けていて、エリオットはほっと安心しながら彼の部屋を後にする。

ブラッドとアリス。
エリオットが死んでも守りたい大好きな上司と友人だ。

アリスの体調が芳しくない今、ブラッドまでもがそれに引きずられ頭を悩ませているのがエリオットには心配で溜まらなかった。



いつもと変わらぬ――穏やかな表情で眠りについているアリスの髪をさらりと撫でる。
伸びた前髪を顔から払ってやりながら、目の覚めない妻の額に口付けを落としてブラッドは座っていたベッドの縁から立ち上がり、再度執務机へと向かった。





□■□





「寝過ぎだろう…」
「延々夢に引きこもっているあんたに言われたらおしまいね」

ふわふわと身体が漂う感覚のするこの無機質な空間で彼に会うことは少なくない。
人一倍独占欲と嫉妬心の強い夫を持つアリスに、こうして会いに来てくれる友人がいるのは実は結構嬉しいことでもあった。
正式にブラッドと結婚してからは昔ほど他領土に足を踏み入れることはなく、会う機会が昔と何一つ変わらないのはこの夢魔だけ。
もちろん、ハートの城やクローバーの塔に遊びに行かないわけではないのだが、帽子屋の妻として自分自身の中に遠慮がうまれてしまっているのは、仕方の無いことだった。

「なんだか、無性に眠いのよね」
「病気なんじゃないか?過眠症とか…病院に行ったらどうだ」
「……あんたに病気を語られることになるとは思わなかった…」

うううううるさい!私は君の心配をしていてだなっ!

青い顔でそう弁解する夢魔に「病院に行かなきゃいけないのはお前だ」と心の中で呟くと、彼は更に表情を青ざめる。
「心配してるのに…」と項垂れる夢魔の方がよほど心配だとアリスは思うのだが、そんな彼女の気持ちが彼に届くことはなく「病院は怖いからいやだ!」と人に勧めておきながらあんまりな返事が返ってくる。

「私のことはいいんだ!私のことは!!」
「いやよくないでしょう…」
「いいんだ!!!…それより君だ。寝過ぎだぞ?本当に」
「まぁ…でも元気なのよ?別に体調が悪いとか疲れているわけでもないし…」
「見た感じはそうだな。元気そうだ」

ふむ、と顎に手を当て考え込むナイトメアに、アリスも(なんでだろ)と最近の出来事を思い出す。
が、特別変わったことをした記憶はなく、ただ本当に無性に眠いだけなのだと、意味の分からない自分の現象に思わず溜息を吐いた。



「…ん?何か言ったか?」
「?」

ふいに、ナイトメアがどうした?と首を傾げたが、それの意味が分からなくてアリスも「何が?」と首を傾げる。

「今私を呼んだだろう」
「…いいえ?呼んでないと思うけど……」

駄目だこいつ。ついに幻聴まで…

そこまで体力が低下しているのならグレイに無理矢理でも薬を飲ますよう進言しないと、と考えると耳元で「やめろおおおお」という悲痛な声が響く。
いやいやだって幻聴なんて――と青い夢魔を見つめると、「違う!…いや違わないかもしれないけど違う!!」と支離滅裂な言葉が返ってきた。

「呼ばれたような気がしたんだ!」
「私は呼んでないわよ?」
「だ、だから気のせいだったと…」

言って、いるから……病院だけは勘弁してくれ…

土下座の勢いで地面にひれ伏すナイトメアを、アリスは冷めた目で見つめる。
こいつの病院嫌いはいっそそれこそが病気なんじゃと疑うレベルで、いつまでたっても改善されないそれにぶっちゃけドン引きだ、とアリスは顔を引きつらせた。

「うぅ…偉いのに。私は偉いのに…そんな目で見るんじゃない!」
「グレイの苦労が手に取るように分かるわ」

そんなことない!!

