夫婦になってから、喧嘩の仕方が意固地になったと思う。

ブラッドの部屋の扉の前で、ぎゅっと歯を食いしばりボロボロと涙を零すアリスに、エリオットはおろおろと彼女と彼女の夫を見比べた。
アリスの夫であるブラッドは険しい顔で執務机に向かい、アリスに視線を向けることなく仕事をしている。
間のソファーには半分焼け焦げた白いドレス…次の次の夜の時間帯に行われる舞踏会のために、ブラッドがアリスにと用意した一級品だ。

「…早く出て行ったらどうだお嬢さん=v
「っ」

アリスでも、奥さんでもない…お嬢さんという呼び方にアリスの肩がびくりと震える。
泣いているアリスに冷たい言葉を吐き捨てるブラッドは本気で不機嫌で、ここでエリオットがアリスに手を差し伸べようものなら問答無用で蜂の巣にされてしまうだろう。
だが目を真っ赤にして泣いているアリスを放っておけるわけもなく、「そ、そんなに怒らなくても…」と口を出すと、今にも射殺されそうな視線で睨まれた。

「お嬢さんは、お嬢さんの白ウサギが大事で堪らないらしい。城へ送り届けてやれ、エリオット」
「お、送り届けるって……」
「そんなに白ウサギの所に行きたいのなら行けばいいと言っている。気の済むまでいればいいさ」

アリスの涙は止まらない。
それでも嗚咽を零さないように歯を食いしばっている彼女の姿が痛々しくて、とりあえずここにいるのはやめようと判断したエリオットは、ブラッドに「わ、わかった」と返事をしてアリスの腕を引いた。

ぐらりと簡単に傾いたアリスの身体が転んだりしないように、肩を抱いて部屋の外へと促す。
普段こんなことをしたら絶対怒り出すブラッドも、今以上の怒りを露わにできないのか、それとも怒り狂っているからこそなのかアリスを見向きもせずに自室の更に奥へと引っ込んでいった。

バタンと閉じられた扉の音がやけに大きく響く。
顔を覆って泣くアリスの肩を抱いたままのエリオットは、部屋の前で待機していた複数の使用人達を見つめて「どうするよ、これ」と困った顔で視線を巡らせる。
だが同じように困った顔した使用人達も、首を振ったり傾げたりするだけで、声を上げて本格的に泣き始めたアリスを目の前に途方に暮れた。







ペーターがアリスに着て欲しいドレスがあると見せてくれたのは、今から15時間帯前のことだった。
随分前にビバルディとショッピングをした際、ふと目にとまり気になっていたドレスを、一緒に付いてきていたペーターが覚えていたのが始まり。
「舞踏会もあるので丁度良いかと思って」と白ウサギが用意してくれたそれを、アリスは素直に喜んだ。

ハートの城の領土にあるお店のものをブラッドに買ってくれとは言い辛く、かと言って自分で用意するには気後れしてしまって(何せ隣に立っていたのはビバルディだ)ほとんど諦めていた矢先のことだった。
ブラッドの用意してくれる衣装はいつも自分好みので外れたことはないし、自分も気に入ったドレスくらい何着か持っているからそれでいいかと思っていたのだが、予期せぬプレゼントにアリスは女の子らしくはしゃいでいた。

それを知った――独占欲と嫉妬心の人一倍強い夫がどれほど不機嫌になるかなど、その時のアリスは全く思いも付かないほど浮かれていたのだ。

「屋敷の方に送っておきますね」というペーターに「ありがとう」とお礼を言って上機嫌で城を後にした。
その後ばったりエースに遭遇し5時間帯ほど時計塔への道を粘り強く教えたり、 一体どこからやってきたのかジョーカーもといブラックさんと遭遇してお互いの近況を報告し合ったり、 その現場をボリスに目撃されて「あんた…凄いね、アリス」とよく分からない視線を向けられて若干居心地が悪かったとか、そんなことがあっても苛立たないほどには上機嫌だった。

