「ブラッドのことが好きなの?」と言う問いに、シルヴィアは「愛しているわ」と即答した。
「貴女はブラッド様のことが好きなの?」と問うと、アリスは数拍遅れて「分からない」と言った。

その返事は、「好きだ」よりも「愛している」よりも不愉快で、有耶無耶にされたというより「ブラッドを手放したくない」と叫ばれたようで、シルヴィアは思わずアリスの頬を全力で引っぱたいた。

パシンという乾いた音に、周囲はぎょっとした目で二人を見つめた。

唯一レイシルだけだが上機嫌に酒を煽っており、その目は二人を見てすらいない。
叩かれたアリスの首は曲がったままの状態で、その表情は今にも泣き出しそうだったが――彼女は結局涙を見せることはなかった。
叩かれた痛みの涙でも、叩かれて激高した涙でも年下に恥をかかされた涙でもない。
自分の発言が自分の情けなさを助長した。
アリスがアリス自身に向けた悔し涙である。
アリスはシルヴィアに対して一言もその行動を咎めなかった。
シルヴィアも後悔しなかったし、謝罪もしなかった。
レイシルだけが、「若いっていいねぇ」と脳天気に呟く。


泣きたいのは此方の方だと、シルヴィアは思った。
横からかすめ取られたのはシルヴィアの方で、言わばアリスが略奪者なのに。

恋ではない。愛はある。
彼の一番の理解者でありたいと思った。
彼の役に立ちたいと、願ってシルヴィアは努力した。
事実シルヴィアはそう在れたが、それは彼が、他人をこんな風に愛せると知らなかったからだ。
シルヴィアの知るブラッド=デュプレという男は、残酷で、冷徹で、自身の利益のためにしか行動しない男。
面倒事なんてまっぴらなはずで、足手まといが大嫌いで、一人の女に現を抜かす玉ではないと思っていたから、シルヴィアは自身の生き方を決めたのに。
それなのに――今シルヴィアの前にいる女は、人間として、女として、ブラッド=デュプレに執着されている。


こんな屈辱があるものか。


アリスとシルヴィアでは立っている土俵が違うからそれでいい?
違う。シルヴィアは自身にそう言い聞かせているだけだ。
同じ土俵に立ちたいだなんて、立ったら負けるに決まっているから。
だからシルヴィアは違う場所に立っている。
違う場所で一番役に立っていたいと思っている。
そうするしか方法がないから、シルヴィアはそうしているだけだ。
女として生まれたのだから、女として愛されたかったに決まっている。
でも無理だ。最初から無理だった。

だから生き方を変えた。でもそれで良かった。

だってブラッド=デュプレが――人を愛するなんて思わなかったから。

諦めたのはシルヴィアだ。
愛されようと努力をしなかったのは自分自身で、彼女にはそれが何より口惜しいことだった。

入った店は三店目。
日付はとうに超えていた。
















アリス=リデルは犬を飼っている。
アリスが犬と称するのは一人の人間だが、アリスはそれを犬と認識することで自身の常識を守っていた。
一年と半年弱。
だがもうその認識では自身の常識を守れなくなっていることに、アリスは薄々ではあるが感づいている。
依存や執着に似たその感情。
恋とも愛とも言い難い、だが自身の人生において一番手放したくない男の名前をブラッド=デュプレと言う。
本人に名乗られたわけでもないその名前は、アリスが学生証を覗き見て知った名前だ。
アリスはブラッドについてはよく知らない。
趣味趣向や性格、考え方、行動パターン、機嫌の上下やその善し悪しについては詳しいが、ブラッド=デュプレの時間≠ニいうものについては何一つ知らなかった。
時間。過去。そして未来。
アリスとブラッドは今≠セけを見て生きて、過去にも未来にも目を向けようとしない。
意図的に目を背けているという現状には、アリス自身きちんと気付いていることでもあった。
だがそれが二人を繋ぐ唯一であり、バランスであり、均衡であることもアリスは知っている。
精神的な依存や肉体的な関係、嫉妬し嫉妬されるほどにはお互いを想っていても、アリスとブラッドはその個人に踏み入ることができるほど勇敢ではなかった。
踏み入ったが最後、今まで通りでいれないと分かっている。
ブラッドがアリスの過去に踏み入っても、アリスがブラッドの過去に踏み入っても、絶対に何かが変わってしまう。
アリスの過去をブラッドは多少ながらも知っているが、あれはアリスの感情が暴走した結果のことなのでカウントはしていない。
実際ブラッドはそれからアリスに何かを追及したこともないし、アリスがそれに関して蒸し返すこともしなかった。
ブラッドは聞いていないフリをしてくれた。
アリスも自身の中で言わなかったことにした。
あの日ブラッドがアリスを無理矢理手籠めにしたことで、余計にその事実は有耶無耶になったと言える。