そう叫ぶナイトメアは今にも泣き出しそうでアリスは思わず後ずさる。
子どもか!と声を大にして突っ込みたいほど自尊心の高い病院嫌いの男は、アリスの心を読み取る度顔を青くして項垂れる。
威厳もなにもあったものじゃないこの夢魔はかなり恐れられているらしいが、一体どこが怖いというのだろうとアリスは呆れたように溜息を吐いた。

「ひどい」と青い顔を暗くさせてぶつぶつ呟いていたナイトメアだったが、ふとした瞬間に「ん?」と俯いていた顔を上げてきょろきょろと辺りを見回し始める。
これに首を傾げたのアリスの方で、「どうしたの?」と近づくと、「いややはり声が…」とナイトメアは立ち上がり、警戒するようにアリスの肩を引き寄せた。

「…幻聴じゃないの?」
「だから違う!違うが…実際考えるとその方がいいな」
「???」
「幻聴なら私個人の話で済むが、君の夢に第三者がいるとなると話は別だ」
「…ジョーカーかしら?」

真剣な表情で辺りを注視するナイトメアに、昔よく夢に入り込んできた男の名前を口に出す。
最近はめったに出てこないし、出てきたとしても大した害にはならないのでお茶を出して帰ってもらっているが、このタイミングで来るだろうかとアリスも辺りを見回した。

「お、お茶出しって…」

夢の中と言えどジョーカーにお茶を出しているのは君だけだろうよ、とナイトメアは顔を引きつらせて「ほんと強くなったな君は」とげんなりした声を出す。

「うーん。ジョーカーだったら嫌だから起きるわ。起こして」
「それは構わないが…どうせ眠くなるだろう君は」
「起きたら病院へ行ってみるわ。ブラッドも結構心配してくれてるし」

ほらほら早く。嫌なのよジョーカーの相手するの。

周囲を警戒するアリスを見て、ナイトメアは「それもそうだな」と夢を終わらせるためアリスから身体を離す。

「まぁ、体調には気をつけたまえ。私が言えたことではないがな」
「えぇありがとう。また遊びに来て」
「君の方こそたまには塔にも出向いてくれ。グレイも会いたがっていた」

「もちろん」と微笑む彼女の表情だけは、余所者だった頃と変わらないなとナイトメアは口元を緩める。
パチン!と指を鳴らせば遠のいていくアリスの姿に、自分もそろそろ起きるかと意識を持ち上げようとした所で―――また声が聞こえた。


ないとめあ――


今までで一番大きく聞こえた声。
聞いたことのない…か細い声に、ナイトメアははっと振り向きアリスの後ろ姿を凝視する。

「待っ……アリス!!」

思わず伸ばした手が届くことはなく、ぎこちなく自分を呼ぶ声だけが耳に響いたままナイトメアの夢は覚めた。






はっと執務机から身体を起こすと、今にもぶつかりそうな位置まで顔を寄せて自分を睨み付ける部下と目が合う。
「あ。」しまった…と思った時には後の祭りで、「仕事中に夢に逃げてはいけないと何度言ったら分かるのですかナイトメア様!!」と厳しい部下の叱責がナイトメアの耳を劈いた。

「ち、ちが…グレイ」
「何が違うんですか!こんなに書類を放置して…貴方が夢に逃げてから一体何時間帯たったと…!」

「あ!!そうだ、夢……た、大変だグレイ!アリスが大変なんだ!!!」
「…アリス?アリスに会いに行っていたんですか?」

がくがくと凄い勢いで頷きながら勢い余って「げふっ」と吐血したナイトメアに、グレイは慌てて彼の背中を摩る。
ただでさえ仕事が溜まっているというのにこのまま体調不良で寝込まれては溜まらないと、グレイの上司に対する介護精神は必死だ。

「たたたた大変だ…アリスが、アリスがぁ」
「なんだというんです一体…」

「アリスが!!女の子だ…!!!!」

「意味が分かりません」

アリスは元々女性です何言ってるんですかもうボケたんですか。
辛辣な部下の言葉に「違う!!」と叫びながらナイトメアは再度血を吐く。
「違う、違う、アリスがぁ」と容量の得ない夢魔の呟きに、たまたまその室内にいたユリウスが呆れたような溜息を吐いた。





