雨が――降っていた。

久しぶりに見た。
何時間ぶりか、何日ぶりか、何週ぶりか何年ぶりか、分からないけど、久しぶりに雨を見た。
雨はあまり好きじゃない。
じめじめしているのが鬱陶しいとか、湿気で髪が整わないとか、思うように外出もできない雨の日は憂鬱だ。
母のお葬式の時も……姉のお葬式でだって降っていた雨。
降り続ける雨粒がぼたぼたと、自身の髪と洋服を濡らしていく。

(長い、夢だった)

いいや違う。夢じゃない。

頬を伝う雨粒に混じって、別の水が零れたような気がした。
だがアリスはそれを無視して、(いいえ夢よ)と言い聞かせる。

自分に都合の良い夢だ。
好きな人ができて、その人も自分を好きでいてくれて、特別に想えて特別に想われる――そんな関係。
奇抜な服装も奇妙な帽子も気にならなくなるほどに、彼≠ニいう存在を一心に愛してしまった自分は嫌になるほど愚かしい。
幸せになりたかった。
幸せになれると思った。
だけれど自分の中の何か≠ェそれを許してくれなくて、アリスはこうして家の庭で雨に打たれている。


「――アリス?」

ふと声をかけられてそちらを向くと、驚いた顔をした男性が傘を片手に慌てて此方へ駆け寄ってきた。

「どうしたんだこんな所で…っ」

そう言って、アリスに傘を傾ける男性のどうしようもない優しさよ。
見上げた彼≠フ表情は、いつしか恋い焦がれていたはずなのに何の感情も湧き上がってこない。
はてさて一体誰が自分に細工をしてくれたのか……変態ストーカーの白ウサギか、はたまたお節介な病弱の夢魔か。


(全然似てない……)

似てない。似てない。似ていない。
どこもかしこも、性格は当然、顔も声も全て。
あまりの似ていなさに、アリスは思わず鼻で笑ってしまった。


「……アリス?」
「ごめんなさい、先生。何でも無いの」

少し雨に打たれたい気分だったのよ。
ところで今日はどんなご用事?
また姉さんに花を持ってきてくれたの?

つらつらと自身の口から飛び出るセリフは、一体誰が発しているのだろう。
戸惑いを隠せないという表情をする先生に背を向けて、アリスはまた雨の中を一人で歩き始めた。

恋い焦がれ、姉に奪われた初恋の人。
最初から最後まで、終わった後ですらただひたすらに優しかった……不誠実な人
だがもうどうでも良かった。
彼の存在も、彼に抱いた感情も、全てがどうでも良くて、アリスはふっと自嘲する。



(また、失恋した――)



だがそれを悲観し、傷つくのはお門違いあることも分かっている。
手放したのはアリスだ。
確かに手にしたはずなのに、手放して、捨てたのはアリス。
彼≠ヘ引き留めてくれた。
彼≠ヘ追いかけてきてくれた。
愛してくれた。幸せにしてくれた。
そのとんでもない力と、持論と、感情の全てでアリスを求めてくれたのに。

それを捨てたのは、紛れもないアリス自身。

ブラッド。
ブラッド=デュプレ。

もう二度と会うことはない。叶わない。
だがそれでも――覚えていようと、アリスは思った。
忘れない。絶対に忘れない。
忘れずにいることが罰だと思った。
忘れずにいることが、彼にできる唯一の償いであると思った。

こうしてみると、自分という人間は本当に愚かしい。
姉に対する罪。ブラッドに対する罪。
それらは少し違うものだけど、償い方はまるきり同じ。
だが賢くないアリスには、そうする事しかできなかった。
そうするべきだと自分自身に枷をつけて、幸せになる価値なんかないと嘲り笑う。



(でも少しは――、)