屋敷に帰ってきたら珍しく門番がちゃんと仕事をしていて、エリオットも相変わらずにんじんばかり食べていたしブラッドも紅茶ばかり飲んでいた。
ドレスはまだ届いていなかったようだったけど、そのうち届くだろうとメイドに言付けすることなく一度自室へ戻り…ちょっと一息ついている間にうたた寝をしてしまった。

結果、その間に贈り物は届いてしまった。
白ウサギからアリスに荷物が届いているとブラッドの耳に入ることとなり、説明した末あの大惨事だったというわけだ。



自身が気に入ったドレスをたまたまペーターが用意してくれただけ。
アリスは白ウサギを自分の家族だと思っている。
アリスの案内人であり、アリスが愛した姉の時間。
アリスにとって白ウサギは親兄弟に等しく、白ウサギもまた――愛の示し方は確かに重いがベクトルとしてはそういう愛情をアリスに対して向けている。

決して不貞行為ではない。
ペーターの方だって、そういう打算的な思惑は決してなかったはずなのだ。

だがブラッドにそんなことは分からない。
彼は激高した。アリスに対して。

ブラッドが怒るのも、その怒りに対してアリスが怒るのも、決して珍しいことではない。
ブラッドはブラッド自身が一番正しいと思っているし、アリスにしてもまた同じ。
似たもの同士の二人は喧嘩を始めると止まらないし、怒鳴り合いに発展することだってある。

だが今回、ブラッドは一度もアリスに怒鳴らなかった。
アリスもまた、ブラッドに怒鳴る機会をなくした。

喧嘩をして、一度離れて、少し涙することくらいならある。
ブラッドが悪いのよ!!と怒りからくる涙腺の綻びはそれほど珍しいことではないし、気に留めるほどのことでもない。
だが今回は違った。零れ落ちた涙は、今までのどれにも当てはまらなかった。

広げられた…ペーターに貰ったドレス。
ソファーに手をかけ、カチンという音をたてて火のついたライターをブラッドは冷たい目で放り投げた。
何するのと言いかけて…息を呑んだのはアリスの方で、火のついたドレスはあっという間に黒く焦げ落ちていく。

一瞬―――息が止まった。

何秒か、何十秒か、分からないけど息ができなかった。
燃えていくそれを見たら涙が出てきて…そんな自分を冷たい目で見るブラッドの視線が、また更にアリスの心を抉った。


「いらないのだろう?」


燃えるドレスを一瞥して、ブラッドはそう言った。


「君は白ウサギに用意してもらったようだからな」


左側のソファーに広げられたペーターからの贈り物。
ドレスが焦げて、ソファーにまで火が移り始めたのは右側だ。

ブラッドはドレスに火をつけた。
ブラッドがアリスのために用意した――ドレスに火をつけた。

いらないと判断して、燃やした。

これがペーターに貰ったドレスの方だったら、アリスは「何するの!」と叫んで火を消し、ブラッドを詰り、罵声を飛ばしただろう。
だがブラッドは、ブラッド自身が用意したそれに火をつけたのだ。
アリスにまだ…贈ってもいないドレス。
ブラッドがアリスのために選んだ、アリスに贈るはずだったそれを―――





□■□





「器量の狭い男め…首を刎ねてやりたい」
「そんなこと言わないで、ビバルディ……私が軽率だったわ」

ハートの城。
客室の一室を与えられたアリスは力なく笑いながら、ビバルディが手ずから淹れてくれた紅茶を口に含む。
「駄目だってアリス!」と引き留めるエリオットを押し通してハートの城へと移ってきたアリスだったが、
本当にこれで良かったのだろうかと不安に思いながら息を吐くと、「やめておしまい、あんな男」とビバルディの冷たい声が降ってきた。

