クリスマスパーティをしましょう。
だから25日は空けておいてね。
そう――犬に言い聞かせたのはアリスだ。
ちょっとした飾り付けを二人でして、雰囲気のためだけに小さなクリスマスツリーを買って、寒い中駄々をこねる男を引きずって食材の買い出しにも行った。
少し豪勢な料理を作ってケーキを食べる。
たったそれだけのことだけれど、アリスの心は浮き足立っていたし、犬――ブラッドもまた、少しは楽しみにしてくれていたと思う。
12月25日。
アリスは「最低だわ、」と暗い部屋の中で呟いた。
「本当ですよね」と少し離れた所から同僚の声が聞こえ、上司は申し訳なさそうに縮こまっている。
暗いオフィスの中に3人の男女。
アリス以外は既婚者だ。会社勤めというものは世知辛いもので、家族と一緒にクリスマスを祝うことさえ許されない。
いや、許してくれなかったのは取引先であるけども、どうして今日この日に残業しなければならないのか、タイミングが悪いにも程があるとアリスは資料を投げ捨てた。
(ブラッド……ちゃんとご飯食べたかしら)
クリスマスに相応しい豪勢な食事どころか、夕飯も作ってやれない時間帯。
25日は空けておいてねと言ったのはアリスなのに、言った本人がこの様だ。
積み重なる資料の山。修正に修正を重ねた原稿の数々。
眠気覚ましのためにと久しぶりに飲んだコーヒーはまずくって、ちらちらと脳裏に横切るブラッドとの約束≠ェ、更にアリスを苛立たせる。
(ケーキ屋さん……もう開いてないわよね)
時刻は23時を過ぎている。
日付を超えるのはほぼ確定しているし、そもそも取りに行くと予約していたのも本来ならば夕刻だった。
甘い物がそれほど好きではないブラッドが、これなら食べれそうだと言ったケーキ。
何だかもう申し訳なさ過ぎて泣きそうなのだが、そんなことをしている暇はない。
「修正終わりました」
「ん。じゃあ次これ」
「……はい」
何度でも言う。
最低だ。最悪だ。
仕事なんか投げ出したいと、アリスは生まれて初めてそう思った。
一方、犬――ブラッド=デュプレ。
此方は夕刻を過ぎ空が暗くなり、18時を過ぎた辺りで不機嫌の絶頂にいた。
待てども待てども帰ってこないアリス、もとい飼い主。
25日は必ず空けておけと言った本人が約束をすっぽかそうとしている事態に、自分至上主義の男は(どうしてやろうか)と不穏なことを考えながら紅茶を飲む。
早上がりするから15時には帰ってくると彼女は言ったのだ。
その後ケーキを一緒に取りに行って、料理を作ろうと。
珍しく――はしゃいでいたように思う。
クリスマスが近づくにつれて上機嫌になる彼女を、ブラッドはずっと見ていたのだ。
(急な仕事でも入ったか……)
それはそれで可哀相な気がしないでもない。
今日を一番楽しみにしていたのはアリスで、心待ちにしていたのもアリス。
ブラッドもそれなりに期待していたし、残念か残念じゃないかと言えば残念だ。
仕方が無いことだと分かっていても、不機嫌になるのは否めない。
何より嫌なことは、ブラッドが待つ側≠セということである。
嫌でも思い知らされる――互いの年齢。
彼女が大人≠ナ自分が子ども≠ナあることを。
押さえつけて蹂躙しようとも、社会的な立場というものが邪魔をして、アリスとブラッドの距離を縮めてくれない。
社会人と学生。
その肩書きは、ブラッドにとってとてつもなく口惜しいことだった。
□■□
結局アリスが帰路につくことができたのは深夜も深夜。
25日はとうに終わっていて、26日の午前1時38分。
電車もないし会社に泊まり込み確定かと思っていたものの、優しい同僚が車でマンションまで送ってくれた。
ブラッドはもう寝ているだろうか。
顔を合わすのが非常に気まずいが、いつまでも玄関前に立っているわけにもいかず恐る恐る鍵を開ける。
ガチャンという音がやけに大きく自分の耳に響いて、そぉっと扉を開けてみるも、玄関から室内に向けては真っ暗だった。
(あぁ、寝たのね)