□■□





ウェーブのかかった金髪が美しい。
すらっとしたスタイルなのに出る所はしっかり出ていて、口元のほくろがまたなんだか妖艶だ。
白衣なのかナース服なのが分からない服装だが、医者だと紹介された以上お医者様なのだろう。
ミニスカートから見えている太ももに同姓とは言え目が釘付けになる。
ビバルディとはまた違う美しさと色気だ。

「よろしくお願いします」と微笑む美女に、「こちらこそ」と引きつった笑みを浮かべながらアリスは行儀良くお辞儀をして――
隣に立っていた夫の足を踏みつけてやりたい衝動に駆られた。



ナイトメアと話をした後、ブラッドのベッドで目を覚ましたアリスは真っ先に夫を探した。
探したと言っても視線を動かした程度で、自分に背を向けて仕事をしている夫の名を呼べば、彼は「起きたのか」と少し慌てた様子でアリスに近よりその頬を撫でる。

「調子はどうだ?」と問う夫に「大丈夫よ」と微笑む。
少しだけ安堵したような表情を見せたブラッドに、それでも心配になってきたから病院に行きたいわと告げると、彼は「そうだな」と真剣な表情で頷いた。

「屋敷に医者を呼ぼう。もっと腕のいい…懇意にしている医者を呼ぶから横になっていなさい」
「でもブラッド、私仕事が…」
「そんな様子で仕事などさせられない。エリオットも心配していたぞ」

まだ様子見でいいかと話していた所だったが、君が病院へと言うのならすぐに手配しよう。
幸い今は立て込んだ仕事もないし、私も付き添う。
ぎゅっとアリスを抱きしめながらそう言う夫に、アリスは何となく照れくさい気持ちになって「ブラッド…」と思わず色めいた声を出した。
彼の背中に両腕を回せば、自分を抱きしめる力が強くなりアリスは幸せな気持ちになってくる。

するとアリスは、途端に自分の身体が心配になった。
何か重い病気だったらどうしよう。母も姉も病で死んだし、もしかしたら自分も……

ブラッドを置いていきたくない。一緒にいたい。悲しませたくない。
自分がいなくなったら、ブラッドは別の女の人に恋をするのだろうか。
そんなの嫌だ。死が二人を分かつまで――と結婚式では誓ったが、例え死んだってブラッドを誰かにくれてやるつもりなどないと、アリスの所有欲がにじみ出す。
独占欲や嫉妬心は、ブラッドほどではないがアリスも中々負けていない。
基本根本が似ている二人は、お互いを求め出すとどうにもこうにも止まらないのだ。

少しだけ身体を震わせたアリスに、ブラッドは「大丈夫だ」と彼女の頭を撫でた。
何の根拠もない言葉だったが、彼の言葉ほど信用できるものはないと、アリスは身体の力を抜いてブラッドにもたれ掛かる。

「すぐに医者を手配する。次の時間帯には来てもらおう」

いつもはだるそうな声も、今は真剣そのものだ。
アリスは「うん」と頷きながら…身体を離してブラッドの唇に口付けを落とした。



というなんやかんやがあったわけだが、何となくムカムカとした心を叱咤しながらアリスは医者に促され席に着く。
腕のいい懇意にしている医者≠ニブラッドは言った。
そこで現れたとんでもなく妖艶で美しい女医に、アリスの心は落ち着かない。

(気にしない気にしない…例え何かあっても過去よ、過去)

今の奥さんは私なんだから落ち着きなさいアリス、と自分自身に言い聞かせながら、お医者様の言う事に耳を傾ける。


「…眠い、ですか――身体の調子は全く悪くないと?」
「……少しだるいと言えばだるいかもしれません」
「食欲は?」
「今のところ普通です「いいや、少し減っている。以前と比べると」…だそうです……」

