夜会はあまり好きじゃない。

軽い人だかりができている夫を遠くの方から見つめながら、アリスは一人溜息を吐いた。
夫に連れられ愛想笑いを浮かべながら、やることはやったし妻としての義務は果たせたと思う。
ブラッドはこういう場にアリスを連れて歩くのをよく好み、本人曰く見せびらかしたい≠ニのことだが、どうにもこの華やかな雰囲気がアリスには合わなかった。

何より、いつまでたっても減らない…夫に好意を向ける女の視線が痛すぎる。

ひそひそと聞こえる悪態に気付かないふりをして、くいっと煽った果実酒はまずい。
ブラッドが持っている酒はどれも上等なもので、飲む機会があればそれしか飲んでいないアリスの舌はどうやら肥えすぎている。
美味しくないというより最早まずいとすら感じたそれに思わず顔を歪めると、背後に控えていた一番部下が「奥様のお口に合いそうなのを見繕ってきましょうか?」と親切にも声をかけてくれた。
若干不機嫌の域に差し掛かっていたアリスが無言で頷くと、彼女は「すぐにお持ちします」と言い残して人混みの中へと消えていく。

その後ろ姿を見送りながら壁際へ寄り、背中を預けると、ひんやりとした壁の冷たさが幾分かアリスの感情を和らげてくれた。
遠目に見える夫はだるそうに、それでも律儀に人を捌いていく。
だんだん女性が増えているのは気のせいじゃない気がするが、それも最早いつものこと。
だがあまり見たい光景ではないのでふいっと視線を逸らすと、逸らした先で――じっとアリスを見つめている女性を目が合った。

大きく背中の開いた、エメラルド色のロングドレス。
美しい金髪は一つに纏められ、晒されている肌は珠のように滑らかだ。
アリスに向かってにっこりと微笑んではいるが、その目はやたらと好戦的で、彼女が自分の敵だと認識するのにさほど時間はかからなかった。

ゆっくり此方に向かってくる女性の立ち振る舞いは上品で、すれ違う度に男性が振り返っている。
役の無い人なはずなのに、はっきり美人だと分かる女性のオーラは凄まじい。

「こんばんは、奥様」

目の前に立った――女性の身長はアリスより少し高い。
それでもその差は若干程度であるはずなのに、アリスはどうしてだか見下ろされている気分になった。

「…えぇ、こんばんは」

負けじとにっこり微笑んだアリスに、女性は更に笑みを深くする。
一瞬背中に突き刺さった視線。
それが夫のものであることにアリスは気付いていたが、彼女は決して振り返らず、目の前の女性をじっと見つめた。

ブラッドがアリスに隠していることは多い。
見せたくないものもそれ同等に。

この女性はブラッドにとってそういう存在なのだろう、と――誰に言われずともアリスは察していた。
少しばかり傷ついた感情をアリスは綺麗に隠してみせる。

何も知りませんよ。何も関係ありませんよ。
夫の妻はこの私です、と――――
長い時間の中で身につけてしまった、マフィアのボスの妻としての顔を貼り付けて、アリスは女性と談笑に花を咲かせる。

夫が自分に辿り着くのが早いか、彼女が自分に斬り込んでくるのが早いか、あらゆる状況を覚悟して、アリスは微笑み続ける。

「先日、ブラッド様がわたくしの屋敷においでくださいましたの」
「――――そうですか。それは、存じませんでした」
「申し訳ございません。奥様に一言お断りをいれるべきでしたわね」

くすりと微笑む彼女は、申し訳ないなんて1mmも思っていない。
ブラッドが彼女の屋敷を訪れたということ知らなかったのは、本当だ。

「前の前の夜に――来てくださいましたの」
「………」
「今度は奥様にもお声掛け致しますわ」

前の前の夜。
確かにいなかった。
仕事だと言って…でもそのくせエリオットも連れずに出て行った。
自ら出向くなんて珍しいこともあるものだと――ベッドの中から見送った記憶は新しい。

勝ち誇ったように微笑み続ける女性に、素知らぬふりしてアリスは「是非」と答える。
笑顔は貼り付けていられてるだろうか。
全身の血液が下がる思いをしながらも、アリスは強がる。

今更だと思った。
アリスが恋して愛し、嫁いだのはそういう男なのだ。
分かっていたことだ。今までだって、そういう素振りがなかったわけじゃない。

こうして面と向かって言われたのは、初めてだけれど。

(何か…別の話題……)

