ベッドから起き上がり、ころんとポケットから転がったそれに、アリスは大きく目を見開いた。
ころころと床を転がるそれには見覚えがあって、恐る恐るそれに手を伸ばす。

「なん――」 で

手のひらに小さく乗る小瓶。
中身は失ったときと同じく一杯に液体が溜まっており、ハート型のキャップは開きそうにない。

(なんで……)

アリスは再度同じことを思った。
考えても考えてもその結論が分かるはずなどなくて、小瓶を持つ手がふるふると震える。

(だって、これはあの時――)

もう随分前の話だ。
小瓶が一杯になって元の世界に帰ろうとした時、ブラッドはアリスを追いかけてきた。
夢と現実の狭間で怒鳴り合っている内に、風に攫われ失ったはずの小瓶。
プロポーズとも言えないプロポーズをされ、無理矢理結婚させられたのは本当に昔のことで、今の今まで小瓶の存在など忘れていたというのに……



ちゃぷん……と、一杯になった液体が瓶の中で揺れる。

あの時、確かに取り返したかった小瓶だ。
何が何でも帰りたかった、アリスの世界。
置いてきた責任が胸の内に広がって、アリスは小瓶をぎゅっと胸元で握りしめる。

が、

そこからのアリスの行動は早かった。
無理にでもテンションを上げるために、お気に入りのワンピースを引っ張り出して袖を通す。
シックで落ち着いた雰囲気のそれ。
あの水色のエプロンドレスは、もう長いこと着ていない。
どこに仕舞ったのかも――正直覚えていない。

アリスは小瓶を握りしめたまま、勢いよく自室を飛び出した。





□■□





「ねぇ、それって壊せないの?」
「……これは君の心だ。壊そうと思って壊せるものじゃない」

気だるげな様子で小瓶を弄ぶブラッドに、アリスは不安そうな表情で「私の心?」と呟いた。
執務椅子に腰掛けたままのブラッドは、「どこでこれを?」とアリスに尋ねながらもその視線は手元に注がれている。

「起きたらポケットから転がってきたの」

私にもよく分からないわ。

すっと執務机の前から移動して、アリスはひょいっとブラッドの背後からその首筋に抱きついてみせる。
今のアリスにとって、この小瓶は何か恐ろしいもの≠セった。
不安な心を抑えるべく、夫を盾にして小瓶を見下ろす。

「ブラッドが持っててよ、それ」
「まぁ構わないが……」

背後から抱きつき擦り寄ってくる妻に、ブラッドは溜息を吐きながら「卑怯な……」と呟いた。

「卑怯?何が?」
「君が、だ」
「はぁ?私の何が卑怯なのよ」
「この小瓶は君の心で、中に溜まっているのは元の世界に置いてきた責任感」

君が元の世界に帰りたくないというのなら、この小瓶は二度と君の前に現れたりしないし、もしくは瓶ごと砕け散る。
だが今こうして小瓶が君の手元にあるということは、君は未だ元の世界に未練があるということだ。



「……………」

ブラッドの言葉に、一拍遅れてアリスは「へぇ」と感心したように声を出した。
全くよく色々知っている男だと思いながら、アリスは「で?何が卑怯なの?」とブラッドの耳に唇を寄せる。


「……そういう所が、卑怯だ」


ブラッドはちらりとアリスを一瞥した後、また盛大な溜息を吐いた。
ころんと机の上に小瓶を転がして、立ち上がり、振り向き、自身が贈ったワンピースを身に纏う妻を軽々抱えてベッドへと移動する。
ぼふんと音を立てて二人ベッドに転がりながら、ブラッドはぐいっとアリスの腰を引き寄せその後頭部にキスをした。


「元の世界に未練があるという現状が腹立たしい」
「……別にそんなつもりないけど」
「だから卑怯だと言っている」

突然ブラッドの部屋に飛び込んできたアリスの表情はこの世の終わりみたいな顔をしていた。
あまりの悲壮な表情に、「どうした」と声をかけて立ち上がる前に、彼女はブラッドに「なんとかして!」とその小瓶を差し出したのだ。
差し出されたそれには見覚えがあって、できるなら二度と見たくなかった代物。
何故今更という思いと同時に、アリスに対して「まだ帰りたいと思っているのか」という怒りが湧き上がった。
だがそれもほんの束の間で、当のアリスは不安そうな表情でその小瓶をブラッドに差し出していた。
「今更こんなもの出てきても困るわ」という表情に、アリスが帰りたい≠ニ思っていないことを理解してブラッドは困り果てる。


「ここに居たいと思っているからこそ、君は私の所に来たのだろう?」
「当たり前でしょう!?今更帰りたいなんて思っていないわ。大体私がここでそれだけ過ごしていると……」
「まぁ……結婚してからの方が長いくらいの時間だな」
「……あれを結婚したと認めるのは癪なんだけど、実際はちゃんと夫婦だと思ってるからいいわ。そう、それなのよ」

帰らないからね!?

叫ぶアリスの頭を、ブラッドは優しく撫でながらその胸元に手を当てる。
大分世界に馴染んだが、未だ余所者。
心臓の音がどくんどくんとブラッドの手に伝わって、だがあまりに世界に馴染みすぎた身体は完全に余所者とは言い難い。
例えば今、本気で元の世界への帰還を望み、小瓶を手にしていたとしても、彼女が元の世界へ帰れる可能性は限りなく低いだろう。
実際今の彼女は帰りたくないと望んでいる。
それなのに何故――今になってこの小瓶が手元に戻ってきてしまったのか、ブラッドにもよく分からなかった。


「あんな不吉な物、私持ってるの嫌よ」
「……君の心なんだが」

「目に見える心なんて気持ち悪いじゃない」と身も蓋もないことを言う妻に、ブラッドは苦笑し「まぁそれもそうだが」と言葉を濁す。

「私、いらない。ブラッドが持ってて」
「……………」
「そりゃ確かに、絶対微塵も未練がないなんて言わないし、今だって少し元の世界を思い出すことはあるけれど――」


それが手元にあることによって、勝手に帰らされるという事態だけはごめんだわ。


「だからブラッドが持ってて」というアリスに、ブラッドは短く「分かった」とだけ返事をした。
例えブラッドが小瓶を持っていても、それは数時間帯すればすぐアリスの手元に戻ってしまうだろう。
だが彼女はその度小瓶をブラッドに押しつけにくるに違いない。

アリスはブラッドを好いている。
誰よりも何よりも。
だからこそ――――――



(だからこそ――――?)



ふっと脳内に何かが引っかかって、ブラッドは眉を顰めた。
何か失念している気がする。
ふっと机の上に視線を向けるも、その小瓶は転がったままだ。


「あ、そう言えばブラッド。引っ越し後の地形はもう安定した頃かしら?」
「……あぁ、そうだな」
「じゃあまた次の時間帯から散策してくるわね」

よっと身体を起こすアリスの背中を見つめながら、ブラッドは「気を付けて行きなさい」と言った。
「子どもじゃないのよ?」と口を尖らせるアリスに、「そうだな」とその腕を引く。

「では、外出はもう5時間帯ほど遅らせてもらおう」
「え?は、ちょ、どこさわっ―――!」

ブラッドに押し倒されながら視界に入った窓の外。
引っ越しで変わった地形。

何故か―――あるはずのない黒薔薇≠ェ見えた。



過去から逃げ切ることも未来を素通りすることも

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

魔女≠ノなる前。

2016.01.22