ほっと胸をなで下ろすのと同時に、一抹の寂しさが微かに過ぎる。
24日のイヴも、今日のために徹夜で仕事をした。
だから結局、アリスはブラッドとクリスマスを一時も過ごせなかったわけで……イベント事をはしゃぐ年でもないけれど、やはり残念だったように思う。
さっさとお風呂に入って寝てしまおう。
明日は休みだ。正確に言えば休みをもぎ取ってきたのだが、昨日今日と散々こき使われて明日も頑張る気力はない。
起きたらブラッドに謝ろうと思いながら、アリスはゆっくりリビングへと足を踏み入れる。
「遅い」
「!!?!?」
ガチャリとリビングのドアを開けて、真っ先に飛び込んできた男の顔に、アリスは思わず叫びそうになりながら鞄を落とす。
「遅い」と繰り返して言った男の顔は不機嫌そのもので、なんで電気点けないのとか、寝てたんじゃなかったのとか、言いたい事は山ほど浮かんだが、それらを口にする前にブラッドは三度目の言葉を放つ。
「遅い」
ぶすーっとむすくれた顔は年相応だ。
「ご、ごめん」と思わず謝るも、ブラッドの眉間の皺が取れることはない。
「予定を空けろと言ったのは君だろう」
「ご、ごめんなさい……!それは、本当に……」
急な、仕事が、入っちゃって……
途切れ途切れになりながら、アリスは目を泳がせて謝罪する。
不誠実な行為だと、アリスは謝りながら気付いていた。
相手の目を見て、頭を下げないなんて不誠実だと――常識的なアリスは思う。
ただあまりに突然だったから……
ブラッドが起きて待っているとは思わなくて、約束を破ったことが申し訳なくて、ていうかもう仕事に苛立ち過ぎて、楽しみにしてたのにとか一杯買い物したのにとかケーキ食べたかったなとか、色んな感情が急にごちゃまぜになり、アリスは正常な思考ができない。
「ごめ……っ、」
ぼろりと意図しない涙が零れて、アリスははっと自分の頬を撫でる。
音も無くぼたぼたと零れるそれは、色んな感情が押し寄せて思わず感極まってしまった結果だった。
残念だ。
申し訳ない。
ショック。
楽しみにしていたのに。
ごめんなさい。
アリスは馬鹿になっていた。
こんな感情はもうここ数年抱いたことがなくて……それもそのはず。
だってアリスは、今までずっと一人で生きてきたから。
数年前に絶対唯一の姉が死んで、アリスはずっと一人ぼっちだったから。
一人だと、余計な感情を抱かない。
それは楽で、多分寂しいことだった。
だが今のアリスは違う。
約束をする相手がいて、反故にしてしまった相手がいた。
それでも帰りを待ってくれる相手がいて、アリスに対してその不満をぶつけてくれる相手がいる。
「ごめんなさい」と言える相手がいることに、アリスは今更それを幸せなことだと思った。
だからこそ申し訳ない。
残念で、口惜しい。
楽しみにしてたのよと、アリスは言えなくて――そのままブラッドに抱きつく事しかできなかった愚かさときたら……
歯を食いしばって、アリスはぎゅううっとブラッドにしがみついて見せる。
それでも止まらない涙がブラッドのシャツを濡らし、シミを作っていく感覚に、アリスは今にも吐き出しそうだった。
「疲れたのか……?」
するりと頭を撫でられて、アリスはぶんぶんと首を縦に振る。
疲れたとも。
身体的にも心労的にも、今日のアリスは最悪だ。
「ではもう寝るか。一応ケーキは買ったんだが、」
ケーキ。
「ブラッドが買ってきてくれたの?」と掠れた声で聞けば、彼は「仕方が無いだろう」と言った。
「いつまでたっても君は帰ってこないし?腹も減ったからそのついでにな。君が帰ってきた時に、何もないクリスマスというのも味気ないと思ってな」
キャンドルも買ってきて並べてみたんだ。
やり始めると私も案外凝り性で……この本数を並べると電気も必要ない。
そう言うブラッドから、少しだけ身体を離してアリスはリビングを眺めた。
扉を開けた瞬間視界に入ったのがブラッドだったことから、この時初めて室内を見たアリスは思わず「わぁ」と声を漏らす。
「よく……こんなに並べたわね」