このまま無言になってはおかしい。
でも挨拶とか世間話程度のものは話したし、何か話題…
ここで会話が途切れたら――負けだ。

それはアリスにとって何よりの屈辱だった。
心の中で歯を食いしばって俯く。あくまで心の中。
外面は、穏やかに笑みを浮かべる完璧の淑女―――を保っている、はず。


「奥様」


がやがやとした賑わいの中、奥様と聞き慣れた声がアリスの耳につく。
表面上はゆったりと――でも心の中でははっとして声の方へ視線をやれば、喧嘩を売ってきたご婦人の後ろに自分の部下が立っていた。

「お飲み物を用意してきたのですが…お話中でしたか。今すぐそちらのご婦人の飲み物も――」

ご用意致しますね、と微笑んだ部下の方へと顔を向けたご婦人≠ヘ、はっと顔色を変えて一歩後ずさる。
アリスは女性の視線が自分から外れたことに、一瞬ほっと息を吐いた。
有り体に言えば安心した。さすがは自分の腹心だと、夫とは違う安心感を抱く。
アリスの部下もまた――目を見張るほど美しい美女だ。
そもそもこの世界の人間は顔面偏差値が高すぎると思う。
その中でもとびきりの美女。今ほどこの部下が自分に仕えてくれているのを感謝したことはない。

「いえ、もうお話は終わりましたから…わたくしは失礼します」
「そうですか?…あ、奥様こちらを。ボスの部屋にあるのと同じ銘柄のものがありましたから」

いつも飲んでいらっしゃるものですから、きっとお口に合いますわ。

部下から差し出されたグラスを受け取り「ありがとう」と答える。
「それでは」と逃げるようにして去って行ったご婦人の後ろ姿を見つめながら、とりあえず落ち着こうと飲み物に口をつけると―――



「…まず」
「でしょうね。絡まれていらっしゃるのを見て…適当に取ってきたお酒ですから」

さらっと言い放つ部下の目は冷たい。
視線の先はさっきのご婦人だ。
ブラッドの部屋うんぬんというのが出任せだと分かったアリスは、受け取ったグラスを再度部下に押しつけながら「喧嘩を売られたわ」と愚痴を零す。

今度こそ、歯を食いしばって俯くアリスに、部下は「殺しましょうか」と冷淡な声で言い放つ。
まったく、自分の周りはどうしてこうも好戦的な人間ばかりなのか。



「アリス」



壁に背を預け、俯き、顔を片手で覆って脱力していたアリスの耳に、今度こそ待ち構えていた声が響く。
部下よりもアリスに駆け寄るのが遅い…アリスの夫だ。

「……ブラッド」

だが今回はハズレだろう――とアリスは自嘲する。
聡い彼が、どうしてこんなことが分からない。
分からないほど焦っているのか、分からないほど隠したいのか。

今この瞬間アリスに駆け寄ってくるなんて――あの女が言った事が本当だと言っているようなものじゃないか。

「……顔色が悪い。大丈夫か」
「………」
「また何か、言われたのか?」

アリスが余所の女に喧嘩を売られることは珍しくない。
その度傷つき、時には憤慨することもある。
そしてその度にブラッドはアリスを慰めにくるのだ。
気にするな。殺してやろう。愛している。
そう、いつものこと。
今この瞬間だって、ブラッドにとってはいつものことかもしれないがアリスには違う。

来て欲しくなかった。心配そうな顔をしないで欲しかった。

これが帰り道ならいつものこと≠ナ終わらせられるのに、夜会の最中でそんな風に心配されたのは初めてだった。
だからこれはいつものこと≠カゃない。
ブラッドは心配している。アリス本人ではなく、自身の秘密事を。

だから―――

「――何もないわ、大丈夫よ?」

ブラッドの手を取り、いつものように#笑んでアリスは告げる。
隠し事が上手いのはブラッドだけじゃない。
アリスだって…上手くなった。
ずっとブラッドと一緒にいたのだ。彼を誤魔化せるくらいには――マフィアのボスの妻として、成長している。

ふと背後で、部下が溜息を吐いているような気がした。
だが何も進言しない所を見ると、私の意思を汲んでくれるらしい。

「いつも通りよ」と囁くアリス。
そんな妻の顔を見つめる夫の表情はよく分からない。
「…それならいいんだ」と疲れたように息を吐いて、エリオットを呼びつけ「だるい帰る」とアリスの手を引く。

