がばりと飛び起きるように目を覚まして――アリスは「はっ」と咳き込むように息を吐く。
息を吐き出すと同時にたらりと首筋を嫌な汗が滴り落ちて、アリスはすぐにベッドから飛び降りた。
全てを誤魔化すようにぶんぶんと頭を振って、時間帯を確認しようと窓の方へ視線を向ければカーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。


「――――」


嫌な夢を見たと―――アリスは水差しを手に取ってそれをコップに注いだ。
口を付ければ、ひんやりとした水分が喉元を潤して気持ちがいい。


嫌な夢を見たと――アリスの目元にじわりと涙が溜まる。


酷い夢だった。
今にも吐き出しそうな酷い夢。
ぼろぼろと零れる涙が止まらなくて、アリスはすぐさまベッドの中へと滑り込む。

シーツをぎゅっと握りしめて、枕に顔をすり寄せればブラッドの匂いがする。

「ぶ、ら―――っ」

ブラッド。
ブラッド。
ブラッド。

胸の内で何度呼んでも、ブラッドはここに来ない。
彼はきっと今頃屋敷で仕事をしているはず。
何件か立て込んだ仕事があるとエリオットも言っていたし、アリスもそれを分かってここに来たのだ。

ブラッドがアリスのために購入した家。
アリスが余所者だった頃、何のしがらみもない夫婦として過ごすために用意してくれた家。
ブラッドは屋敷の主だし、アリスは教会の主であるが、それぞれの自領を持ちながらもブラッドとアリスはこの家を遣い続けた。
それはアリスの希望であり、ブラッドにとっては妻と夫婦で過ごせる唯一の場所。

あの頃からこの家は何も変わらないし、使用頻度こそ昔から言えば減ったかもしれないが、ベッドに互いの匂いが薄れない程度には使っている。
我が子が生まれた時などは、ほぼここで育てたくらいだ。
第一子も第二子も、幼少をこの家で過ごしたせいかここを実家≠ニ呼ぶし、三番目の子は事情があって屋敷で育てたが、それでもパパとママの家≠ニいう認識はあるらしい。

ここは夫婦の家であり家族の家だ。
ブラッドとアリスの、ある意味全てが詰まっている。


「ブラッド――」と声にならない声で夫の名前を呼べば、顔を押しつけている枕の染みが更に大きくなった。

あぁもう私の馬鹿。
何で今日に限ってここにいるのよ。

ブラッドもいなければ子ども達もいない。
エリオットもディーもダムも、使用人も誰一人としていない家の中。
ここに存在するのはアリスだけで、その空気の冷たさに彼女の寂しさはどんどん増す。

(喧嘩なんかするんじゃなかった……)

いや、喧嘩はまだしも屋敷を飛び出すべきではなかった。
もしくは教会に行けば良かった。
何を思って夫婦の家に帰ってきてしまったのか、そこには追いかけてきて欲しいという期待があったのかもしれないけれど、それを認められるほどアリスは素直じゃない。

(でもでも、喧嘩の理由はブラッドが悪いわ。5時間帯で帰ってくるって言ったのに、8時間帯も出かけっぱなしで――)

しかも出かけた先はブラッドの事を気に入っているご婦人がいる屋敷だった。
ブラッドがアリスと夫婦になって長い。
おまけに三人の子持ち。
既婚者で大きな子どもが数人しても未だにモテ続けるのは一体何なのか。
顔か。顔なのか。それとも財力?もしくは権力?

あぁもうやっぱり全部ブラッドが悪い!!!

ぼふん――と、枕を叩いてアリスは歯を食いしばる。
ブラッドが悪いのだ。

帽子も服装も奇妙でセンス悪くて、おまけに紅茶狂いだし面倒くさがりで日中寝てばかりだし、娘には日がな一日デレデレして何でも買い与えちゃう親バカの鏡みたいな男でも、実はそういうポーズで仕事は人一倍やってるし、真面目だし、娘にデレデレなのは間違いないが、叱るところは叱っているし特別悪い教育をしているわけじゃない。
顔よし、頭よし。金もあれば権力もあって、夫としても父親としてもこれと言った欠点は見つからない。
娘二人どころか息子にさえ「結婚するなら父さんがいい」と言わしめた男だ。
結論、格好良い。

ぼふん――と、再度枕を叩いてアリスは「馬鹿じゃないの」と呟く。

それこそ昔は顔がいいだけで欠点しかない男だと思っていたのに、こうして過ごしていく内に欠点という欠点が見当たらなくなってしまった。
男として、夫として、父として、申し分なさ過ぎるアリスの夫はどこまで行っても完璧だ。

だからこそ歯がゆい。
だからこそ不安になる。

平凡なアリスに、あの夫は似合わない。
あの夫に――平凡なアリスが似合わないのだ。


むくりとベッドから身体を起こして、アリスは先ほど見た夢の内容を思い出す。
あまり詳細には思い出せないが、言われた内容と人だけはしっかり覚えていた。


『好きだよ、アリス。僕と結婚してくれないか――?』

「―――――」


思わず「死ね――」と、思ってしまったアリスは大分マフィアに染まっている。
駄目だ駄目だ、そんなことを思ってはいけない。
いかに気色悪く吐きそうでも、相手には何の罪もない。

