約束の1ヶ月目。
最終日。

手始めに寝起きを襲ってみたが、「おはよう、お嬢さん」と返されてそれが失敗したことを悟った。
穴の開いた枕を差し出されて、思わず「勿体ない」と呟く。


「枕を駄目にしているのは君だぞ?」
「貴方が大人しく刺されてくれないから駄目になるのよ」

今回のゲームで犠牲になった枕の数は55個。
キリが良いので、夜は強襲しないでおこう。


朝食を用意しながら、アリスは「仕事休みなんでしょう?」とブラッドに問いかけた。
それに彼がした返事は「あぁ」という淡泊なものだけで、眠いのか若干目が虚ろになっている。
目玉焼きにトースト、サラダと簡単な朝食を取りそろえたが、これにアリスは毒を仕込まなかった。
「いただきます」とだけ言って、二人向かい合わせて取る食事はいつもの光景。
窓の外から差し込む光は明るくて、立ち並ぶ高層ビルに反射する日の光が眩しい。
(外に出たいな)と一瞬思ったが、出たところでやりたいこともないことに気付いて、アリスはすぐに外から視線を逸らす。

昨日の夜はブラッドと真正面から殺り合ってみたが、体術でも彼には敵わないことが判明した。
身のこなし方が常人ではなく、アリスの体力が尽きてしまっても、彼は息一つ乱すこと無く笑っていたのだから口惜しい。
「もう終わりかな?お嬢さん」と声を掛けられて、悔し紛れに「っ、今日の夕飯はあんたが作りなさいよ」と悪態を吐いたほどで、そしてちゃんと作ってみせるのだから本当に腹が立つと不貞寝したのが最終日の前日。
正直――失敗したと思う。


(でもじゃあどうしろって話よね)


隙も突けない。毒も見破られる。真正面からでも敵わないときたら、あとアリスに残されている手法は何だろう。
やり残した事など全く思いつかないし、この男に勝てるビジョンも浮かばない。
自分の命は今日までだというのに、その実感も湧かなくてアリスは途方に暮れていた。


「ねぇ、ブラッド。この本読み終わったから続きを貸して」
「……構わないが、私を殺すのは諦めたのか?」
「諦めたつもりはないけど、だからと言って一日中貴方の相手なんかしてられないわ」

そんな体力ないって、知ってるでしょう?

嫌味な男ね、と睨めば、彼はくつくつと笑って「そうだったか?」と席を立った。


「今日一日で読める分量ではないぞ」
「途中まででも読みたいわ」

それに貴方を殺せたら、ちゃんと完結まで読めるもの。


心にも思ってないことを言って、アリスは本の表紙を撫でた。
多分無理。というより確実無理。
でも諦めるのは癪だから、最期まではやるつもり。
出た言葉は、その意思表示でもあった。
ブラッド自身に伝わることのないアリスの決意。

アリスは自分の命に差して興味がなかった。
そりゃあ生きていたいとは思うけれど、是が非でも生きたいと思うほどの希望はない。
生きていたって組織に飼われるだけの、二流の殺し屋だ。
夢は確かにあるし叶えたいとも思うけれど、そうしても虚しいだけということも知っている。
アリスの夢はそういう夢だ。
叶ったところで誰も、自分自身も救えない夢。
本当は生きている理由なんて、きっとどこにもないのだろう。


ブラッドに差し出された本は分厚い。
「ありがとう」とお礼を言えば、彼はいつものように「どういたしまして」と言う。
本を受け取る瞬間に、ひゅんっと毒針を刺してみる。
が、それもやっぱり避けられて、アリスは「上手くいかないわねぇ」とぼやいた。



「――今までの中に、貴方を殺せそうな人はいた?」



どうせ最期なのだから色々聞いてしまおう。
そんな軽い気持ちで言葉を放ったアリスに、ブラッドは少しばかり目を見開く。
だがそれはすぐ元の笑みへと戻り、「2人ほど惜しかった奴がいたな」と言った。


「中々スリルのあるゲームだった」
「このゲームは女の人とばかりしてるわけ?」
「男を囲っても面白くないだろう。24時間体力勝負になるだけだ。考えただけでだるい」
「……女の人にもそういう接近型の人はいるでしょう」
「まず男と女では体力が違う。中にはそういう者もいたが、私も鍛えていないわけではないんでね。持久戦に持ち込めば此方のものだ」