繋いだ体温は暖かかった。
そのぬくもりにアリスは一瞬泣きそうになって――ぐっと堪える。
部下が何かを言いたげな顔をしていたけど、アリスの心には届かない。
このままブラッドに縋り付いて、大声で泣いたら可愛げのある女だっただろうか。
それとも面倒くさいと切り捨てられるのだろうか。
分からない。分からないけどアリスは泣かない。縋らない。

(ブラッド―――)

夜道を歩く夫の背中に、心の中で問いかける。
振り向いてくれたら…全部打ち明けようと思いながら。

屋敷に帰り着くまで、アリスは何度もブラッドを呼んだ。


彼は一度も――振り返らなかった。






□■□





「ブラッド、出かけるの?」
「ん?あぁすまない。今立て込んでいてな。だがすぐに戻る」
「心配すんなよ、アリス!」

夜の時間帯。
玄関先で外出準備をしていた集団の中に、夫の姿を発見して慌てて駆け寄る。
今回はエリオットや双子も一緒に行くようで、はしゃぐ双子を窘めるのにエリオットは必死なようだった。
これだけの大所帯で出かけられるのは久しぶりだと、アリスは思わずブラッドの腕を掴む。

「帰ってきたらお茶にしよう。準備をして待っていてくれ」

そう言って微笑むブラッドを、アリスは心配そうな目で見つめる。
ぎゅっと袖口を掴めば宥めるように頭を撫でられ――――軽く抱きしめられた。

「行ってくるよ」

「アリス!にんじんケーキよろしくな!」
「じゃあね−、お姉さん!」
「お姉さん、行ってきまーす!」

元気よく出発する夫と友人…約一名はだるそうだったが、いつものことなのでこれはいい。
ぶんぶんと手を振る双子にアリスも力なく手を振り返す。
いつもは心配で堪らなくなる瞬間だが、アリスの頭は違うことで一杯だった。

(また…なかった)

「行ってくるよ」と告げた夫は、アリスを抱きしめただけ。
いつも降ってくる口付けが、ここ最近は全くないことにあの男は気付いているのだろうか。

気付いているに違いない。故意でないわけがない。
隙さえあればすぐに手を出してくるような男なのだ。
これで気付いてなかったら、自分に魅力がなくなったのかと悲観する所だが、最近のは故意だとアリスは確信している。

(なんで―――)

あの夜会の日から、ブラッドはアリスを抱かなくなった。
同じベッドに入って眠ることはある。
キスも――している。挨拶のように。
でも時々、本当に時々だが、普段なら確実にキスが降ってくるような場面でそれがなくなった。

さっきアリスは精一杯強請ってみせたのに。
じっと見つめて、袖口を引っ張って…声には出さなかったが賢明に訴えたのに。
ブラッドはそれを見過ごした。

(なんで―――)

じわりとアリスの瞳に涙が溜まる。
あの――夜会の時に喧嘩を売ってきた女の方が良くなったのだろうか。
彼女と夫の間に何かがあったことは分かっている。
ブラッドは何も言わないけど、それが分からないほどアリスは子どもじゃない。
だが実際それは無いということも――アリスは知っていた。

何故なら…あの日アリスに喧嘩を売ってきた女は、次の時間帯に焼死体として発見されたからだ。
そしてそうしたのがブラッドであるということも――アリスは知っている。








噎せ返るような血の臭いに、どこかの女王が好みそうな赤。
血だまりの中後始末に追われる部下達を眺めながら、ブラッドは出かけ際…少なからず思い詰めた表情のアリスを思い出していた。

演技が上手になった。隠し事も上手になった。
袖口を引いてキスを強請るほど素直になって、この変わらない世界で彼女は美しく変化する。
ブラッドにとってアリス以上の女はいない。
アリス以上に欲しい女など存在しない。

アリスだけが絶対唯一。ブラッドはちゃんと自覚している。

純粋で、真っ白な彼女を自分の色に染めてしまいたかった。
汚して、穢して、十分過ぎるほど自分を染み込ませたはずなのに、アリスはやっぱり白いまま。
だがその白さが好きだった。美しいと思った。得がたくて、愛おしい。
汚れきった世界と汚れきった自分。
その中で、あれほどまでに白い彼女が自分のモノだと思うと堪らなくなる。
ここ暫くブラッドはアリスを抱いていない。
そのことにアリスは十分戸惑っているが、実際のところ戸惑っているのはブラッドも同じだった。
抱きたいと思うのに、触れることができない。