アリスでさえ気付いていない変化に気付くブラッドは凄いを通り越していっそ怖い。
「体重が減った」とアリスも知らない事実をさらっと言ってのけるブラッドに、「いつ計ったの?」と聞けば「抱けば分かる」と返され一瞬にして居心地の悪い空気が生まれた。
最も、居心地が悪くなったのは恥ずかしい事を言われたアリスだけであって、傍に控えているメイドや目の前のお医者様に変わった雰囲気はない。
そりゃそうだ。夫婦なんだから。そうよ、恥ずかしい事じゃないわ、とこれまたアリスは自分自身に言い聞かせながら、手の甲をふっと持ち上げ背後の夫を軽く殴る。

ぽすっとブラッドの腹に直撃した手の甲だったが、「何だ?恥ずかしがっているのか?」とにやにやした笑みを浮かべられて(う、失敗した…)と手を元の位置に戻し行儀良く膝の上で合わせ直した。

「つい先ほどまで寝ていたと聞いていますが、今も眠いですか?」
「えぇっと……眠いとまではいきませんが、ベッドに入ったら多分寝ます」
「今もだるさが?」
「そう…ですね。気になるほどではないですけど」

カルテに何かを書き込みながら少し考える素振りをする医者に、「何か悪いのか?」とブラッドが尋ねると、彼女は「いいえ、大丈夫です」と笑みを浮かべて返答する。
何か病気なのではないかと疑っていたアリスはほっと息を吐き、じゃあどうしてと更に追及する夫の声を聞きながら、目の前に座っているお医者様に顔を向けた。

「とりあえず…こちらでは確認ができないので、一度私の病院へ来て頂いてよろしいですか?」
「…確認?」
「はい。そんなに凄まれてもこればかりは来院してもらうより他はありません。ご心配ならボスもご一緒にどうぞ」

病院へ来いという医者を威圧する夫の腹を、今度は力を込めて手の甲で殴打する。
「っ」っと背を曲げたブラッドを無視しながら、「今から行ってもいいですか?」とお医者様に尋ねると、彼女は惚れ惚れするような笑みを浮かべて「もちろんです」と微笑んだ。

「全く、うちの奥さんは酷いことをする………それで?病気ではないんだな?」
「はい。ご病気ではありません」

ですがそれを確定させるためには、来院して頂く必要があります。

医療器具を鞄に仕舞いながらそう言う医者に、ブラッドはアリスを心配そうに見つめながら「出歩いても大丈夫か?」と声をかける。

「大丈夫よ。心配性ね」
「しかし…」
「眠さがピークに達したら抱えて行って貰おうかしら」
「それはいいな。君が私のものだと触れて回れる」

右手でアリスの肩を抱き、左手をアリスの手に添えながらゆっくり彼女の身体を起こすブラッドは、どこからどう見てもいい旦那様だ。
そんな夫に思わず口元を緩めると、「仲が良さそうで何よりです」とニコニコ笑うお医者様と目が合いアリスはあまりの恥ずかしさにばっと顔を背ける。

「うちの奥さんは恥ずかしがり屋なんだ。あまりからかわないでやってくれ」

嬉しそうに…ほんっとうに嬉しそうにそう言うブラッドが、アリスは嫌いじゃないのだから殊更に恥ずかしかった。











その時間帯の内に辿り着いた病院で、アリスは屋敷に来てくれた同じ女医と向かい合いながら「え?」と声を出して差し出された写真を凝視する。
同じタイミングで「は?」と聞こえた夫の声だったが、写真をじっと見つめた後、そうっと夫へ視線を向けると、彼は未だ口を開けたままの状態で固まっている。

「ご足労頂いて申し訳ありません。こればかりは、来院して頂かないと判断できないものでして…」
「あ、いえ、それはいいんです」

むしろありがとうございます。

こじんまりとした小さな病院だ。
待合室には高齢の方から小さな子どもまでいて、受付のお姉さん達も愛想よくアットホームな雰囲気を醸し出している。
道中ブラッドに彼女のことを尋ねれば、裏の世界にいて知らない者はほとんどいないという闇医者だという。もちろん、帽子屋ファミリーお抱えの…