「おかげで小遣いが飛んだ」
確かに、電気をつける必要のない明るさだ。
暖かい光が暗く広い室内を包み込み、クリスマスの飾り付けもあってからどことなく幻想的な雰囲気を醸し出している。
ぎゅっとブラッドにしがみついたまま、アリスは「…ごめんなさい」と呟いた。
ブラッドの顔を見上げることはできない。
最初ほど不機嫌そうな声色ではないものの、機嫌が直ったとも思わなくてアリスは益々背中を丸める。
唐突に、前触れも無く思わず泣き出してしまったアリスに、多分気を遣ってくれているのだろう。
それが分かる分、これじゃあどちらが大人で子どもか分からないと思いながらも、アリスはブラッドから手を離すことはなかった。
「疲れているなら眠った方がいい。ケーキは明日にでも――「お風呂」――は?」
お風呂、入る。
ブラッドにしがみついたまま、アリスはぼんやりとした目でそう呟いた。
疲れている。泣いたから余計に疲れた。
そして泣くという行為で感情を吐き出してしまった後の倦怠感が、アリスの正常な思考を怠惰にさせる。
「お風呂に入れて」
はい、だっこ。
おらおらと言わんばかりに、アリスはぐーっと額でブラッドの胸を押す。
「……労られるべきなのは私じゃないか?」と言うブラッドに、アリスは「後でね」と言った。
「後で……埋め合わせはするから」
「………………」
「ごめんなさい。悪かったわ。悪いとは思ってるの。本当に、申し訳ないことをしたと思う」
だから、
「だから、悪いことをしているついでに、お風呂に入れて」
もう、動きたくないのよ。
動きたくない。
服を脱ぐのも身体を洗うのも、また服を着て寝床に入るのも億劫だ。
スーツを着て、コートまで着て、このまま床で寝てしまっていいほどの倦怠感。
じーっと動かないアリスに、折れたのは当然ブラッドだった。
ひょいっと軽々アリスを抱えて、すたすたと浴室へ向かう。
服を脱がせるべく彼女を地面に降ろすも、自身の足で立っていられないのか脱衣場にへたり込むアリスを見て、ブラッドは「重症だな」と呟いた。
「食べられる?」
「……甘そうだな」
「自分が買ってきたんでしょう」
だらだらとお風呂に入り、二人揃って出てきた頃にはもう3時近かった。
蝋燭の光だけが輝くリビングで、ソファに腰掛けたブラッド。
その膝の上で横抱きに乗せられているアリスは、手元のケーキをぱくりと口に含みながら「美味しいわよ」と呟く。
「食べる?」とケーキを刺したフォークをブラッドに差し出すも、彼はすかさずそのフォークを奪ってアリスの口に突っ込んだ。
「君のために買ってきたケーキだ。君が食べるといい」
「……5個は多いでしょ」
「クリスマスだからな。色々買っていっても悪くないか、と思ったんだ」
まぁ確かに。
クリスマスにショートケーキ2つだけというのももの悲しい。
予約したケーキだって小さめだったがホールで買う予定だった。
だとしたら、5個くらいは妥当なのかもしれないなと思いながらも、「ブラッドが食べられなきゃ意味ないじゃない」とアリスは眉を顰める。
「私は雰囲気だけ楽しむことにする」
「……雰囲気?」
「あぁ。一応、クリスマスパーティだろう?」
「……日付、超えちゃったけどね」
おまけに豪勢な食事もない。
あるのはショートケーキと、時間帯にはそぐわぬ紅茶だけ。
「甘い、か?」
「そうね。ブラッドには甘いかも」
「気になるなら食べてみる?」と言おうとしたところで塞がれた唇を、割って入ってきたブラッドの舌がアリスの口内を絡め取る。
「……甘い」
再度、入ってきた舌にアリスの身体が震えた。
だがブラッドは片手でしっかりとアリスを抱きとめたまま、彼女が持っていたケーキの皿をテーブルの上へと戻す。
埋め合わせは、今からでもいいかな?
ぼんやりとした視界一杯に広がるブラッドの顔。
耳に届いた声はちゃんと聞こえたが、それにアリスが返事をすることはなかった。
(……めりーくりすます、)
本当はもう、終わっているけど。
ブラッドとアリスのクリスマスはここからだ。