男だと体力が均衡してしまう場合もあるし、私はそういうスポコン的なゲームをしたいわけじゃない。


「私がしたいのは、心理的なゲームだ。1ヶ月という期間の中で、命をかけた駆け引きがしたい」
「そういうゲームは女の方が向いてるって?」
「あぁ。女には――まぁその者によるが、男よりも暗殺の手段を持っている場合が多い。食事にしろ、何かのトラップにしろ、君の手段にはなかったようだが、色事で仕掛けてくる者もいる」

男だとこうはいかない。


ブラッドの理屈は理解できるが、それでもやっぱり趣味が悪いというか性格が悪いと――アリスは思った。
スリルを楽しむという割には、その度合いが過ぎているとさえ思う。
そんなアリスの考えが分かったのか、ブラッドはにやりと彼女を見下ろして、「それだけ私が退屈しているということだ」と言ってのけた。


「暗殺の腕が良かろうと悪かろうと、その姿が美しかろうと醜悪だろうと、生け捕りにした女とは全員このゲームをした」
「……飽きないの?」
「ゲームを繰り返すことに飽きはしないが、同じ女を1ヶ月相手にするのは飽きるな」
「まぁ1ヶ月もするとパターン化するわよね。基本この部屋から出られないし、武器や道具も手持ちだけ。おまけに攻撃できるスケジュールが決まってるんだから、ワンパターンにもなるわよ」

事実、自分もそうだ。
だからこそ、アリスは彼を殺すことを諦めているし、きっとそれは他の暗殺者も変わらなかっただろう。

「一流と呼ばれる殺し屋を生け捕るのは難しくてな。さっきも言った通り、スリルを味わえて尚且つ惜しかった≠ニ評価できるのは2人だけだ」
「それは――楽しかったでしょうね」
「まぁそうだな」


1ヶ月以上続ける気にはならなかったが。


率先してリビングの扉を開けてくれるブラッドの姿は紳士的だ。
無意識に、アリスは「ありがとう」と言っていつもの定位置へと歩き出す。



「君は――」



ふいに、背後から言葉を続けられて、アリスは「ん?」とブラッドの方へと振り返った。
どこか神妙な……それでいて楽しそうに口元を緩める彼の顔は、あまり見たことない表情だった気がする。


「君は――暗殺者としては二流も良いとこで、スリルなど全く感じないのに、面白いな?」
「……馬鹿にされているのかしら」

悪かったわね、腕が悪くって。


むっとした表情をするアリスに、ブラッドは「感心しているんだ」と言った。


「普通そういう者は、自信を喪失して途中で諦めたり自決したり、媚を売り始めたりするんだが……君はそうならないな」
「……別に自信があるわけじゃないわよ?」
「そうだろうな。君は自分の力を過信しているわけではなさそうだ。それなのに、未だに食い付いてくる所が面白い」
「……できようとできなかろうと、途中で放り出すのが嫌なだけよ」
「そういう生真面目さも、暗殺業向きとは言えないな」


おまけに――


アリスと距離をつめたブラッドは、彼女の栗色を一筋取って指の間で滑らせる。
それに何の意味があるのか分からなかったが、確かにブラッドは楽しそうだった。



「君は――私の目を見て話す。私に意見する。人生最期の日だというのに絶望一つ見せやしない。それどころか読書に勤しもうとするなど、馬鹿なのか?」
「……うるさいわね。どうせそんなに賢くないわよ。貴方を殺す方法も今のところ思い浮かばないし」
「なのにどうして絶望しない?どうして私に媚びて見せない。命乞いの一つでもすれば助けてやるかもしれないぞ?君は今まで捕らえた女の中で初めての読書仲間だ。少しくらい、融通を利かせてやってもいいと思っているかもしれないというのに」



ぐいっと髪の毛を引っ張られて、アリスは「痛っ」とナイフを下から救い上げる形で振った。
ぱっと離れたブラッドの手。
素かぶりしたナイフを仕舞いつつ、「何するのよ」と男を睨み付ける。


「――そこで、私にナイフを突き立てようとするならまだしも…………」


君は、自分の髪を切り落とそうとするんだな。


ブラッドの言葉に、アリスは「何よ」と反論する。

「髪の毛を引っ張られて痛い思いをしてるんだから、引っ張られている所を切り落とした方が確実じゃない」
「……それがおかしいという話なんだが、」
「何よ。おかしいのはブラッドの方だわ。何なのよさっきから」