「離縁するなら手を貸すぞ?婚姻関係を結んだ事実などないように戸籍も綺麗にしてあげよう」
「……………」

駄目よ。やめて。

思っているのに声はでない。
離れたくない。別れたくない。離婚なんてもっての外だし考えたこともない。
だがアリスが「やめて」と言うのは違う気がした。
アリスはブラッドに「出て行け」と言われたのだ。
離婚したがっているのはもしかしたらブラッドの方かもしれない。
こんな女に愛想が尽きてしまったのかもしれない。

見たこともない冷たい目だった。出て行けなんて初めて言われた。
燃やしたのはペーターの選んだドレスじゃなくて、ブラッドが選んだドレス。
そうだ。それが答えだ。きっと私は嫌われたのだと――アリスの目尻に涙が浮かぶ。

「あぁ…もう泣くなアリス」

全く…あの×××××め。××して×××してやろうか。

苛立ちと心配を含んだ声色でビバルディが危ないことを口走る。
だがいつものようにアリスはそれを咎めることができない。
まだまだ枯れない水が頬を濡らして、何か声を出そうものなら嗚咽が漏れてしまいそうだった。

ブラッドはアリスを迎えに来ない。

それが全ての答えのような気がして、アリスは身の引き裂かれるような思いだった。


「次の時間帯には舞踏会が始まる。そこでちゃんと話し合うのだ、よいな?」
「………」
「見捨ててこのまま城にいればよいと言いたい所だが、あんな男がいないだけでそこまで心を痛めるお前を放っておくこともできぬし…」
「………」
「何よりお前に付いている役≠ェ城に引き留め続けることができん。わらわは女王。お前は魔女。相反する役≠セからな」
「…ごめんなさい、ビバルディ」
「今のお前は、魔女の仕事でここに来ておるのだ。わらわは客人の相手をしておる。そういう建前。その関係から逸脱するのはルール違反。お前もこの世界は長い……わかるね?アリス」
「わかるわ。危ない橋を渡らせてごめんなさい…」

舞踏会には出るわ。役付きは全員参加。それがルールだもの。

「その通り。だが気の済むまでここに滞在しているといい。お前もわらわも、職務を全うしているだけじゃ」

建前は、使えるだけ使っておけばいい。

かたりと席を立ったビバルディは、近くにあった小さなベルを鳴らしてメイドを呼んだ。
音もなく即座に現れたメイドを一瞥して、「この子に舞踏会のドレスを」と短く告げて再度アリスに向き直る。

ペーターから貰ったドレスは屋敷に置いてきてしまった。
折角用意してくれた彼にも申し訳なくて、また涙がにじみ出る。
だがブラッドにあそこまでされて、ペーターからもらったドレスを着る勇気などアリスにはない。

「普段の格好で舞踏会に出るわけにはいかん。わらわが選んだドレスなら、着てくれるだろう?」

大丈夫。お前は可愛いから何でも似合うよ。
それこそ、帽子屋が選んだものよりも格段にな。

そう言って微笑む女王様は見惚れるほど綺麗だった。
遠い昔、アリスは余所者ではなくなり魔女≠ニいう役が付いた。
だが今でも彼女は変わらずアリスに微笑んでくれる。
冷酷無慈悲なハートの女王。
だがアリスにとって彼女はかけがえのない友人であり、姉のような存在であり、誰も知り得ぬことだが家族だった――
ブラッドとアリスが繋がっている限り、ビバルディはアリスの家族。

どんな役でもどんな立場でも、アリスとビバルディはいつだってお互いを想っている。










アリスがビバルディに慰められている一方で――帽子屋屋敷の内情は悲惨なことになっていた。
上司の機嫌は急下降し続けるばかりで、彼の一挙一動にびくびくするオレンジのウサギ。
何か不興を買って休みが給与が減らされては堪らないと、門前で仕事に勤しむ双子の子ども。
普段はだるだる〜っとした使用人もいつになくてきぱき動き働き、なるべく口を噤みながら日々の職務に精進していた。