自分が隠していたことを思いも寄らぬ所で悟られそうになって、勢いのままその元凶を殺した所までは良かった。
だがブラッドには、自身が隠していたことをアリスが知ったのか、それとも知らないままなのかを確かめる術がない。
当人に聞くなど以ての外だし、元凶は勢いに任せて殺してしまい、ここで初めてブラッドは「失敗した」と思った。

あの女との関係は、ブラッドにとって思い出したいものではない。
酷くつまらない退屈で面倒なことだった。
これから先の仕事に必要でなければ関わることもしない女。
そこそこ役に立ったから、身の程をわきまえるなら生かしておいてやろうと思ったのに、まさかアリスに接触するなど万死に値する。

素知らぬふりをして、夜会が終わった直後にでもブラッドはアリスを抱いておくべきだった。
仕事の内容を知られたくないという感情が先走って、大事なものを後回しにして事態の収集をつけようと急いだ結果がコレ。

ブラッドには自分の感情さえいまいち把握できていない。
抱きたいなら抱いてしまえばいいのに、何故かそれを脳が拒否して触れられない。
やりたいことをやりたいようにやるのが信条なのに、今のブラッドはアリスに対してそういう人間でいられない。

汚れて――しまいそうな気がする。

アリスが。

汚したかった。穢したかった。染めたかった。
だが決して汚れない染まらない、自分の女が好きだ。
今アリスを抱いてしまったら、自分の知らない色がついてしまいそうで…有り体に言えば怖かった

マフィアのボスが情けないことだとブラッドは自嘲する。

アリスに離れられるのが怖いなど…馬鹿馬鹿しい。
離すつもりなど毛頭無い。
ブラッドが怖いのは…

アリスに好きでいてもらえなくなることだ。

一度手に入れた彼女の心が、離れていくのが惜しかった。








一方アリスは唸っていた。
本当にこれでいいのかと頭を悩ませ心を苦しめ…(なんで私がこんな事しなきゃいけないのよ)と壁に頭を打ち付けたい気分になる。
いやだがしかし…時には羞恥心も投げ捨てる必要があるだろうと自分を叱咤し窘める。

(大体ブラッドが悪いのよね。何を隠れてこそこそこそこそ…不誠実な夫だわ)

しっかり稼ぐし浮気もしない、誠実な夫でいると誓ったくせに。
ブラッドはアリスに嘘を吐かない。聞けば必ず答えてくれる。
そう、どんなに自分が不利になろうとも、ブラッドは嘘だけは吐かなかった。
だが隠しはする。アリスに見えないように。見せないように。
マフィアの仕事であったり組織の闇だったりそれは様々だが、ブラッドが見なくていいと判断したものを、アリスも見ようと思うことはなかった。

だが今回は別だ。女関係は殊更別。

「……浮気、になるのかしら」

誰もいない部屋でぽつりと呟く。
寝た寝てないは考えるのをやめよう。でもキスくらいしたかもしれない。
美しい人だった。アリスなんかが逆立ちしたって勝てないような人。
滑らかで傷一つない白い肌に、眩しいほどの金髪。
大きく背中の開いたドレスは魅惑的で、立ち振る舞いだって難癖つけられないほど上品だった。

対してアリスはどうだろう?鏡を見て、アリスは思わず顔を顰めた。
不細工とは言わないが特別美人というわけではない。
年齢的に可愛いという印象も感じられず、何というか…こう、普通の人妻だ。
名前も知らない彼女を比べると、私の方が役無しな気がする。
胸も…あの女性ほどないにしてもそこそこある…が、肌の方は所々傷があってお世辞にも綺麗とは言いがたい。
髪の色だって、栗色なんて中途半端だ。眩しくない。まるで濁っているような色の髪を、アリスはくいっと引っ張ってみせる。
ドレスはブラッドが選んでくれたものだったので文句はないが、あんな露出の多いドレスはとてもじゃないが着れやしない。
立ち振る舞い?もうなにそれ美味しいの状態だ。舞踏会で夫を蹴り飛ばしたこともあるくらいなのに。