頭をさすりながら、アリスは借りた本を抱え直す。
見上げたブラッドの表情は何かが変だ。
さっきまでの笑みは消えて、まるで困ったような表情でアリスを見下ろしている。


「……私は、君を屈服させたい」

精神的な意味で。


そう言って、ブラッドはわざとらしく溜息を吐いた。
「そんなこと言ったら、私が意地でも屈服なんかしないって分からない?」と問うと、「言おうが言わまいが、君は私に屈服などしてくれないだろう」と返されて、分かってるじゃないとアリスはブラッドを背にして窓側の椅子へ駆け寄る。


「11時半になったら声をかけて。お昼用意するから」


ブラッドの方を見る事なく、アリスはぱらりと本のページを捲る。
それに怪訝な顔をしたブラッドだったが、もう此方を向いてもいないアリスに何か言うこともなく、再度溜息を吐いてソファに腰を下ろした。


タイムリミットまであと21時間。





□■□





お昼を過ぎて、15時のおやつの時間になっても、アリスにはブラッドを殺す方法が思いつかなかった。
尤も、読書に勤しんでいる時点でやる気が無いと思われるかもしれないが、アリスはアリスなりに色々考えているつもりである。
本の内容は半分も入ってこなくって、これでも緊張してるのかしらなんて自己分析しながら、ふわりと漂ってきた匂いに顔を上げる。


「アリス、お茶にしよう」
「……自分が飲みたいだけじゃない」
「どうせなら、味の分かる者同士で楽しみたい」

いつの間にか用意されているティーセット。
本を閉じて「お茶菓子を取ってくるわ」と言うと、「いいから座っていなさい」とソファの方へ促される。
そう言うのなら従っていようと、アリスはソファに腰を下ろし、淹れ立ての紅茶を眺めながら「今日はウバなのね」と呟いた。
独特のメントールの香りがする。

「今茶菓子を持ってこよう」

ふっとキッチンの方へと向かったブラッドの背中を見つめながら、アリスは本をテーブルの上へと置きなす。
暖かい紅茶を眺めながら、(ほんと、ブラッドって紅茶狂いよね)とカップの口をなぞった。

毎日、と言わないが、頻繁にブラッドはお茶をしたがる。
彼に紅茶を語らせたら止まらないし、普段だるだる〜っとしている男が急に生き生きし始めるのだから気色悪い。
あぁほんとに好きなのねと、嫌と言うほど実感したのは一体いつだっただろう。
砂糖やミルクなど、紅茶に不純物を入れるなというのだから徹底している。



(不純物、ね……)

紅茶は必ずブラッドが一から用意していた。
いつだってそれは変わらず、拘りを持っているからこそ彼は自分で紅茶を淹れたがる。



(入れたら、怒るかしら)



怒るで済めばいい。
済みそうにない。
だがこれはやったことがなかった。
試したことがなかったと思って、アリスはポケットから小瓶を取り出して蓋を開けた。



(紅茶に毒は、入れたことない)



紅茶に絶対の美学がある彼は、怒るだろう。
もしかしたら殺されるかもしれないが、どうせ今日までの命なのだから、やれることは全部やってみればいいじゃないか。
珍しく、今この場にブラッドはいない。

だからアリスは――――



「……………」



ブラッドの紅茶に毒を入れることに、何も躊躇いもなかった。










暫くして戻ってきたブラッドは、自分の紅茶を見て一瞬で顔を顰めた。
(あぁやっぱり分かっちゃうんだ)とアリスは落胆し、さて一体どんな怒りを買うだろうと思ったが、予想に反してブラッドは何も言ってこない。
ただじっと紅茶を眺めて、何か考え込んでいる。

その間、アリスはバレていると分かっていながらも、表面上何も知らないふりをして振る舞った。
てきぱきと持ってきて貰った茶菓子を並べ、あっという間にお茶会の風景は完成する。




「……なぁ、アリス」

ようやくブラッドが声を発したときには、紅茶の湯気は消えていた。
冷め切ってはいないだろうが、ぬるくなってしまっているであろうそれを見て、アリスは(勿体なかったな)と残念な気持ちになる。


「…………なに?」


数泊遅れてアリスはブラッドに返事をした。
彼の視線は未だ毒の入った紅茶に注がれている。


「私は、紅茶を冒涜するような行為が嫌いでね」


(……でしょうね)