だがそんな彼らの態度でさえ、ブラッド=デュプレの機嫌を降下させる要因となる。
アリスは白ウサギ――もしかしたら女王かもしれなが、いけ好かない連中を頼ってハートの城。
出て行けと言ったのは自分自身なのに、本当に出て行かれるとこれまた腹立たしいと手に持っていたグラスを勢いよく壁に叩き付けた。

パリンと割れたそれを片付けるのは億劫で、片付けさせるために人を呼ぶのも億劫だ。

アリスのいない空間は無機質だ。
いつから自分はこんなに弱く情けない人間になったのか、アリスがいないと全てが退屈で面倒でだるく感じる。

足を放り投げベッドに身体を沈めながら、無意識に手を伸ばすと普段はあるはずのぬくもりがどこにもない。
その行為さえ無意識だったが、それに気付いてしまうと酷く馬鹿馬鹿しくて殊更に腹が立った。

アリスはブラッドを怒らせる天才だ。
逆に機嫌を取るのも天才的だが、そういう風に、ブラッドの感情の振り幅をここまで操れるのは彼女だけ。
元余所者。今は自分たちと同じ存在。余所者であった時からの――自分の妻。

面倒極まりない――とブラッドは思う。
人生の墓場とはよく言ったものだ。
こんな面倒事をこの先もずっと抱えていかなくてはいけないなんでだる過ぎる。

だがブラッドはこの面倒を手放さない。
面倒事が何より嫌いなはずなのに、それでも絶対に手放さない。

手放したくない。手放せるわけがない。

ブラッドは、面倒という名のアリスを愛していた。

口が悪けりゃ足癖も悪い…頑固で生真面目で融通が利かなくて、プライドが高く生意気で…かと思えば根暗で自己嫌悪が激しい面倒な彼女。
だがそれでも愛しているものは愛している。
それら全てが、アリス=リデルという人間を構築しているとブラッドは知っているからだ。

ブラッド=デュプレはアリス=リデルを愛していた。
他の何より誰より彼女を理解して、彼女の本質に触れて、余す所なく全てを垣間見て、納得して愛している≠ニ思ったのだ。

そう例え――白ウサギから贈られたドレスをアリスが気に入っていて見るからに喜んでいても、だ。
あぁあんなに腹の立つ事態はなかったと幾分冷静になったブラッドはそう思う。
アリスの涙に心が動かないほど怒りで頭が染まっていた。
部屋を出て行った扉の外で、耐えきれなくなって上げた泣き声でさえ、この怒りの前では無力だった。

アリスを喜ばせるのも、傷つけて泣かせるのも、世界で自分だけでいいと思っている。

白ウサギに与えられた喜びを、ぐちゃぐちゃに踏みつぶして傷つけ上書きしてやりたかった。
白ウサギに貰ったものを燃やしてしまえば、アリスは白ウサギのために怒るのだろう。
だがそれではブラッドの怒りも感情も執着心も収まらない。
だからブラッドは最大の方法で最大限にアリスを傷つけた。

ブラッドはアリスに愛されている。
アリスはあれでも――ブラッドがいれば何もいらないと思うほどブラッドを愛しているのだ。

ブラッドはそれを自覚している。
アリスが自分は何よりブラッドに愛されていると自覚しているように、ブラッドもまたそれを自覚していた。

ナイトメアはそれを恐ろしい≠ニ言った。
夫婦の絆なんて生やさしいものではない。
恋とも愛とも呼べないようなお互いへの感情は、時にお互いの理性さえ凌駕する。

アリスはブラッドのために時計≠ノなった。
ブラッドのために心臓を投げ捨てた時点で、アリスの時計はブラッドのもの、ブラッドの時計はアリスのものだと彼らは思っている。