マシに生きられるだろう。
自分に素直に生きられるだろう。
少なくとも、姉を失った後よりは……
ブラッドと出会って、愛して、愛されて、手放した自分なら――――



多少は納得のいく、生き方ができる気がした。





□■□





高級マンションの最上階。
天井でもぶち抜いたんじゃないかと思われるほど上にも横にも広い部屋で、アリスは宝石のカタログを真剣に見つめながらメモを取っていた。
目が眩むような値段に、時折桁を間違えながらも予算内に納めようと吟味する。

ブルートパーズなんて結構いいんじゃないだろうか。
造りや色合いもシンプルだし、ネックレスにピアス、ブレスレットまでついた三点セット。
もちろんオーダーメイドにはなるだろうが、デザインは後々部下と相談すれば良い。
あぁでも世のご婦人方は、ルビーやサファイヤのようなもっと強い色合いの方が好みなのだろうか。
でもでも今回のご令嬢は中々お若い方だし、どちらかと言えば清楚で男慣れもしてなさそうな……そう、純真無垢な箱入り娘という印象が強い。
だがそうなってくると宝石やアクセサリーに拘らなくてもいいような気がしてくる。
贈り物というのは中々吟味が難しくて、アリスは広げたカタログの上に両腕をついて突っ伏した。





アリスがこのマンションに住み始めて約3年。
職場兼住居でもあるそこは無駄に広く、一人で住むには行きすぎた場所でもあった。
時折部下が立ち寄ったり、忙しい時は数人で数日引きこもることもある。
自分にここを与えた上司が何かと理由をつけて転がり込んでくることもあるけれど、それでもやはり一人でいることが多いような気がする。

アリスの仕事は出版社勤め――――であるはずだった。
少なくとも数年前の予想した未来ではそうだった。
学校を卒業したら家を出て、アルバイトをしていた場所に就職するという予定通りの人生設計が進んでいたのはたった半年。
出版社の仕事はそりゃ楽しかったし、やりがいもあった。
これが本当に自分のしたかった事だろうかと自問自答する日もあったけれど、そこそこ真面目に生きていられたと思う。

あの日あの瞬間、出張先で妙な事件に巻き込まれなければ……

だがしかし巻き込まれてしまったのが運の尽き。
いや尽きたというより始まったというべきか、そこは定かでないが、あの日の事をアリスはあまり後悔したことがない。



事件というのは何て事ない、巻き込まれたら不運というしかないが、割と世間では有り触れた出来事だった。

誘拐。人身売買。

若い女を対象とした誘拐事件、または売買は治安の悪い場所においてあまり珍しいものでなく、アリスもまた不運だったの一言に尽きる。
出張先の路地裏付近で襲われて、気を失ったところを木箱に詰められ見知らぬ土地へ誘拐されそうになった。
もちろんアリス以外にも女性は山ほど被害に遭っていたし、その日その瞬間その場所にも、自分以外に17人いたと聞いている。
ただその誘拐犯の誤算は、その犯罪行為を行った場所に問題があったということだろう。
その辺りは力のある有名なマフィアの縄張りだったらしく、見知らぬ土地へ船で出航する前に抗争は起こった。
相手も商品も関係なく、乱射された銃弾は何人もの命を奪い、息のあった者はその場で5名。
誘拐犯はもちろん殲滅されていたし、誘拐された女性も三分の二以上が殺されたその状況を、マフィアの連中は何も思わなかった。

5人の内2人は泣き声がうるさいという理由で殺された。
残り3人の内1人は、出血量と痛みに耐えられず絶命した。
もう1人は「助けて」とマフィアの男に懇願して、だるい≠ニいう理由で殺された。
何発か当たってしまった銃弾の痛みに耐えながら、アリスは(結局全員殺されるんじゃないの)と半ば呆れ、命を諦めながら木箱の中で横たわっていた。
涙も出ない。命乞いも面倒くさい。
死にたいか死にたくないか聞かれればそりゃ死にたくはなかったけれど、死んでもいいかな程度には人生に疲れていたし。
20代目前とは言えギリギリ10代の女子が人生に疲れたとか馬鹿な話だ。
世の中の、社会に出た大人達には鼻で笑われそうだが、実際問題アリスは自分の生に無頓着だった。
母も姉も若くして死んだし、父親はあんなので妹とは最後まで馬が合わなかった。
家を出てからは没交渉。
天涯孤独とまでは言わないが、似たような状況下であるアリスに、自分の生もそれを失った後のことも興味がない。
むしろマフィアに殺されるだなんて、なんて数奇な運命だと面白おかしくなってしまうほどだった。


