アリスの住んでる場所は、国の中でも特別物騒で、特別危険に満ちていて、特別仲間意識の高い居心地の良い場所だった。
アリスはアリスなりにその場所を気に入り、そこに住む人を気に入り、元の世界を捨ててもいいと思えるほどには執着している。
危険な遊びが大好きな物騒な双子の子どもも、見るのも嫌になるほどオレンジ色のものが大好きなウサギのお兄さんも、いつも気だるげだがてきぱきと日常の業務をこなす使用人達も、皆がアリスに親切で、優しくて、アリスは本当にそこにいる人たちが大好きだった。

他の領土にも大事に想う友人は多い。
初めての引っ越しで国を違えた友人だって今も大事に想っているし、それはきっと今後も変わらぬ価値観だと思っている。
だがそれより群を抜いて、多分アリスは自分が住んでいる場所の人たちが好きだ。
友人であり、仲間であり、家族。
誰と国を違えようとも、この人たちがいれば大丈夫だと思うほどには贔屓しており、アリス自身それを自覚していた。

唯一難点があるとすれば、物騒だとか危険だとか、そんなことより家主が苦手の一点に尽きる。

アリスが滞在している屋敷の主は、ブラッド=デュプレという男だった。
奇抜な帽子に奇抜な服装。
いつも気だるげで口を開けば「だるい」「眠い」「紅茶が飲みたい」の三拍子。
主飲料が紅茶と言っても過言ではないほどの紅茶狂いで、変人……そう、変人なのだ。
初めてこの男を見たとき、アリスは自身のトラウマを思い出した。
姉に心を奪われた、初恋の人と瓜二つの容姿。
最も中身はこれっぽっちも似てないし、最近ではもういっそ顔さえ似てないような気がする。
部下に仕事を押し付けては、暇だ退屈だと気だるげに日常を過ごし、時折お茶会に興じる。
それがポーズだと気付いたのは、多分遅かった。
少なくとも国を一つ跨ぎ、催し事を終え、日常という日常を過ごし始めてようやく気付いた――その違和感。

アリスはブラッドをだらしのない男――だと思っていた。
部下であるエリオットがあんなに忙しそうに走り回っているのに、一番偉いからと何もしない男。
だが屋敷でメイドの仕事を覚えていくうちに分かる。
ブラッドが口で言うほどサボってなどいない、暇などではない人間だとようやく気付く。
次にアリスがブラッドに抱いた感情は、天才なのかという妬み。
何でもそつなく熟す、優秀で器用を形にしたような男だと思った。
顔よし、頭よし、女性からの贈り物も多くそれに見向きもしない嫌味な男。
おまけに仕事など軽々片付けてしまう根っからの天才肌など、根暗なアリスが羨望に近い妬みを覚えるのは仕方のないことだった。

だがこれまた時間が経つ内にその認識は変化する。
我らが屋敷の主は、天才ではなく異様なほどの努力家なのだと。
だから屋敷の住人はブラッドを慕う。
尊敬、敬愛。
ブラッドは誰からも受け入れられていた。
どれだけ無茶をしようと、どれだけ奇天烈なことをしようと、どれだけ他人に迷惑をかけようとも、ブラッド=デュプレという人間を知る者の前にそんなものは霞んでいく。

屋敷の中でブラッドを一番理解していないのはアリスだった。
余所者だから?違うアリスが色眼鏡でブラッドを見ようとしなかったから。
最初は初恋の人と同じ顔だというだけで弾き、三月ウサギや門番たちと仲良くなることで仕事をしない上司を見下し、それでもアリスを追い出さず、アリスをお茶会に誘うブラッドの心の広さに、アリスの心は簡単に打ち砕かれた。

屋敷に受け入れられていると思っていた自分が恥ずかしい。
事実受け入れられてはいるだろう。
ブラッドだって何も気にしてないはずだ。
むしろアリスにそう扱われることを喜んでいたほどで、彼は自分を正当に評価されることを酷く嫌う。

気付いた瞬間、アリスは赤面した。
どうしようもないほど口惜しくて、泣きながらブラッドに謝りたいとさえ思ったほど。
今までの行動がとてつもなく恥ずかしくて、その日からアリスは心の底からブラッドを主と仰ぎたいと思った。

今まで以上にメイドの仕事を励み、ブラッドから茶会の誘いがあっても断る。
でもあまり断り過ぎては不機嫌になるので、数回に一度は応じた。
ブラッドとアリスは上司と部下。
アリスは余所者だが、もうお客さんなどではない。
この世界で居場所と役割を見つけたい。
この屋敷に置いてほしい。
でも何より少しでも、主の役に立ちたい。
ブラッドはアリスのボスだった。
気心のおける友人であり、敬愛すべき上司。
尊敬と敬愛を同時に抱いて、アリスは屋敷のために、ブラッドのために必死だったのだ。

そう、必死だった。
必死だったのに―――――――


裏切ったのはブラッドだと思っている。
アリスは森の中で、一人膝を抱えて座り込んでいた。
悩みの内容は、上司との関係について。
メイドに手を出す家主なんて最低だと思っているのに、じゃあ真剣に抗わなかった自分は最低じゃないのか。