「一生そうしていられると、本気で思っているのか?」



シルヴィアの爪が引っかかったのか、頬に小さな切り傷ができたアリスに、消毒液を当てながらレイシルはそう呟いた。
かなりの酒豪らしい彼女は、飲んでいる分量が分量なはずなのに変わった所が一つもない。
てきぱきとアリスの手当てをするその行動は、酔っ払いとは到底思えなかった。



「一生、このままだと思っているのか?」
「……………」
「思っているのならその根拠は?と私は問いたい。彼自身の事を知ってはいても、彼の過去も未来も――今でさえ詳しく知らない君に、ブラッド=デュプレとこのまま一緒に居られると思える根拠が知りたい」

居られるなんて……思っていない。
居たいと思っているだけ。それはアリスの願望だ。
先の事なんて考えたくなくて、逃げているアリスにレイシルの問いは答えられない。



「まぁこれは、彼にも言えることなんだがね」



だが立場的に、君に問うのが正しいだろう。
出版社に勤めていて、今後の生活が変わらない君。
しかし相手は学生だ。しかも素性の知れない危ない男。
彼が時折外泊するのが、女を抱きに行っているだけだと思うか?
違う。彼は仕事をしているんだ。
彼の目的のために、願いのために、彼がやらなくてはいけないことは多い。
そして君はそれを知らない。
彼が望む限りこの生活は続くだろう。
だが彼の事情が変わればそれは終わる。
彼だけがこの生活を終える権利を持っているなんて、ずるい話だとは思わないか?

レイシルの言葉に、アリスは「だからと言って、私には何もできないわ」と言った。
もちろんその通り。アリスの言葉は正しい。
だがそれと同時に間違っているともレイシルは思う。


「だから行動しないのか?逃げていても何かが解決するわけではないのに?」
「―――――――」
「それは甘えだよ、アリス=リデル。そして人形の生き方だ。飼い主とペット……一体どちらがどちらか分からなくなっているぞ」


アリスが養っているからアリスが飼い主。
ブラッドが養われているからブラッドがペット。
だが終わらせる権限をブラッドが持っている分、その逆と言われても不思議はない。
気付かないふりをしていたのはアリスだ。
そしてそれを手伝っていたのはブラッド。


「お互い一歩踏み込めばいいのに。好転するか悪化するかは分からないがね」
「……………」
「だが何もしない選択よりはマシじゃないか?」


ぺたりと貼られた絆創膏。
こんなの、帰ってブラッドに見られたら何と言われるだろう。
きっと眉間に皺を寄せて、重々しく「どうした」と問うてくるに違いない。
というか、こんな遅くまでほっつき歩いている時点で、機嫌は最高潮に悪くなっていることだろう。
夕飯もお風呂の準備もしていない。
買い物もしていないから明日のお弁当だって作れないし、宥め賺すのが大変そうだ。



「なぁ、ルーナ。君もそう思うだろう?」
「……うるさいわね。私に聞かないでよ」

知らないわよ。
ブラッド様に捨てられようが捨てられるまいが、それで私の生活が変わったりするわけじゃないんだから。

ふんっと顔を背けて酒を飲む彼女は未成年だったはずだ。
いつの間にか制服を脱ぎ捨て着替え終わっている彼女は、その類い希なる容姿から未成年にはほとんど見えない。
ブラッドもそうであるのだが、彼の回りにはどうしてこれほど外見の整った美女が多いのだろう。

「好きにすればいいのよ、好きに。私はうじうじ悩むの好きじゃないの」
「……………」
「あんたは根が暗そうよね。ブラッド様のタイプがこんな面倒くさそうな女だとは思わなかったわ」

シルヴィアの言葉には遠慮が無い。
だがそれは、アリスにとって逆に好感が持てた。
自覚していることを人から言われると傷つくこともある。
だが「そんなことないよ、大丈夫」だなんて薄ら寒いことを言われた日には不信感で一杯だ。
アリスは肯定されたいのだ。
こんな自分でも肯定してくれる人を探している。