『ボス。ここにも生きた女が、』

殺しますか?という無機質な声に、アリスは少しだけ視線を上げる。
「ボス」と呼ばれた男が近寄ってくる気配に、アリスの意識は昔に見た夢の内容を思い出す。

マフィア。
帽子屋屋敷。
オレンジのウサギさんに、双子の門番。
だるそうなメイドさん達に、色とりどりの美味しいお菓子。
紅茶の匂い。夕方の薔薇園。
楽しそうに笑う真っ赤な女王様と、眉間に皺を寄せて黙り込む私の――――、


『これだけ銃弾を浴びて生きているとは、運の良いお嬢さんだ』
『――――――――――』

耳に飛び込んできた声色。
だるそうな喋り方は私が思い描いていた人物と瓜二つで――視界にぼんやり入ったその顔も、彼そのものだった。
私の、





『――――ブラッド、』


頬を伝ったのが血だったか涙だったか、私は覚えていない。





□■□





カタン……という音がして、アリスはふっと意識を浮上させた。
腕の下には自身の重みでぺしゃんこになったカタログ。
寝ていたのかと目を擦り、ガタガタと音がするキッチンの方へと意識を向ける。
自分に無断で部屋の中に入ってこられるのはこの世界で1人だけだ。
全く何をしているんだと早足にキッチンへ向かえば、そこには予想通りの人物が冷蔵庫を開けて中の物を物色している。



「……今何時だと思ってるんです?夕飯の時間はとっくに終わりましたよ」

キッチンの入り口からそう声をかけると、男は此方を向くこともなく「何か余ってないか?腹が減った」と言ってのける。


「今日は取引先のご令嬢とディナーだったはずでは?さっきまでご一緒してたんでしょう」
「あぁ、とてつもなくだるくて、退屈な時間だった」
「その割には随分長い間、夜を共にされたようで」
「趣味は悪くなかったな」
「えぇ、良い香りがします。貴方好みの」

アリスはそう言いつつ、男を冷蔵庫の前から押しのけて夕飯の残りを取り出した。
「こんなものしかありませんよ?」と言うと、男は「構わない」と頷いて胸の内ポケットから煙草を取り出す。
そういえば今日のご令嬢は嫌煙家だったなと思いながら、アリスは「煙草を吸うならリビングへ行って下さい」とその背中を軽く押す。

「…………火がつかない」
「あちらに真新しいライターがありますから」
「……だるい」

のろのろと歩き始める男の後ろ姿を見て、アリスは溜息を吐きながらようやく料理へと向き直った。





どこに居ても、どの世界でも、アリスの命はブラッドに救われる運命にあるらしいと……絶望的な気持ちでアリスは腕の包帯を取った。
ある時見た夢の中とは違って、時間が立てばその内綺麗さっぱり傷が治るなんてこともなく、身体に8つの銃痕と無数の切り傷、そして打ち身や青あざと向き合いながら(若い女の身体じゃないわね)と自嘲する。
結局あの誘拐事件から生き残ってしまったアリスは、何だか面白そういうだけでマフィアのボスに助けられ、そのきっかけがブラッドの名前だったというのだからもう笑うしかない。
こんな所でまで助けてくれなくていいのにと、そんなつもりもなかったであろう彼の姿を思い出した。
奇抜な服装、奇妙な帽子、頭も顔も良かったが性格に盛大な難を抱えていた自分の恋人。
もう二度と会えない、だけれど絶対忘れない、忘れたくない、忘れられない、恋した人。