「ブ、ブラッド〜?そろそろ舞踏会の時間…なんだけど……」

コンコンという控えめなノックの後ガチャリと開いた自室の扉。
返事もしない内に開けてはノックの意味がないだろうと思ったが、それでもきっとノックしても返事がもらえないだろうと思ったが故のエリオットの判断。
そしてそれは正しい。これがもし普通の使用人だったら撃ち殺していた。

「…あぁ、今行く」

ベッドから起き上がり上着を羽織る。
ソファーの上には焦げた残骸となったドレスと、白ウサギから贈られてきたドレスがそのままの状態で転がっていた。
一瞬アリスは衣装をどうするだろうとも思案したが、そこはあの傲慢な身内が気を利かせるだろうと思って放置する。

こうしてみると、存外ブラッドの怒りは持続していた。
今すぐアリスを迎えに行かないほど、アリスのためにドレスを再度用意することがないほど、そこそこにブラッドは怒っていた。





□■□





自分の足が震えて、立っていられないのが分かる。

「あの××××××」
「陛下ーちょっと凄いこと言い過ぎです」

周囲の声を聞きながら、「大丈夫ですか!?アリス!!あの男…今すぐ殺しましょう!!僕が殺します!」と叫ぶ白ウサギに支えられてアリスは目の前が真っ赤になる感覚を覚えた。


アレハ ダレダ


煌びやかな会場に心地よい音楽。
沢山の料理が並んだテーブルはどれを見ても美味しそうで、談笑に花を咲かせる貴婦人や紳士は賑やかだ。
美しいドレスを身に纏い、くるくると回る女性達が眩しい。
誰も彼もが楽しそう。こんなにも胸の内を黒く染め上げているのは、きっとこの会場で私だけだとアリスは思った。

正装した夫は相変わらずだ。
奇抜な服装を脱いで、帽子も外して…外見が整っている分普通の格好をしていると若く見える。
相変わらず――見惚れるほどには格好良い。口惜しいことに。

アレ≠ェ私に惚れているなど、昔は到底信じられなかった。
暇つぶしと称して手を出されて、だらだら爛れた関係を続けて、これといった決定打のないまま無理矢理結婚させられて――
夫となっても女性方からの贈り物の数は減らない。
それがまた憎らしくて、こんな男のどこがいいと、本気で思って…贈り物をぞんざいに扱う夫がこれまた許せなかった。
実際その届いた贈り物を大事にされると…どうせ私は傷つくくせに。

それでも彼への見方が変わってきたのはいつだったか。
隣で歩いていると誇らしくなってきて、街中で彼への悪口が聞こえたら憤った。
変な格好だと、私だって散々に言ってきたくせに、いざ他人に彼をそう評されると侮辱された気分になるのだから矛盾している。

だるそうに見えても、本当は真面目にいつも仕事をしていると知っている。
気の短いようで本当は気が長いことも、身内には甘くなる癖も、一度好きになったものはずっと好きで、全然飽き性なんかじゃないことも。

ブラッドを、知れば知るほどアリスは好きになっていく。
その頃にはちゃんと自覚して、時々悪態をつくことがあっても素直に自分の気持ちを表現できていたとアリスは思う。
私はブラッドが好き。ブラッドは私が好き。

ちゃんと信じていた。
組織のボスとして尊敬もすれば、夫として男として、ブラッド=デュプレという人間をアリスははちゃんと愛していた。

だからこそ――――今見えている光景が、アリスには信じられなかった。

あの男が、あの夫が―――
自分以外の女の腰に手を当てて、耳元で何かを囁いているその姿。
顔が見えなくても美しいと分かるその女性は、頬を赤らめて微笑を零し、白く細い腕を男の腕へとするりと絡める。
まんざらでもなさそうな夫の表情に、アリスは思わず「許さない」と呟いた。

誰にも渡さない。

例え捨てられたって、嫌われたって、飽きられようとも、あの男の時計は私のものだしその逆も然りと覚悟してアリスは心臓を捨てたのだ。
私が勝手にブラッドを好きになっただけ、なんて…そんな関係ではない。
そんな風に割り切って、自己犠牲よろしく黙って耐えて生きていられるような人間ではなくなってしまった。
自分をこんな人間にしたのはブラッドで、そういう人間に変わったのはアリス。

あの頃の――俯いて、黙って、我慢して、涙を我慢してそれが賢い選択だと思い込んでいた幼い自分ではないのだ!