(どっちもどっちよね……)

でもやっぱり悪いのはブラッドだ。
先に手を出してきたのは、ブラッドだから。

アリスとブラッドが人に言えないような関係になったのは、何も最近のことじゃない。
アリスがブラッドのことを理解し始めて、敬愛にも似た念を抱き始めて、あぁそうだ……友人としての関係を打ち止めにしようとした辺りから、おかしなことになってしまった。
ならばアリスが悪かったのだろうか。
彼を上司として、部下になりたいと願ったのは自分だけ。
ブラッドの気持ちなんて考えたこともなかった。
彼はアリスを余所者で珍しいからと置いてくれて、でも本当に良くしてくれた。
友人だと堂々言ってくれたし、本の貸し借りも楽しくて、出される紅茶とお菓子だっていつも美味しい。
必ず一品交っている自分の好物に気付かないほどアリスは鈍くなかったし、アリスもブラッドをちゃんと友人だと思っていた。
だからブラッドは怒ったのか。
怒った?怒ったはおかしいな。それで手を出される意味が分からない。
それがずるずる続いている理由も、それに抵抗せず受け入れてる自分もよく分からない。

この世界は分からないことだらけだ。

世界の構造も。皆が言うルールも。
自分の事さえ分からなくなる世界。

自身の膝に顔を埋めたまま、アリスは溜息を吐く。
次の時間帯が昼ならいいのに。
昼がきて夕方がきて、昼がきて昼がきて夕方がきて昼がくるくらいが丁度いい。
もう二度と夜など来なければいいのだ。
ブラッドがアリスを呼びつける時間帯が、訪れなければいい。
昼と夕方なら、ブラッドとアリスは昔通りでいられる。
アリスが望んだ上司と部下として。
ブラッドが望んだ友人同士としても、アリスはちゃんとやっていける。
だが夜は駄目た。
愛人。情婦の真似事。
こんな関係をアリスは望んだ覚えがない。

(帰りたくないな……)

ならば滞在先を変える?
アリスが帽子屋屋敷から出て行って、受け入れてくれる所ならきっとある。
物凄く迷惑をかけることにはなるだろうが、できないことはない。

(でもそんなのできない)

今までお世話になったから?
次の滞在先に迷惑をかけられないから?
違う。本当はアリスが出て行きたくない。

アリスは帽子屋屋敷が大好きだ。
他の領土がなくなったら悲しい。
でも帽子屋屋敷があれば大丈夫と思うほどには依存している。
あの場所が、あそこに住んでいる人が好きだ。
いらぬ関係になってしまった上司のことも、アリスはちゃんと気に入っている。

(だからやっぱり、夜だけ来なければいいのよ)

ブラッドとの関係が変わってしまう夜だけ、来なければいい。
上司として仰ぎたい。
友人として仲良くしたい。
アリスの望みはそれだけだ。

(私はブラッドのこと―――――)

愛してなどいない。
向こうも私のことを愛してない。
それが当然の関係。


「――――――――――」


瞼が――落ちる。
疲れていたのだろうか。
アリスの起きなきゃとする意識に反して、ぐらぐらと眼前が揺れた。
混濁する意識の中で、情事中のブラッドの顔が思い出された。
少しだけ顔を歪めて、アリスの名前を呼ぶブラッド。
その顔はどこか苦しそうで、貫かれてる私の方が苦しいわよと、アリスは何度言ってやりたかったか分からない。
そもそもブラッドはどうしてあんなに苦しそうな顔をしていたのか。

ブラッドはアリスに何も言わなかった。
アリスもブラッドに何も尋ねなかった。

ただ手を出されただけの関係がそこにあっただけで、それに対するお互いの心理を、ブラッドもアリスも知らない。

墜ちる意識に、アリスは抗えなかった。
目が覚めたら夜じゃなかったらいい。
そんなことだけを、いつまでも願い続けてアリスは眠る。

本当に願うべきは、そんなことじゃなかったはずなのに――





□■□





覚えのある匂いがして、ボリスは思わずその場に立ち止まった。
風向きの感じからこっちか、と……特別何も考えずそちらに足を進めると、彼の想像した通りの人物がいて、ボリスはぱっと表情を明るくさせる。

「アーリスー。そんな所で寝てたら風邪ひく――ぜ……?」

樹の下で眠っていたアリスの姿に、ボリスは目を見開き凝視した。
栗色の長い髪が緑の上に広がっている。
水色のリボンがひらひらと揺れて、同じ色のエプロンドレスも風になびいていた。

「……アリス?」

それはボリスにとって、とてつもなく不思議≠ネ光景。
風になびく栗色が、水色のスカートが。
どことなく幼く見える寝顔には確かに見覚えがあるはずなのに、ボリスにはそれがアリス=リデル≠セと断言できなくて戸惑う。