あぁもういっそ、これも夢ならいいのにと――アリスは目の前で足を組む男を見据えて、「助けてくれてありがとうございました」と無機質な声を出した。



『あぁ気にしなくていい。ただの気まぐれだよ、お嬢さん』


そう言って――笑う男の声に、口調に、姿に、仕草に既視感を覚える。
アリスが愛した――ブラッド=デュプレと何もかにもが同じな男の名前は、これまたブラッド=デュプレというらしい。
こうして見ると、ブラッドが先生に似ていたなんて可愛らしい話だ。
確かに顔や声は似ていたけれど、口調や仕草、性格まで似ていたわけではないし当然名前だって違ったわけで……
毎度毎度、好きだった男に似ている男と出会うのが自分の呪われた運命らしいと、アリスは男から視線を逸らす。

『怪我の調子も良くなって何よりだ。さてお嬢さん、少し聞きたい事があるんだが構わないかな?』
『……どうぞ』


ここで嫌ですという度胸があれば、自分の未来は変わっていただろうか。

『君は、私のことを知っているのか?』
『いいえ、知りません』
『名前を呼んだだろう』
『前の恋人に――瓜二つだったもので』

名前まで同じだなんて、私にとっては嫌がらせの域です。

投げやりに、不躾なまでにそう言うと、男は「ほう?」と呟きまた笑う。
と言っても、笑っているのは口元だけで目の奥は一切笑っていない。
こういう所まで似ていると思ってしまって、アリスは(あぁなんて、)と途方に暮れた。



『恋人、ね』

その声色は、どこかつまらない≠ニ言っているように感じた。
だが逆に、名前を知っていたからといって面白いとも限らない。
恋人に似ていた、恋人と同じ名前だった。
それは多少予想外だったらしいが、別に当たって欲しくもない予想外。
それきりアリスに興味が無くなったらしいブラッド≠ヘ、「今後のことだが――」と話を切り出す。
折角助けた命を無碍にすることもないらしいその態度に、アリスは被せるように言葉を放つ。



『ここに、置いて貰えないかしら』



馬鹿なことを言った自覚はある。
「………何だと?」というブラッドの声は低く、自傷行為に走っている自覚もあった。

そう、これは、自傷行為だ。


『駄目なら、殺して欲しい』


平和な日常を、思い描いていた人生設計を放り出しても、アリスはここにいたいと思った。
ここに、ではない。
この男の近くに、だ。
何度も言うがこれは自傷行為だ。
ブラッドに似ているから、その姿を見ていたい。
それはブラッドではないけれど、その姿を頼りに思い出を抱いて溺死したい。
昔なら避けていた。
元恋人に似た男の傍にいるなんて嫌だと、先生を思い描いて帽子屋・ブラッド=デュプレを否定したあの頃なら。

だが今は違う。
是が非でもこの姿を見ていたい。
認めていたい。
愛していたい。
思い出ばかりが美しくて、その中に埋もれて窒息死したい。
そうしたら――――


自分が愛しているのは、あの<uラッド=デュプレだけだと証明できる。


別の男を眺めていても、この胸にいるのはあの傲慢で我が儘な男だけなのだと。



『気まぐれで助けたんでしょう?その気まぐれを、もう一度起こして欲しいわ』
『……………………』


ブラッド≠ヘ、一拍遅れて「考えておこう」と言った。
そして数日後に起こった彼の気まぐれにより、アリスは裏の世界に身を投じることになる。





それから約5年か。
色々起こったし色々やった。
自分の仕事は最初の1年半ほどで確定し、その後3年半はこうしている。
上司……ボスにこのマンションを与えられたのは3年前だから、案外彼の気まぐれも長持ちするものだ。


「例のご令嬢への贈り物、ブルートパーズにしようと思うんですが、」
「……君の方が似合いそうだな」
「真剣に考えて下さい。贈り物は金額より気持ちです」
「私の気持ち的には君に贈りたい」
「付ける機会がないので結構です」