「ま…アリス!」


勢いよくブラッドの元へと走るアリスの背後で、ペーターの声が聞こえた。
「うむ…女はそうでなくてはな」というビバルディの呟きはアリスの耳には入らず、薄い桃色のドレスを着た帽子屋の妻は一目散に夫の元へと駆け寄った。

そこでまずアリスがしたことは……


「ぐっ…!?」


ヒールの高い靴を履いた脚を全力で持ち上げ、夫の背中を蹴り飛ばすことだった。



その光景を遠くで見ていたボリスはあんぐりと口をあけ、咥えていた魚をぽろりと床へと落とす。
「わーさすがお姉さんだね」「うん、さすがはお姉さんだよ兄弟」とこちらも半ば遠い目をしながらそう呟く双子に、ボリスは「まじで?」と間抜けた声を出して突っ込んだ。
さらに会場の隅では、にんじんを頬張りながらたまたま上司が蹴飛ばされるシーンを目撃したウサギが反射的に銃を構えそうになったものの、蹴飛ばしたのが彼の妻だと認識した瞬間、こちらもケーキを皿ごと落として唖然とする。
約一名…皆が驚愕したその光景を目撃した男は(見なかったことにしよう)と心に決めたが「あはは!見た?今の見たよねユリウス!さすがアリスだ!!」といつの間にやってきた友人の到来により、彼の心優しい決意はものの数秒で意味を成さなくなってしまった。


そのまま前方へ転倒…顔面を床に打ち付けてしまえとまで思っていたが、さすがはマフィアのボス。
数歩前方へよろめいただけで倒れはしない。
むしろ彼に絡みついていた女性が転びそうになったくらいで、こちらはアリスが彼女の腕を掴むことによって難を逃れた。
顔のない女性は唖然とアリスを見つめていたが、それが帽子屋の妻であり役付きの魔女≠ナ分かるとさっと顔を青くして身を翻す。
アリスはそんな彼女を引き留めるつもりもなく、ぱっと手を離せば慌ただしく女性は人混みの中へと消えていった。

残ったのは夫に冷たい目を向ける妻と、妻に背中を蹴り飛ばされ前屈みの態勢になっている夫だけである。

「……足癖が、悪すぎると思うんだが」
「えぇ、そうね。貴方のせいよ」
「どこが…私のせいなのかな?私はただ、具合が悪いというご婦人に優しくあちらの椅子へ案内しようとしていただけなんだが」
「貴方が?優しく?きれーな女性に腕を絡められて払いもせず、こともあろうか腰まで抱いて?へぇ〜?」

数時間帯ぶりにあった妻には見向きもしないくせに。

アリスがそう言うと、ブラッドはムッとした顔して黙り込む。
その目は冷たくはないが不機嫌だ。

そうだ。今回は――多分アリスが悪い。
だがブラッドも大人げない。かなり。
しかしブラッドがそういう人間なのは昔からで、それはアリスも知っていた。
それを失念していたアリスが悪い。多分。
いやむしろそんな夫の自分勝手さにとことん付き合ってあげているのだから、褒められてもおかしくはないと…正直思っている、が、アリスが悪いことにしておこう。
夫を支える寛大な妻だ。そういう体裁でいこう。

だけれど――――今この瞬間あの女性の件に関しては5000%ブラッドが悪い。

とりあえず、喧嘩をしたら素直になるのが一番だ。
自分もブラッドも頑固で意地っ張りだから、やればやるほど長引くし心が持たないと思う。
今回の喧嘩の発端はドレス。ならばアリスが先に謝るのが筋というもの。
それに、ブラッドはいつだってアリスが甘えれば許してくれる。