「辛気くさいのよあんた!ほら、飲みなさい」
「おーい。これボトル追加で」

差し出されたお酒は甘い匂いがした。
対してシルヴィアが飲んでいるものはアリスにはきつそうで、それでもあまり酔った風がない所を見ると彼女も中々侮れない。


「……シルヴィアは、ブラッドが好き、なのよね」
「なぁに?またその質問?そーね、愛してるわ」
「レイシルも……?」
「私?私はどちらかというと身体目当て―「っていうか、レイシルとブラッド様は性格的にそんな合わないのよ。分かるでしょ?こんな外見しか取り柄がないような男遊びが激しい女」―酷い言い様だな……まぁ同族嫌悪というやつだ。だが男と女である分身体だけの割り切りなら後腐れが無い」

おまけにあんたは乱暴でがさつだわ。

嫌悪感たっぷりにそう言うシルヴィアの表情は歪んでいる。
対して罵倒されているレイシルは楽しそうだ。
「仲が良いのね」と言えば、レイシルは「そうだろう?」と言いシルヴィアには「目が腐ってるんじゃないの」と言われた。
二人の切り返しがあまりに真逆すぎて、アリスは思わず笑ってしまう。


「で?」
「え?」

「あんたはブラッド様が好きなの?」


シルヴィアの問いに、アリスは数拍遅れてやっぱり「分からないわ」と言った。
だがそれに対して、今度は平手打ちが飛んでくることはない。

「あんたってさ、思い切りも悪い女なのね」
「……自分でもそう思うわ」
「嫌にならない?自分の性格。自分のこと嫌いでしょ」
「……そうね」
「変える気ないの?」
「そりゃあ変えたいとは思っているけど……」
「変わりそうにないわよね。あんた一人じゃ生きていけなさそうなタイプ」
「そんなこと――」
「あるでしょ。自分はちゃんと一人で自立して生きてますって思い込んでそう。寂しいとかそういう感情、人一倍強いくせに気付かないふりをしてるのよね」
「―――――」
「面倒くさいのよあんた。言いたい事言えばいいじゃない?素直になれないって割と損よ」

いい子ちゃんぶって自分に得ある?
万人に好かれたいとか?
でもそれって偽ってる自分であって、本当の自分じゃないんだから意味ないと思うんだけど。


シルヴィアの言う事が耳に痛い。
5つも年下の女の子に説教されるという構図も居心地が悪いが、全部当たっているだけ反論もできなかった。
ちびりとグラスに口を付ける。
口当たりの良い甘さが口内に広がるも、アリスの心は苦々しい。


「しっかりしてよね。あんた以下の私が馬鹿みたいだわ」
「ブラッドにはシルヴィアみたいな子の方が―「相応しいのは当たり前でしょ。そんなの100人聞いたら100人が当然って答えるわよ」―…………」

でも仕方が無いじゃない?
ブラッド様はあんたの方がいいらしいし。
どこがいいのか分からないって言うなら、本人に聞けばいいだけの話でしょ。
私は聞かないわよ。そんなのプライドが許さないわ。

さらりと揺れる彼女の金色が眩しい。
外見だけでなく中身も美しい彼女に、アリスが勝っている理由が分からない。
分からないから、アリスはどんどん卑屈になる。


「落ち込む前に聞きなさいよ。あんた度胸もないの?女として終わり始めてるわ」
「ルーナの欠点は、辛辣過ぎる所だと思うがな」
「アリスが悪いんでしょう!?この子、一から十まで言ってあげないと理解しなさそうなんだもの」
「所々罵倒だぞ?」





最初はレイシルの方が苦手だった。
何せ数ヶ月前、アリスにブラッドを寄越せと喧嘩を振ってきた女性だ。
だが話してみると中々穏やか――と言うより、物事を端的に述べるので分かりやすい。
強引な所はいかがな物かと思うが、今日一日で随分と印象が変わったように思う。
前に会った時と口調が違うような気がしたが、あれは外向けだと言われて納得した。
砕けた方が彼女らしい。

対してシルヴィアとは今回が初対面だ。
一度見かけたことはあるが、言葉を交わしたのは初めてであり(むしろ言葉を交わすようなことがあるとは思わなかった)その辛辣な物言いに衝撃である。
見た目は麗しいお嬢様なのに、中々強かでアリスは勝てそうにない。