ブラッドの言葉を片っ端から叩き落としながら、食後の紅茶を用意する。
ボスの愛人、情婦、それに準ずる関係のご婦人やらご令嬢は多い。
これからそういう関係に持ち込もうとしている女性も数多く存在し、それらに対する贈り物やら趣味のリサーチ、用意はアリスの担当だ。


「君は物欲がなさ過ぎる」
「私に何かを贈る必要はないでしょう。贈ったところで利益もないですし、何も頂けずともここにいます」
「忠心高い従順な部下だな。いや――情婦か」

つんっと栗色の髪を引っ張られて、アリスは「はいはい」とその手を叩き落とす。
だがそれを物ともせず伸ばされた腕に、アリスは簡単に引き寄せられブラッドの上に乗り上げる形になった。
ソファに腰掛けた男の足を跨いで、がっちりと腰を固定されてしまえばアリスの手は彼の肩以外に行き場がない。
「ボス、」とその声色だけで苦言を申すも、見下ろす形になった自分の上司は素知らぬ顔でアリスのワンピースをたくし上げる。


「……散々ご令嬢で発散されたのでは?」
「一夜に二度も三度も抱きたい女じゃないな」
「一夜に三度も四度も強いられる私の気持ちはどうなるんですか」
「一夜に五度も六度も蹂躙したいと思わせる君が悪い」

下着の上から秘所をなぞられて、アリスは「ん、」と声を漏らす。
こうなって、抵抗らしい抵抗はしたことがない。
何せ自分は彼の情婦だ。部下であり、愛人でもある。
それを望んだのはアリスの方で、ぐりぐりと花芯を潰される感覚に、ブラッドの肩に置いていた両手を首へと回してしがみつく。

「ひっ…ぁ」

きゅっと摘ままれびくんと跳ねた身体に、ブラッドは満足気に笑ってアリスの首筋を舐めた。





何でもするからここに置いてくれと、5年前のアリスはブラッドに言った。
実際に、最初の半年から1年ほどはとにかく何でもやってみたような気もする。
さすがに拷問現場に連れて行かれた時は気を失ったが、銃も撃ってみたしナイフも使ってみた。
だが結局センスがなくて内勤になったわけだが、血生臭い書類の山も中々にキツかったように思う。
それでも言われたことは、懸命に熟すよう努力した。
あくまで努力しただけで結果が着いてきたかというとお察し状態だったが、アリスの価値観や倫理観、性格上を考えるとかなり頑張った方である。
ブラッドと会う機会は――思ったより多かった。
今まで散々――夢の中≠ナメイドの仕事をしていただけ、そっちの仕事は比較的まとも。
紅茶の淹れ方も、好みも、そんな所さえ元恋人と同じな上司のせいで、給仕を任されることが多かったせいもある。
数ヶ月前に渋々雇った得体の知れない一般人に給仕を任せる辺り、此方の世界のブラッド≠熬々馬鹿な男だと思ったが、暗殺する気もないただ傍でその顔を見ていたい≠ニいう理由しかなかったアリスには好都合。
これにより、アリスの大まかな仕事はメイドの真似事に決まってきた。
掃除や給仕、時折簡単な書類整理。
書類も血生臭いものではなく、組織内の銃火器含む物品関係や取引相手に関すること、どちらかというと誰がやっても問題ない雑務が多かったように思う。

ぽつぽつと、話す機会も多くなっていた。
生い立ち。趣味。経験。
家族構成。姉のこと。初恋のこと。


世界で一番愛した男のこと。


『代用品にされるのは癪に障る』と彼は言ったが、アリスはそれを『そうですか』と笑って受け流した。
図太く図々しく、上司と一応仰ぐものの、不躾な態度が所々目に余るアリスだったが、ブラッドはそれを大して咎めなかった。
多分興味もなかったのだろうと思う。
同じ顔、同じ声、同じ性格同じ仕草、嗜好、思想――ぞっとしないとブラッドは言ったが、信じてもいなかったのだと思う。
そりゃそうだ。
だって調べても私の過去にそんな男は存在しないし、そもそも世界に存在しない。
妄想に囚われた哀れな女とブラッドは認識していただろう。
そしてそれは合っている。
あれは結局、アリスの夢の中≠フ話なのだから。