アリスはふぅと溜息を吐き、眉間に皺を寄せて不機嫌な顔する夫に向き直る。
乱れたドレスを手で直しながら、すっと一歩夫に近づきゆっくりと顔を上げた。


「私のこと…嫌いになったの?」


目尻に涙を一杯溜めて――そう問い自分を見上げてくる妻にブラッドは一瞬息を呑む。


「嫌になった?いらなくなった?」


また一歩近づきスーツをぎゅっと掴んでくる妻のあざとさは超一流だ。
一体誰がこんなことを覚えさせた…私か。いや多分姉だ。
しかし一番問題視しなくてはならないのは既にほだされかかっている自分だということにブラッドは気付いていない。


「―――」


声も出ず、ついにぽろりと一筋零れた涙にブラッドは(限界だ)とアリスの手を力一杯引き寄せる。
ぐらりと傾いた身体をしっかり支えながら城の奥へと誘導し、一晩中行われる舞踏会のために解放された客室へと滑り込むようにして入っていった。

もちろんその間にブラッドとアリスの会話はなく、ただ遠ざかる音楽と賑わいだけが二人の耳に入っていた。
自分の前では死んでも泣かない。弱みなど晒すものかと賢明だった余所者はもうどこにもおらず、随分と前から、ブラッドの隣にいるのは感情を表に出す、ブラッドの前では素直で可愛い世界で唯一の奥さんだけである。



薄い桃色のドレス。
彼女には少し子どもっぽいような気がしないでもないが、何を着ても似合うと思っているのでそれはいい。
本当は自分の用意したドレスを身に纏って、一緒に踊って欲しかった。
だが今言っても栓のないことだし、時間が巡れば舞踏会もまた訪れるだろうと――
ブラッドはアリスをベッドの縁に座らせ、顔を覗き込むようにしてしゃがみ込んだ。



「――…さっきのは、貴方が悪いわ」

ぐすんと鼻を啜りながら呟くアリスに、ブラッドは「そうだな」とあっさり認めて彼女の目尻に口付ける。

「ドレスの件だって、私、ペーターと、別にそんなつもりじゃ…」
「あぁ分かっている。君があんまりにも嬉しそうにしていたから口惜しかっただけだ」
「だからって貴方が用意してくれたものを燃やすことないじゃない。その上出て行けなんて…」

「酷いわ」と力なく呟くアリスに「傷ついたか?」と尋ねると「当たり前でしょ」という返事が返ってくる。
「それならいい…」と満足そうに言ったブラッドに、「やっぱり貴方って変よ」と彼の首に腕を絡めながらアリスは囁いた。

「傷つけたかったんだ。あんまりにも嬉しそうにするから」
「私が嬉しそうだと傷つけるの?」
「私のこと以外で嬉しがる必要などない」

「横暴!」
「そう怒るな」
「怒っていたのは貴方じゃない!」
「あぁそうだ。今も――怒っている」

起き上がってぐっと力を込めれば、アリスの身体は簡単にひっくり返る。
両手をベッドに押さえつけて――未だ不平不満を述べようとする彼女に深く口付けると、気の強い彼女は涙目でブラッドを睨み付けた。

「っ流されないわよ!」
「そうか?」

ちゅっちゅと顔面にキスを降らせ、時々思いついたように唇を割って口内を探る。
「ん…ふっ」と甘ったるい吐息が漏れ始めた頃にはまだ別の涙がアリスの瞳に溜まっていき、鬱陶しそうにブラッドが上着を脱ぎ始めると、その後はもう流されたも同然だった。