鏡の前で、アリスは自己嫌悪の波に揺られ続ける。
うんうん唸って、本当にこれでいいのかと自分の行動を窘めるも、今のアリスにはこれ以上の案が浮かばない。

―――――次は、私が選んだものに興奮して頂戴

あぁ言った。言ったともさ。
随分前のことになるが、アリスはブラッドにそう言った。

鏡の前。自身で選んだナイトウェアを着て一人赤面する。
恥ずかしいと言えば死ぬほど恥ずかしい。
こんなこと、ビバルディには相談できてもクリスタには相談できなくて、結局アリスは一人で選んで用意した。

色は無難に黒にしてみた。
淡い色のものも可愛かったが、あまりに可愛らしすぎて手に取ることができず、無難に無難にと思って選んだ結果がこれ。
所々についているフリルやレースもそこそこに可愛いし、少し大人っぽさが際立つものだが年齢的には丁度良い。
透け具合については言及しないでおこう。着ることが恥ずかしいことには変わらない。

これで抱いてもらえなかったらどうしよう。

ふと考えて、思わずアリスは真顔になる。
ブラッドは――私のことが好きじゃなくなったのかもしれない。
飽きてしまったのかもしれない。
何と言っても女に関しては選り取り見取りの選び放題な立場だ。
アリスなんかより良い女はいくらでもいる。
私は貴方のモノだとか、貴方は私のモノだとか…どれほど言葉で誓い合ったって人の心は移ろいゆく。
移ろうことを止められないのは、他人であろうと自分自身であろうと変わらない。

ブラッドと違って…ブラッドに捨てられたらアリスに行く所なんてないのに。
帰る場所だって、どこにもない。

アリスは役付きで領主。自領と呼べる土地は存在するし、アリスが頼めば住まわしてくれる友人だってきっといるだろう――
だがそれでもアリス自身が居たいと願うのは帽子屋屋敷だ。
帽子屋屋敷のここ。ブラッド=デュプレの自室。ここの主の隣だけ。

するりと普段から寝床にしている夫のベッドに滑り込み、シーツを被りながら寝そべった。

(すぐって言ってたもの。もう帰ってくるわよね…?)

ブラッド達が出て行って、3時間帯が経過している。
彼の「すぐ戻る」が、大体2時間から3時間帯くらいが目安だということに気付いたのはいつからだっただろう。

(…それくらい、待ってるのよね)

いつも待っている。アリスはいつも…待つだけだ。
でも待っていることくらいしかできないことも、理解していた。
それが嬉しいと言ってくれたブラッドは、今もそう思っていてくれてるだろうか。

(証明してみせて。ちゃんと証明して。私のことが好きだって。私だけだって。何があっても何を隠していても、私のことはちゃんといつも求めてるって、証明して)

浮気したら許さない。だがアリスが知らない以上は浮気じゃない。
隠していてくれるのなら浮気じゃないから、ちゃんと隠して、その上でちゃんと証明してみせて。
私に言及させないで。私に問い詰めさせないで。
そしたらちゃんといつまでも、素直で可愛い奥さんでいるわ。

白黒はっきりさせないと、居心地が悪くて嫌だった昔の自分。
今では白黒をつけられるのが怖い。
曖昧にぼかしたままでもいいからここに居たいと、情けなく縋る私を昔の私が見たら、どれほど嘆くだろう。

だがアリスはこれでいいと思っている。
あの日あの瞬間…自身の心臓をブラッドのために投げ捨てた時から、どんな形になっても彼のために生きると決めた。
自領の教会に植えた白薔薇の花言葉に誓った。

結局アリスはブラッドを信じたいのだ。
ブラッドには自分しかいないと。
信じたい。信じている。

信じさせてくれ―――と、アリスは願う。








アリスの予想通り、ブラッドはその時間帯のうちに帰ってきた。
うつらうつらと船を漕いでいたアリスだったが、扉の開く音にふっと意識を浮上させ起き上がろうと身体を起こす。
が、いつの間にか近寄ってきていたブラッドに「そのまま寝ていて構わないぞ?」と頭を撫でられベッドへと押し返された。

「おかえりなさい、ブラッド。……待っていたの、起きるわ」
「ただいま、奥さん。今回の仕事は退屈だったな。双子が遊び足らないと騒いで…そちらの方が大変だったくらいだ」
「…貴方の仕事は退屈なくらいが丁度良いわよ」