信じて貰えるなんて思っていなかった。
信じて欲しいとも思わなかった。
アリスが一人であの夢≠ノ溺れているだけで、そして似た男の顔を見て、傍にいられるだけで十分だった。
忘れない。忘れられない。
嫌でも自分に帽子屋・ブラッド=デュプレを思い出させてくれる男の存在が、アリスにとってどれほど存在価値が高かったか。

姉とは違う。
忘れたくなくとも、時が流れれば忘れてしまいそうな姉とは違う。
姉の存在を思い出せる要因がないこの世界で、記憶は自然と薄れている。
後悔や懺悔を覚えているのに、その心臓に刻み込んでいるのに、それでもふとした時にしか思い出せないのは、アリスが姉との思い出から遠ざかっているからだった。
そしてそれは成長する過程で当然であり、家を出た今では必然であること。
でもブラッドは違う。
嫌でも思い出す。
この男の顔を、存在を、近くで感じている限り永遠に忘れることはない。


これは罰で、枷だ。


アリスの自傷行為は死ぬまで続く。
愛した男は二度と会えない夢の中。
だがその男と同じようで、違う男が目の前にいる。
思い出に溺れて息絶えたい。

元恋人の存在を信じていなかったブラッドだが、それでも自分に靡かない女自体には興味があったのだろう。
あと性格的な相性も、さほど悪くは無かった。
趣味だって、当然のように共有できた。
だから気付けば秘書の真似事までさせられるようになって、退屈しのぎに性欲の発散行為までさせられるようになった。
こっちが処女であることなどお構いなしに強制させられた行為は激痛で、(あぁこれだけはブラッドと違う)なんて思いながら――でも別に彼は私を愛しているわけじゃないし、私も彼を愛しているわけじゃない。
夢の中で感じた――恋人との愛ある行為でない分それは当然と言えば当然だった。
それでも抵抗らしい抵抗をしなかったのは、やっぱりその顔と声が彼そのものだったから……結局アリスは、上司とセックスをしたというより、上司で自慰行為をしたという方が正しいのだと思う。

雑務処理。メイド仕事。時々思い出したようにボスのスケジュール管理、書類整理。そしてプラス性欲処理。
部下でもあり情婦ともいえる自分の立場は大分曖昧だったが、そんな所も夢の中の生活を思い出させて、良かったと言えば良かった。
ボスが気まぐれな人間であるせいか周囲のアリスへの順応も早く、緩く適当に、おまけに雑な形で組織に入ったアリスだったが、最初の1年で大分溶け込んだ方だと思う。
過激な組織である分人の入れ替わりは多い。
死者も多ければ補充人員も当然ある。
結果アリスより新しい人間は瞬く間に増えたし、アリスより古い人間はどんどんいなくなっていく。
上層部になるとそれほど変わり栄えはしないものの、末端の構成員だけなら顔と名前を覚えるのが無意味なほど入れ替わりは激しかった。
当初こそふらっと入ってきた癖にボスと懇意にしている(ように見える)とやっかまれた事もあったが、それも本当に一瞬のことで、何だかんだとボスに近しい人間だという認識が組織に広まるまで、さほど時間は要しなかった。

そうすると、アリスの立場などとんとん拍子で決まっていく。
ブラッドの性格、嗜好、考え方を熟知しているアリスはやっぱり彼の扱い方が上手かった≠オ、紅茶はもちろん食事のことまで考え、配膳までが自分の仕事に分類される。
毎日三食のことを考えると必然的にスケジュールを把握することになり、これを大まかに決めたり手配するのも仕事になった。
そしていかんせん、我らがボスはそれはもうおモテになるし、愛人から情婦から、その場だけの関係まで女の影が選り取り見取り。
どういうご婦人、ご令嬢とお付き合いがあって、そして手ぶらで彼女らに会いに行くわけにもいかないボスのため、彼女らに対する贈り物だのなんだのを選び用意するのもアリスの仕事で、逆に贈られてくるそれらを管理するのもアリスの役目。
空いた時間に同僚とボスに上げるための書類を作成、審査、整理、それらを後日ボスに拝見してもらい決済を貰うまでも自分の仕事。
あと戦闘能力が皆無で完全内勤状態であるが故に、組織運営の管理や予算の取りまとめを行うのもいつからかアリスにスライドしてきた。
こうして見ると案外自分の仕事は多く、時折(と言える頻度ではないが)情事も迫られるのだから正直な所忙しい。