「アリス、ライターを取ってくれ」
「…ん」

ブラッドとの情事は嫌いじゃない。多分むしろ好きな方だとすら思う。
いや確かに体力が有り余っている絶倫の相手をするのは非常に疲れるのだが、慣らされたと言えば慣らされた。
情事後の気だるい身体を叱咤しながら、ベッドの脇に脱ぎ捨てられたブラッドの上着に手を伸ばす。
内ポケットの中からライターを取って身体を起こそうとすると、頭を撫でられ「寝ていなさい」という声が耳元で響いた。

「…つけてあげようかと思ったのに」
「自分でできるよ」

撫でられる感覚が心地よくて瞼が落ちる。
手元からライターをすくい取られると、すぐにシュッと火のつく音が聞こえ煙草の匂いが鼻を掠めた。

ごろりと寝返りを打ってブラッドの方へ向き直る。
未だ撫でる手に頬をすり寄せると、頭上から噛み殺したような笑い声が聞こえてきて「機嫌は直ったかな?お嬢さん=vと言われた。

「…貴方の方こそどうなのよ」

お嬢さんだなんて…酷いわ。

「あぁそうだな、奥さん。失言だった」

失言だなんて一欠片も思ってなさそうな声色でブラッドは言う。
からかわれているのだと判断したアリスは、ぺちりと夫の横腹を叩いて「それであの女誰よ」とパーティ会場での出来事を蒸し返した。

「ん?……あぁ、あれは取引先の令嬢だ。気に食わないなら殺すか?」
「…やめてよ。そんなことしたら帽子屋の奥さんは癇癪持ちのヒステリーだなんて噂を立てられるわ」
「いいじゃないか。嫉妬深い妻なんだと私は周囲に自慢できる」
「自慢になるの…?それ」

嫌そうに顔を歪めたアリスに触れるだけのキスを落としながら、ブラッドは「自慢になるさ」と至極楽しそうにそう言った。
だがブラッドはあの女性を殺したりはしないだろう。
取引先の令嬢と聞いて思い出した。確か年上の婚約者がいる…一度だけ挨拶を交わしたことのある貞淑なお嬢様だとアリスは記憶を思い出した。

(怒りで我を忘れていたのね。あんなに可愛らしいお嬢さん、普段なら見たら分かるはずだもの)

怖がらせてしまった。悪いことをしたとアリスは反省する。

「妻を嫉妬させたいんだと言ったら喜んで協力してくれたよ。彼女も婚約者と喧嘩中だったらしくていいスパイスになるかもしれないと言っていた」
「貴方を利用しようだなんて、強かなお嬢さんね」
「結構やり手だぞ?兄が二人いるが…跡継ぎには彼女をと言われているらしい」
「…じゃあお婿さんを取るのね」
「男の方も割と有望な人材だな。両方消してしまうには惜しいが……愛する奥さんが消してくれというのなら喜んで―「消さなくていいから大丈夫」―なんだもっと妬いてくれないのか?」

煙草を吸い終わったのか首筋に噛みついてくる旦那様の頭を撫でながら、アリスは顔を青くして身を翻していった女性を思い出す。
確かに…去り際には少し笑みを浮かべていたような――(演技派のお嬢様なのね)と関心していると、
ブラッドの手が太ももの内側を撫で始めたのに気付いてアリスは慌てて身を捻った。

「っちょっと!」
「なんだ?」
「もうしないわよ!?」
「まだ夜だ。構わないだろうあと3回くらい…」
「さんか…!?3回!?」

せめて1回どころか2回でもなくて3回!?

混乱する頭で精一杯夫の身体を押し返すも相変わらずびくともしない。
そうこうしている内に彼の指先が敏感な所を掠めて、アリスの背中が大きくしなる。
それを見過ごすブラッドではないし、そこまで反応されて止められるほど枯れてもいない彼は上機嫌でアリスの身体を貪っていった。



理解を求めない愛

material from Quartz | design from drew

夫婦になってからの二人の喧嘩はきっと長続きしない。蜜月夫婦。

2015.07.23