(先生の顔なんて……久しぶりに思い出したかも)

そもそもあんな顔だっただろうか?
あんな声だっただろうか?
あんな言葉遣いで話す人だったかも覚えていない。

とにかく、アリスが抱いたのは不快感。

遙か――遙か遙か遠いとおーーい昔なら、まぁ言われたかった言葉かもしれない。
ぽかんと口を開けて、ぼっと赤面するくらいには嬉しい言葉だったかもしれない。
趣味の悪い水色のエプロンドレスを着て、頭にリボンなんか乗っけちゃって、子ども全開だった自分なら喜んだだろう。

だが今の自分はどうだ。
外見は多少成長したが、それでも20代前半程度の外見で時間が止まってしまっている。
生きた時間だけで言えばきっと何十年という時間をここで過ごしているだろうし、おまけに既婚者。そして子持ち。
三人も生んでおいて「結婚しよう」くらいで赤面できるほど乙女じゃない。
しかも三人生んだ過程には長い長ーーい経緯がある。
性癖面で開発し損ねたものはない。多分。
ブラッドはおかしい
それに付き合った自分も大分おかしいのだが、付き合わされただけなので罪は軽いはずだ。多分。―――多分。


嫌な夢を見た――と、アリスは寝室を後にした。
顔を洗って、寝癖を整えて、普段着に着替えて屋敷に戻ろう。
ブラッドが迎えに来てくれなかったという事実には一抹の寂しさを覚えているが、仕事が立て込んでいるということも知っているので仕方が無い。
彼は組織のトップなのだ。
妻一人の癇癪全部に付き合っていられるほど暇な人じゃない。


ブラッドと先生を比べてみる。
先生がブラッドに勝てる所は何だろう。
昔は誠実な人だったのだと豪語したこともあったが、もう恋心も何もない今では誠実どころかただの優柔不断だと断言できるし、正直誠実さならブラッドの方が上だ。

アリスはブラッドに惚れている。
夫婦になって子どもができて、家族であってもアリスはブラッドを男として愛している。


(あぁ、ほんと―――)

私ばかりが――――ブラッドを好きだ。


ブラッドに相応しい女であり妻になりたい。
そのための努力を、全くしなかったわけでもない。
もちろんブラッドからの愛を感じていないわけじゃないが、それでも自分の方がよっぽどあの男を好きだと思う。

それが口惜しくて寂しいと思う程度には、アリスも未だ子どものままだと言うのに。



「……ブラッドの馬鹿」

出て行った妻を追いかけてこないなんて酷いわ。
悪い夢を見たのだって全部ブラッドのせい。
今ここでアリスが泣いているのも、寂しい思いをしているのも、全部全部あの男が悪い。


「ばか」

馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。
ばかばかばーか。ブラッドのばーか。

ブラッド。ブラッド。ブラッド。


「ばか――――」


寂しい。
ブラッドがいない空間は寂しい。
ブラッドが傍にいないと、愛してくれないと、アリスはいつも死んでしまいそうな気分になる。

でもブラッドは違う。
ブラッドはアリスがいなくても平気だ。
アリスはいつも、仕事に出かけたブラッドをまだかまだかと待っているのに。
仕事と私、一体どちらが大事なのよ――なんて。
まさかこの自分が、そんなアホくさいことを思う日がくるとは………


寂しい。
ブラッドの馬鹿。
5時間帯で帰ってくるって言ったのに、8時間帯も帰ってこなくて……それに怒った奥さんを迎えにも来ない冷たい旦那。

ば、か―――



「ブラッドのばか!!!!!」


思いっきり叫べば、少しは気が紛れる気がした。









「馬鹿は君だ」

「――――――」


だから目の前にブラッドがいることに気付かなくて、あぁ本当その通り。馬鹿は私だ。


どれだけ愛されても、アリスの心は満ち足りない。
結婚しても、子どもができても、時々アリスは異様なほど不安になる。

浅ましいと思った。

ブラッドを疑って、ブラッドが信用できなくて、でも自分が疑われると腹立たしいし、信用されてなかったら悲しく思う。
自分ばかりがブラッドに何を与えている気になっていて、その逆はないんだと拗ねる自分は浅ましい。

絶対そんなことないはずなのに。
ブラッドから貰ったもの、未だ貰い続けているものはあるはずなのに。
時々それが見えなくなって、アリスはこうして癇癪を起こすのだ。


ブラッドにぎゅううっと抱きつけば、彼は溜息を吐きながらもアリスの頭を撫でてくれた。
その手が酷く優しくて、アリスの不安は加速し孤独が増す。

アリスはブラッドの全部が欲しい。
そしてそう思うことは強欲が過ぎる。
分かっていても、感情だけは止まらない。


「面倒な……」
「っ、だ――」って――


降ってきた口付けに、アリスは堂々甘えて縋り付く。
もしこの瞬間ナイフでも握っていようものならば――



アリスは迷わず、ブラッドの背中にそれを突き立てただろう。



あと一歩先で僕の愛は君を殺す

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

ブラッドの全部が欲しいアリスさん。彼女の愛は振り切れると危ない方向に行くと思う。依存、執着。
何をしても寂しさは埋まらない。

2015.10.23