たった数年で重要な役割を任せられたが、これはアリスが特別優秀だったというわけでもなく、戦闘面がからっきしだった事とボスの情婦だった事、あと予想外に気に入られてしまって、周囲とも比較的仲良く仕事ができたからこその役割で、正直書類などなどの業務に関しては同僚や部下の方がアリスの10倍は優秀だと思っている。
3年前には遂にマンションの一室まで与えられて、まるで重役のようだから止めてくれと進言したが、周囲の人間に「ボスの秘書なんですから仕方が無いです」と丸め込まれた結果がコレだ。
秘書なんてそんな大それたものじゃないとも言ったのに、「機嫌の悪いボスにあんな接し方ができるのも、それでいて殺されないのも貴女だけです」と全員に首を振られた時は、まるで人身御供というか面倒な上司を押しつけられたような錯覚に陥った。
私はただの新米、しかも元一般人よ!?と声を荒げた日もあったというのに、上層部は頑なに意義を唱えなかったのだからよほど我らがボスは扱いにくい人間なのだろう。
と言うより優秀で、気まぐれで、掴み所がない。
あぁ、そう思うとエリオットは何て希少価値の高いウサギさんだったのか。
あれほど盲目的に上司を敬い尊敬し、最早崇拝の域にまで達していた彼をアリスは本当に凄いと思う。
が、この世界に、この世界のブラッド=デュプレの隣にそんな奇特な人材はいない。
全てのツケがまるで自分に回ってきたようだが……もうその変は考えないようにしようと――このマンションに住み始めてそろそろ4年目に突入しようとしている。





ベッドの縁に腰掛け煙草を吸う男を尻目に、アリスは毎日飲んでいる薬を口に放り込んだ。
言うまでもなく避妊薬だが、「まだそんなものを飲んでいるのか?」と声をかけられ、「当たり前でしょう」と返事をする。

「それともボスご自身が避妊してくださるんですか?」
「孕めばいい」
「……ご冗談を」

思わず鼻で笑ってそう言うと、ブラッドは不満気な表情で振り返り、アリスの頬を指先で撫でた。


「子どもができて、不都合があるか?」

「不都合しかないでしょう」


貴方、面倒くさいの嫌いじゃないですか。
子どもが欲しいのならいいとこのお嬢様と結婚して、本妻に産んでもらってください。
まぁお妾さんに産んでもらってもいいですけど、どちらにせよ誰かと結婚してからにしてくださいね。
後継者争いなんて後世に残さないで下さいよ?
貴方が生きていようと死んでいようと、部下が迷惑しますから。

ブラッドの手を避けるように、アリスはごろんと寝返りを打つ。
素肌にシーツを巻き付けたままごろごろと転がると、まるで芋虫にでもなったような気分だ。


「面倒な……組織に愛着はあるが、遺したいものでもないしな」
「あぁ、貴方って、一代で築き上げて一代でぶち壊すのが好きそうですものね」
「結婚などと、そんな面倒事もごめんだな。子どもも別に欲しいわけじゃない」
「……では一体どこから孕めばいい≠ネんて言葉が出てくるんですか」
「君との子どもなら欲しい」
「好きでもない男との子どもなんてごめんです」
「だから欲しいんじゃないか。好きでもない男に足を開いて、いい様にされて――その上孕まされて産み落とし、一体どういう顔で、どうやってその子どもを育てるのか、興味がある」
「…………悪趣味過ぎて言葉もでません。絶対嫌です」