近づいて、くんくんと鼻を鳴らせば確かに香るアリスの匂い。
間違いない。これはアリスだ。
だがボリスの知るアリスとは明らかに違っていて、彼は「?」と首を傾げる。


「あー!いたいたボリス!こんな所にいた!!」
「やっと見つけたよ。ねぇ今さっそく落とし穴にかかった奴がいて――」

突如。
後ろから響いた声に、ボリスはびくっと肩を竦めた。
目の前にいるアリスが明らかに異物≠ナあることを動物としての本能が告げていたが故に、ボリスは何故か意味もなく焦ってしまう。

「一体何して――――お姉さん?」

だがボリスの焦り空しく、駆け寄ってきた双子の友人に、背後にいたアリスの存在に気付かれてしまった。
別に隠したかったわけではないが、明らかに漂う面倒事の匂いに、ボリスは思わず頬を掻いて乾いた笑い声をあげる。

「あははー……なんか、見つけちゃった?」
「え、お姉さん?何でこんな所にいるの?」
「お姉さん?起きてよ、お姉さん!風邪引いちゃうよ」

ボリスを押しのけて両側からアリスの肩を揺さぶる双子に、見つけた本人は「まずいと思うけど……」と呟いた。
「まずい」と思う原因は様々だが、その最たる要因として――

「お姉さん!風邪なんか引いたらボスに怒られるよ!」
「そうだよ、お姉さん。ていうか、今の時間仕事中だったんじゃ―――」

「ん――――」

アリスが目を覚ます。
その水色の瞳が、ボリスと双子を映す。

(あぁ――ほら、)

違う。

ボリスだけが気付いた。動物である彼だけが、彼女が目を覚ます前から気付いていた。
だがそのアリスの変化は決して些細なものではなく、目を覚ました彼女の瞳を見て、双子もぎょっとした顔をして肩を揺すっていた手を止める。

「ディー?ダム?」

それにボリスも……あれ、私眠って――――

カチコチ カチコチ

自身の胸に埋まった時計が時を刻む。
「お姉さん――?」そう呟いたのは、一体双子のどちらだったか……

「おねえ、さん」
「?どうしたの?」

それよりも――ごめんなさい。一体どれくらい時間帯が変わったのか教えてくれる?

目を擦りながらそう言うアリスに、双子は顔を見合わせて――同時にボリスを振り返った。
その困惑した表情に、ボリスは肩を竦め、でも今この場所でこの面子で、説明できるのは自分だけだというのも理解していた。

「おはよう、アリス。ごめん、アリスがここで眠り始めてどれだけ時間帯が変わったのかは分からないけど、」

今アリスに、どんなことが起こってるのかは話せるよ。

ボリスがそう言うと、アリスは不思議そうに首を傾げた。
「仕事が、」と呟いたアリスに、ボリスは首を振る。



「―――初めまして、アリス=v



ボリスが放った言葉に、双子は揃って顔を背けた。

「俺はボリスだよ。ボリス=エレイ」
「……何を言ってるの?そんなこと分かるわ」
「で、こっちがトゥイードル=ディーとトゥイードル=ダム」
「ボリス?」

少しだけ怒ったように顔を顰めるアリスのその顔を、ボリスと双子はよく知っていた。
あまりに……あまりに遠すぎる昔≠ノ、いつだって見てきた顔だ。
双子は未だ座ったままのアリスを見下ろして、双方口に出さずとも(全然違う)と同時に思った。

これはお姉さんじゃない。
お姉さんだけど、お姉さんじゃない。

どうして見た瞬間に気付かなかったのだろう。
見ただけで違うと分かるのに、どうしてその瞳を覗き込むまで気付かなかったのだろう。
言い訳するなら、ここがそういう国だから。
自身の時間を自由に進めたり戻したり、そういうことができる国。
そして同じ人物が同時に存在できない国。
軸を通して様々な自分が存在しようと、自分と自分は同じ場所には存在できない。
そういう前提があったから、ボリスと双子は失念していた。

今目の前にいるのがアリスだと、疑わなかった。

「ねぇ、なんなの?ボリスが何を言ってるのか理解できないわ」
「…………」


「久しぶりだね、兄弟」ディーが呟く。
「そうだね。久しぶりだよ兄弟」ダムが呟く。


「――余所者は、久しぶりだ」

「――え?」


双子の囁きは、アリスの耳にはっきりと聞こえた。


「元々どこにいたのか分かんないけど、あんた、弾かれみたいだぜ?アリス」

「―――――――――」

「俺はあんたのことを知ってる。すっげー昔に、あんたじゃないけど、あんたと過ごしたから」
「な、に――」

言って―――


「もう殆ど余所者って感じじゃないな。そこまでこの世界に馴染んでるなら、多少世界の仕組みも理解してるだろ?それとも、一から事細かに説明した方がいい?」

あんたは俺の知ってるアリスじゃないけど、一応アリスだから説明してやるよ。



「とりあえず、スペードの国へようこそ。懐かしい余所者さん」



取り合えず一歩目をぴょんっと

material from Quartz | title from Abandon | design from drew

拍手ありがとうございました。

2015.11.17