かすかに漂う硝煙と血の香りに、アリスは一瞬だけ顔を歪めた。
「怪我は?」といつものようにブラッドの上着を脱がそうとシーツから這い出てきたアリスに、「何もないさ」とくすりと笑ったブラッドの顔が固まる。

「?」

そのブラッドの様子に、首を傾げたのはアリスだった。
ブラッドの上着に手をかけて、脱がそうと引っ張るも彼は動かない。
「ブラッド上着脱がないの?」また出かける予定があるの?と問うと、一拍遅れて「…アリス」という何とも言いがたい声色が耳に入った。

「なに?」
「いや…なんというか……」
「?」
「珍しい格好をしているな、と思ってな」
「……!!」

ばっとブラッドから手を伸ばし、ベッドの上で後ずさる。
そうだったそうだったそうだった。
半分寝ぼけていた頭を完全に覚醒させたアリスは、自分の顔に血が上がってくるのを自覚した。

「こ、これは…その、」
「誘っているのかな?奥さん」

ずりっと後退すれば、ずりっとブラッドが前進してくる。
にまにまと笑いながら手を伸ばしてくるブラッドに、アリスは真っ赤な顔して「違うわよ!」と声を張り上げた。

「…違うのか?」
「ち、ちが……いや、違わ、ない、け、ど……」

違わないけど…

真っ赤な顔をして俯くアリスの頬に手を添えて、ブラッドはゆっくり顔を近づける。
唇と唇が触れそうな距離になって、ぎゅっと目を瞑ったアリスは酷く可愛らしい。
そのまま噛みつくようなキスをして押し倒してしまおうと、ブラッドはアリスに触れようとした瞬間――



「――――――」



躊躇った。



何故、躊躇ったのかブラッドには理解できていない。
落ちてくるはずの口付けが落ちてこないことを不審に思ったアリスがそうっと目を開けると、ブラッドは難しい顔で視線を落としている。

ゆっくりと離れるブラッドの顔。そして自身の頬に添えられていたブラッドの手。

離れる。温もりが失われる。
アリスは血の気が引くような思いがした。
だがそれ以上に―――


「っ―――」


抱いたのは怒りだった。





パァン…と、乾いた音が部屋に響く。

衝撃で傾いた自分の首。
叩かれたと認識できたのは一瞬で、はっと視線を前へと向ければ、そこに大きな目からボロボロと涙を零して歯を食いしばるアリスの姿がある。
ブラッドを睨み付け、嗚咽を零さないようぎりっと唇を噛みしめる彼女の姿は痛々しく、とてもじゃないが見ていられない。



「…――」



ぼそりとアリスが何かを呟く。
涙も拭わず、ただブラッドの顔を睨み付けて、まるで泣き叫ぶかのように言葉を放った。




「意気地無し…っ!!!」




叫んだ――アリスの腕を引いて口付ける。
口付けられた彼女は抵抗するわけでもなくブラッドの侵入を許し、溢れる涙をそのままに瞳を閉じた。
腕を伸ばし、乱暴に胸の膨らみを掴みながら着ているものを剥ぎ取っていく。
アリスは何も言わない。ブラッドも何も言わない。
甘言など言える雰囲気ではなく、ただひたすらと焦りだけがブラッドの胸を焦がしていく。

余裕など微塵もなかった。
ただ抱かなければいけないと思った。
十分に濡れてもいないそこに乱暴に楔をねじ込んで、痛みに泣くアリスをひたすらに掻き抱く。



「い、た…いたいっ……やだブラッド!」
「………っ」
「ふ…ぁ、や」

暫く突き動かしていれば湿ってきたそこに安堵して、ブラッドは欲望に忠実のまま腰を打ち付ける。

簡単な行為だ。
アリスを抱くことなど、簡単な行為。


今更―――?