この後の飲み会は結局朝日が昇るまで続いた。
途中からレイシルとシルヴィアの言い合いで、アリスは完全に蚊帳の外。
時折矛先が此方に向くこともあったが、所詮はその程度のものだった。





□■□





玄関を開ける音がすると同時に、ブラッドはソファから立ち上がってそちらへと足を向けた。
もちろん帰宅したアリスを出迎えるためである。
学校はもちろんサボった。
朝になっても帰ってこないアリスが悪いし、何よりブラッドの機嫌は最高潮に悪い。

さて一体何をしていたのか。
どう問い詰めどう折檻するべきか考えながら、玄関の扉が開くのを待つ。
がちゃりという音と同時に、ブラッドが「アリ」ス――と声をけようとした瞬間――――



「!?」

どさりと雪崩のように倒れ込んできた彼女を、ブラッドは間一髪抱き留めた。
ふわりと鼻を掠める酒の匂い。
軽く所ではなく酔いつぶれているアリスを抱えながら、ブラッドは「どうした」とその肩を揺すった。



「悪い。潰した」
「!」



ふと頭上から落ちてきた声。
鋭い眼光でそちらを睨み付けると、にやにやと笑みを浮かべた女がそこに立っている。


「……エカルラートか、貴様――」
「そう怒るなよ、帽子屋。ちょっと行き過ぎただけだ。潰すつもりなんかなかった」
「大体何故貴様がアリスと――」
「ちなみに、下に停めてある車ではルーナが潰れている」
「どうでもいい。それよりアリ――「心配する素振りくらいしてやれ。それはルーナが可哀相だ」――何故アリスを連れている。返答次第によっては殺すぞ」
「……無視かよ」

射殺しそうな目で見つめてくるブラッドに、レイシルははっと鼻で笑って見せた。
腕に抱えられているアリスに意識はない。
潰すつもりなど本当になかったが、ルーナ共々ヒートアップし過ぎた結果がこれだ。
まぁなんだかんだと仲良くなれたのでこれはこれで結果オーライだが、最後の砦が中々怖い。


「親睦を深めようとしただけだ。あと助言をな」
「…………」
「そう怖い顔をするな。変な事は言っちゃいない」



ただ、一生このままでいるのは無理だと言っただけだ。



肩を竦めながらそう言うレイシルに、ブラッドは「余計なことを」を呟く。

「なんだ。お前は何か考えがあるのか?帽子屋」
「…………」
「お前も結局ぬるま湯に浸かっているだけだろう。けじめも付けずに、一生このままアリスを飼い殺すつもりか?それが悪いとは言わないが――男なら、巻き込むくらいの気概が欲しいと私は思うがね」
「大きなお世話だ。貴様にそんな事を言われる覚えは無い」
「年上の言うことは聞くもんだ。巻き込む気がないのならさっさと手放せ。そして巻き込まれる覚悟をアリスが持てないのならさっさと手放せ。できないのなら殺せ」


レイシルの眼光は鋭い。
シルヴィアは、彼女とブラッドは似ていると言った。
その通りだ。
レイシルもまた、人の上に立つ人間で、ブラッドと同じ裏の世界に根を張っている。


「私はアリスを気に入っているつもりだ」
「…………」
「けじめはつけろよ、帽子屋。前回も忠告したはずだ。あの時お前は彼女を選んだ。選んだなら選んだなりに、行動は起こせ」

私に説教なんてさせてくれるな。
そこまでお前を過小評価しているつもりはない。

言いたい事だけ言って玄関の扉を閉めたレイシルに、ブラッドは声をかけなかった。
ただ扉が閉まったのだけを確認して、アリスを抱えて室内へと戻る。
特に苦しそうでもない、比較的穏やかに寝息を立てているアリスの表情を見てほっとした後、ブラッドは起こさないように彼女を着替えさせ始めた。


一年と半年弱。
ブラッドが合法的に親から離れられるまであと半年。
出会った時には16だった。
今はもう、18になる。あと半年で卒業だ。





「潮時か――」





するりとアリスの頬を撫でる。
カウントダウンは始まっていた。
きっと随分前から―――始まっていた。



悪魔が優しくても不都合はない

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

最終章の始まり。

2016.04.25