嫌悪感たっぷりにそう言うも、何が面白いのかブラッドはくくっと笑って「是が非でも孕ましてやりたいな」と言った。


「子ども嫌いでもないんだろう?元恋人とやらの子どもなら産んだか?」
「喜んで産みますとも。二人は欲しいです。姉、弟の順で」
「…………相も変わらずご執心だな」

つまらない≠ニでもいうような顔をするブラッドに、「世界で一番愛していますもの」と――本人にも言えなかった感情を吐露してアリスは微笑む。


「私は君を愛している」
「そうですか。諦めて下さい」

私は死んでも貴方を愛しません。


伸びてきた手に、するすると頭を撫でられ目を細めながらも、アリスはブラッドの顔を真っ直ぐ見てそう言った。
その瞳に映るのはブラッド≠カゃない。
アリスが愛した、アリスだけを愛してくれた男の姿だ。


「……そんなにいい男だったのか?私と、同じ顔、同じ声、性格も嗜好も仕草も存在全てが瓜二つだと言う男は、」
「えぇ、真っ白な騎馬服だか燕尾服だか分からないものを着ていて、頭には薔薇とかトランプとか、値札までついた帽子を被っていましたけどね。オレンジ色の可愛いウサギを従えて――」
「そんなイカれた男に似ているとは……ぞっとしないな」

でも本当にそっくりなんですよ?ブラッド、

ブラッドとブラッド。
一体どちらの男を呼んでいるかも分からないその唇に、少なくとも今アリスを目の前にしているブラッドは深い口付けを落とす。
それを簡単に受け止めて、あまつさえ舌を差し込み求めてくるアリスに軽い嫌悪感を抱いた。
求められているのは自分じゃない。
この数年幾度となく――数えるのも馬鹿馬鹿しいほど抱いた嫌悪感だったが、実際彼女を穢しているのは自分なのだと言い聞かせて掻き抱いていく。

この世界には存在しないのに、彼女の世界にだけ存在する男。

全く以て不可思議で、時折アリスの語るその元恋人の姿も現実味がないのに、彼女の心はブレもしない。
5年も過ごした。
5年間束縛し、服従させ、蹂躙したのに一度も自分に折れる気配のない彼女。
彼女の身体を暴き、その薔薇を散らし、まっさらな身体を穢し仕込んで――今では触れなぞるだけで密を溢れ出すほど開発させた自分だけの女なのに、どうしても自分のモノになりはしない。
キスをすれば素直に応える。
奉仕しろと言えば自ら跪いてその口で咥えるし、自分で腰を振ることも厭わない。
指でも自身の楔でも、その密壺に差し込めば啼いて悦ぶくせに――どうにもこうにもブラッドを見ないアリスの心よ。

あまりにも靡かないから殺してやろうと思った時もあったが、それはそれで思い通りにならないのが悔しくて、ブラッドは未だにアリスを飼い殺している。





「あっ、あっ……んぁ、ブラッ、」

ブラッド。


呼ばれているのは、さて一体どちらか。
……どちらでもいい。
彼女を突き動かして蹂躙しているのは自分なのだから、どちらでもいいような気がする。



「なぁ、アリス」
「あぅ…っ、や、ああぁ」


「やはり私は、君を孕ませたい」



どこまでも、どこまでも、縛り付けておきたい。
彼女の元恋人が、彼女に残せなかった物理的なものを全部押しつけてやりたい。

押しつけたい。そして奪いたい。
全部。全部。全部。
彼女の名前がつくものは全部、根こそぎ奪ってやりたい。
どこの者とも知れぬブラッド=デュプレ≠ゥら、いつか全部奪ってやる。





「君は――私のモノだ」





自分だけが、犯す権利を持っている。



ブラッドの呟きに、アリスは嬉しそうにうっとりと微笑んだ。
その瞳が映しているのは、昔見た夢の――――――



清く恋しく鮮烈なる罪人の夢想

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

ブラッド(→)←アリス←ブラッド

2016.02.04