今更何を恐れる必要があるという。
アリスの心臓を、アリスの特別を奪っておいて、今更何を恐れればいい。
恐れなければいけないのは、アリスがいなくなること。
だがアリスは今後一生ブラッドの傍を離れることはない。離れることなど許しはしない。
だったら、恐れることなど何もないじゃないかと、ブラッドは笑う。
好きでいてもらえなくなるかもしれない?
そんなもの…そんなことを考えて戸惑っているから―――


意気地無し


その通りだ。情けない。
散々傷つけてきたくせに。

出会った時から今までずっと、散々傷つけて泣かせてきたくせに。
だがそれでいいと。自分のことで傷つくのならば構わないと。
傷つき、泣いて、叫んで、壊れても――手放すつもりなんか毛頭ないのに。

悲鳴のような嬌声を上げるアリスを見下ろして、滴る汗をそのままに、ブラッドはくつくつと笑った。

「なぁ、アリス」
「あっあっ…ゃ、ああぁ!」
「今、私は酷いことをしたい気分なんだ」

君が悪い。君がそんな格好をして、私の加虐心を煽るから――

おまけに「意気地無し」ときた。
全くその通りで、それが面白い≠ニブラッドは感じる。


「構わないだろう?」


酷いことをしても。


耳元でそう囁き、がくがくと首を縦に振るアリスの腰を持ち上げる。
更に奥を突いてやれば一際高い鳴き声が室内に響いて、ブラッドは更に笑みを深めた。






□■□





「…酷いわ」
「あぁ、私は酷い男なんだ」
「最低よ」
「そうだな。最低だ」
「大嫌い!離婚よ!!」
「私は君が好きだ。離婚はしない」

ベッドの上。
ぐずぐずと泣くアリスを抱えるように抱きしめて、ブラッドは彼女の後頭部に口付ける。

「うそつき」
「嘘じゃない。あの女とは何もないよ?」
「嘘吐き!エリオットも連れずにあの女のお屋敷に行ったくせに!」
「あぁ、美味い紅茶を出してくれるというから思わず釣られて――」
「誤魔化さないで!!!!!」

「だがしかし本当のことだ」と言うブラッドに、アリスはどんどんと彼の胸板を叩く。
浮気者。裏切り者。と泣くアリスを愛おしげに抱きしめるブラッドは酷く上機嫌だ。
結局ブラッドがどうして何をあんなにアリスに対して躊躇っていたのか、アリスには分からず仕舞い。
力一杯ブラッドを殴打しながらも、安心している自分自身にアリスは殊更腹が立った。

「この寝衣は君が選んだのか?」
「っ当たり前でしょう!?相談する人もいないのに!!」
「じゃあ次は私が選んだものを――「二度と着ないって言ってるでしょこの馬鹿!!」――やれやれ、ご機嫌斜めだな」

斜めにもなるわよ!!

ぼろぼろと溢れる涙が止まらない。
不安だった。死んでしまいそうなほど不安だった。
捨てられると、一瞬本当にそう思って愕然としたのだ。

「ブラッドが悪いのよ!?」
「あぁ私が悪かった」
「あんな、あんな――っ」
「意気地無し、は耳に痛かった。反省している」
「次にこんなことがあったら許さないわ!私に対しては誠実でいるって約束でしょう!?」
「もちろん誠実な夫で有り続けるよ。昔も今もこれからも、ね」
「私がブラッドの奥さんなの!私が一番で私だけが――「そうだな。私の妻は君だけだし?こんなに愛しているのも君だけだ」――っ」

「捨てたりしないよ。飽きたりもしない。嘘も吐かないし浮気もしない。隠し事はするが――これは君が知らなくても問題ないことだ」

ゆっくりとアリスの頭を撫でる手は優しい。
すんっと鼻を啜りながら、「…それでいいのよ」と呟くアリスの頬に手を添えて、ブラッドは口付けを落とす。


「貴方の机の上に、部下に調べさせたあの女の情報があるの」
「………」
「捨てておいて頂戴」
「…見ないのか?」
「見ないわ。本当に浮気していたら傷つくのは私だし、浮気していなかったら貴方を信用できなかったって自己嫌悪に陥るのは目に見えているもの」
「ふむ。私も君に心労を与えるのは遠慮したいな。処分しておこう」

それにしても……

アリスの頭に顎を乗せ、ブラッドは苦虫を噛みつぶしたような顔で深い溜息を吐く。


「君の部下は……優秀過ぎて困るな」


「隠し事がしたいならもっと上手く隠すことね、旦那様」


頭をずらして首筋へと手を伸ばせば、今度は躊躇わずにキスをしてくれた。



一番近い真実との情事

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

アリスに「意気地なし!」って言われるブラッドが書きたかっただけ。

2015.08.06