「今後はどうされますが?来院して頂いても結構ですが、定期検診ですので…そうですね、こちらから出向きましょうか」
「あ、いいんですか?」
「えぇもちろん。医療機器もいくつか搬送させて頂きましょう。構いませんよね、ボス?」

「………」

「…ブラッド?」
「構わないようですわ奥様。手続き、こちらでしておきます」

ご妊娠、本当におめでとうございます。
お生まれになるのがお嬢様にしろ後継者様にしろ、私達ファミリーにとっても大変喜ばしく思いますわ。

未だ実感の湧かないアリスだったが、思わずそっと自分の腹を撫でてしまう。
ここに自分の子どもがいるのかと思うと――何とも言えない感覚に涙腺が緩み決壊してしまいそうだった。

ふらり…と、隣の気配が動いた様子にアリスは涙目でそちらを見上げる。
ふらふら〜とした足取りで出口へ向かうブラッドの背中を見つめながら、そのまま診察室を出て行く夫に涙を拭いながら「ブラッド?」と声をかけるも、彼はすっと出て行きぱたんとその扉を閉めた。

「………」

どうしたんだろうと立ち上がった瞬間――ばたん!がしゃぁん!と言った音が部屋の外から響く。
それに続いて「ボス〜!?」「大丈夫ですか〜!ボス〜!!」と外に控えていたメイドや使用人の声が聞こえて、その光景を察することのできたアリスは「…ほんっと馬鹿ねぇ」と笑い零し慌てて診察室の外へと出る。

中待合に備え付けられているソファーに突っ伏す形で膝から崩れ落ちている夫と、その隣には倒れて割れた花瓶、それを片付ける看護婦、慌てる使用人。
「思ったより大惨事ですわね」と頭上から響いた声の持ち主は、これから主治医になるのであろうお医者様だ。

「えぇ…思ったより重症みたいです。夫の方が」

呆れたような声。だが口元に浮かんでいるのは笑みだから、アリスも大概重症だと自分自身思ってしまう。
「ブラッド」と夫の肩を叩いて声をかければ、その身体はびくりと震えるも起き上がる気配を見せない。
が、赤く染まった耳を見る限り、嬉しいやら恥ずかしいやら情けないやらで、ブラッドの脳内が一杯一杯になっているだろうというのは容易く想像ができた。

ブラッドから目を離し、背後に控えていたお医者様に深々とお辞儀をすると、彼女は笑顔のまま黙って手を振り扉を閉めた。
それを見送った後、周囲の使用人に目配せしてこの場から離れるようにお願いする。
察しの良い彼らはこれまた笑顔でそそくさとその場を離れ、あっという間に中待合にはアリスとブラッドの二人だけになった。




ソファーに突っ伏したままの夫。
勢い余ったのか帽子だけが遠くの方へ転がっており、それを尻目にアリスはそのソファーへと腰掛け、ブラッドの黒髪をさらりと撫でる。

「時間感覚のない世界だけど、成長過程としては一応3ヶ月ですって」
「………」
「性別はまだ分からないみたい。ブラッドは男の子がいいのよね?」
「………」
「大事なのは名前よね、名前!親が一番最初にあげられる贈り物だっていうし…」
「………」
「――ビバルディにも報告しなきゃ。でも先にエリオットね。きっと凄く喜んでくれるわ」

さらさらと指先を滑る黒髪。
一向に顔を上げようとしない夫が可愛くて、アリスは破顔し口元を押さえる。
そうしたら、気が緩んだのか笑いと一緒に涙が出た。
知らず知らずの内にそれは嗚咽に変わり、ブラッドの髪に触れていた手はいつの間にかしっかり握りしめられ、それら全てを誤魔化すように縋り付けば、ブラッドはしっかりと自分を抱きしめてくれた。

いざとという時は頼りになる、アリスだけの旦那様。
子どもができたことが衝撃で、声もでないほど喜び過ぎて動転して、何もない所で転び恥ずかしさから顔も上げられないような――情けない旦那様。
それでも喜びが隠せなくて、アリスをぎゅうぎゅう抱きしめる旦那様のなんて可愛いこと。