思ったが、アリスは何も言わない。



「こういう事は、許しはしないし、許すつもりもない」



紅茶のカップを傾けながら、ブラッドは淡々と語る。
ざわりと――鳥肌が立つ感覚がした。
(これは、)まずい――と思いながらも、アリスには逃げる手立てがない。



「まぁ、居たと言えば居たな。こういう行いをする愚か者は――」

総じてその場で息を止めてやったが……



つっとブラッドはアリスに視線を移して、にやりと笑う。
絶対零度に近い笑みだったが、アリスはブラッドの目から視線を外すことができない。



「なぁ、アリス」



伸びてきた手はいとも簡単にアリスの腕を掴んで、大した力も込めずに身体をソファへと押しつける。
あまりの冷気――殺気に全身の力が抜けてしまったアリスは、仰向けになった状態で反論もできずブラッドを見上げた。
何故ブラッドの後ろに天井が見えるのかも理解できなくて、「息をしろ」という彼の言葉にようやくはっと喉を鳴らす。

今まで、自分が呼吸を止めていたことにすら気付かなかった。



「今までそういう奴らは皆その場で屠ってきたが……」
「…………」
「君は少し違うな?」



何を言われているのかが分からなくて、アリスは目を白黒させる。
殺される、と自覚したのは初めてだ。
分かっていたことだけど、いざそうなると言葉も出ないものらしい。



「君は、他の奴らとは違う」
「…………」
「こうすれば、私に殺されると分かっていて――やったな?」



あぁ、分かっていたとも。
分かっていたはずだけど、こんなに恐怖を伴うものだとは知らなかった。
どうせ今日で終わる命だったが、身体の内から冷えていく恐怖など知りたくなかったとアリスは思う。



「アリス」



耳元で囁かれて、アリスはびくりと身体を震わせた。
ソファに押し倒されて、身体を密着させている今の状況。
今すぐナイフを取って彼の背中に突き立てれば自分の勝ちだが、ぴくりとも動かない身体にアリスはひたすら息を呑む。



「君は面白い」


だから、私も面白いことを思いついた。



囁くような声色。
優しげなそれは、彼の纏う空気と似ても似つかない。


「おもしろい、」こと――?


ようやくアリスの喉から発せられた声は、かろうじて震えていなかった。
アリスの言葉に、ブラッドは「あぁ、そうだよ」と彼女の身体をきつく抱き締め、その太ももにゆっくりと手を這わす。



「延長しよう」
「………………」
「もう1ヶ月」
「――――――」



自身の目が見開くのを、アリスは自覚した。
この男は、一体何を言っているのだろう。



「面白いゲームは、何度でも繰り返したいと思わないか?」

「な、に――」言って、

「君とのゲームを気に入った。だから、もう1ヶ月勝負しよう」

このまま存分に、私を楽しませてくれ。



アリスの首筋から顔を上げ、ブラッドは鼻と鼻が触れ合いそうな位置で彼女の顔を見つめる。
そのまま唇まで触れ合いそうな勢いに、アリスは「なんで、」と言葉を漏らす。



「それとも拒否して、このまま私に殺されたいか?」



ブラッドの言葉に、アリスは(そういうわけじゃないけど)と困惑の瞳を彼に向ける。
声に出していない彼女の意思を汲み取ったブラッドは、また再度、「延長だ」と囁く。



「だがそうだな、延長してやる代わりに――代償とルールの追加を設けさせてもらおう」

なに、そんな難しいことじゃない。
楽しいことだよ、お嬢さん。



怪しく光るブラッドの瞳に、アリスは飲み込まれそうだった。
食い殺されそうというのだろうか、真っ暗なその瞳を直視するのが恐ろしい。
だが逸らせもしないのだから、アリスは震えそうな身体を叱咤してブラッドの服を掴む。



「代償として、今この瞬間君の身体を貰おうか――」

「――――――」



「は、」と声が漏れた頃にはもう遅い。



「ルールの追加は――家事炊事に加えて、私の夜の相手を務めてもらおう」

拒否権はない。



「ゲームに参加する以上は、私がルールだ」



言い終わると同時に振ってきた口付けは、アリスの正常な思考を完全に吹き飛ばした。



悪魔より祝福のキスを

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

ようやく半分。

2015.12.04