気が狂いそうだ―――とブラッドは思った。
こんなに嬉しいことが、喜ばしいことがあるとは知らなかった。
アリスさえいれば何もいらないとさえ思っていたのに。
今でももちろんそうだ。アリスさえ、アリスがいれば何でもいいが、それでも…それでもだ――

何より欲して愛した女が、自分の子どもを宿して産んでくれると言う。

ブラッドの喜びは、どんな言葉でも言い表せなかった。





□■□





「女の子だぞ、グレイ!楽しみだな〜」
「まだ気が早すぎますナイトメア様。そもそもアリス本人が知っているかも怪しいのに…」
「そういう割にはグレイ…お前なんだ、そのぬいぐるみの山は」
「これは…その―――無事生まれたら贈ろうかと」
「気が早いのはお前だろう!!」

執務室一杯になっているぬいぐるみの山を見て、ナイトメアは「まぁ女の子だからいいが」とシロクマの人形を一つ手に取る。
ふわふわとした感触の心地よい人形に口元を緩め、「楽しみだなー」と何度目になるか分からない言葉を吐けば「…だが父親は帽子屋だろう」という時計屋の空気を読まない発言が返ってきた。

「うるさいぞ、時計屋!アリスの子どもでもあるんだからアリスに似た女の子に決まっている!」
「それはそれで…迷惑な話だな」
「ふん!そんなことを言って…ちゃっかり贈り物を買っているお前に言われたくない」
「なっ!!」
「感情が制御できてないぞ〜嬉しさがにじみ出ているというかダダ漏れだ」
「うるさい!私はただ…!」

あいつが母親になるというから、何か悩み事ができて私の所に来られても困ると思っただけで…!

相変わらずツンとデレの比重が絶妙なユリウスをナイトメアは軽くスルーし、シロクマに小さなシルクハットを乗せてリボンで結ぶ。
中々可愛いじゃないか、と机に置けば、「駄目ですよナイトメア様。それは贈り物なんですから」とグレイの声が飛んでくる。

ないとめあ――と、か細い声で自分を呼んだ声が耳から離れない。
母親が自分をそう呼ぶから、お腹の子も覚えてしまったのだろうか。
胎児というのも中々賢くて不思議だなと思いながら、ナイトメアは破顔する。

女の子の声だった。
だからお腹の子は女の子だ。
アリスはまだ知らないだろう。
子どもができていることも、知っているかどうか怪しい。

気が動転してグレイと時計屋にはアリスが女の子を身籠もっているということを伝えてしまったが、本来なら母親であるアリスが一番最初に知るべき所。
「アリスには絶対言うなよ!」と箝口令を敷くには敷いたが…今度アリスがこの部屋を訪れたら確実にバレるだろう。
可愛らしいぬいぐるみの山が所狭しと並んでいる。
グレイの趣味で押し通したい所だが…はてさて、今後どうなるか…










国中の役付きがアリスの懐妊を知り待ち遠しく思っていた頃、一度だけ引っ越しが起こった。
中にはアリスと国が離れ落胆した者、アリスと同じ国に当たり安堵した者、アリスの妊娠を新たに知って驚愕し喜んだ者と様々だったが、狂った時間の世界でも時は進み未来へ歩み、子どもは産まれた。

父親と同じ――黒い髪に翡翠の瞳を持った女の子。

「女の子は父親に似るって言うしね」と笑ったアリスに、ブラッドは破顔し、安堵し、「必ず守る」と妻に誓った。
「かあわいいいいなああああああ」とデレッデレなオレンジのウサギと、「いつになったら遊べるの!?」と赤ん坊を落とし穴作りに連れて行こうとする双子。
帽子屋屋敷の日常は、暫く慌ただしげに騒がしく、しかし楽しげに回っていた。

子どもの名前はブラッド=デュプレがつけたという。

名前の由来は赤薔薇

=デュプレ



Miriana

material from Quartz | design from drew

こちらからおまけ話。

2015.07.21