ブラッドとアリスがゲームを始めて3週間になろうとしている。
珍しくブラッドは「飽きた」と言い出さないし、毎日楽しそうで休みもしっかり取ってくれる分、部下であるエリオットは複雑だった。
「今回の女は手応えがあるのか?」と尋ねれば、「中々面白いお嬢さんだよ」と返ってきて益々面白くない。

「今回のはアタリだったな。まともな生活が送れる女は久しぶりだ」
「あー毎回なんかあるもんなー。まぁ普通の殺し屋は、家政婦の真似事なんかできねぇだろ」

一概には言えないが、未だ成長中のこの組織は軽く見られがちな所もある。
二流三流の暗殺者が遣わされてくることも多くあり、それこそ一流と呼べる暗殺者、しかも女など一握りではないだろうか。
そしてそんな人間を生け捕りにできた事も、数えるほどしかない気がする。

「腕は二流も良いとこだが、趣味が読書という女は初めてだったしな。話していても中々賢いし、退屈しない」
「ふーん。まぁ、ブラッドがいいならいいんだけどさ」
「未だに効きもしない毒を仕込もうとするし、襲いかかっても来る。あの諦めの悪さは見ていて楽しいよ。自決したり、途中で媚を売ってくる女よりよほどいい」

ブラッド=デュプレがアリスという女としているゲームは、何もこれが初めてのことではない。
女の暗殺者を生け捕りにする度、ブラッドは暇つぶしと称してゲームを行う。
そんな危ないことは止めてくれとエリオットは何度も懇願したのだが、上司は頑として聞き入れてくれず幾度となく同じ事を繰り返していた
実際、ブラッドにとってこれは本当にゲームなのだろう。
暇つぶし程度の意味しかなく、楽しそうにしている時期もあれば「飽きた」と言い出すこともある。
気まぐれな主は1ヶ月という約束を投げ出すこともあるし、例え守っても今のところ全てブラッドの勝ちだ。
いつもは大体2週間と立たず「飽きた」と言い出すのだが、中々今回の女は手応えがあるらしい。

「俺には分かんねぇなぁ……まぁ、いいや。それよりブラッド、この案件なんだけど―――」

どうせあと1週間で終わるゲーム。
そしてブラッドが勝つと分かっているゲームを、エリオットは頭の隅から叩き出して書類の束をブラッドの前に差し出した。
今回の仕事はかなり大規模なものだ。
決行の日も迫ってきているし、そろそろ自分のボスにも集中して欲しい。

「これの打合せをしてぇんだ。帰り、遅くなってもいいか?」
「……まぁ、仕方が無いな」

書類を受け取りながら、ブラッドはだるそうに片肘をついて溜息を吐く。
ふとアリスに連絡すべきかとも思ったが、直後に飛び込んできた部下の報告にブラッドはそれを完全に忘れた。





□■□





夕飯を食べて、お風呂に入る。
行儀悪くベッドに転がって本を読んでいたアリスだったが、ちらりと視線を上げて飛び込んできた時計の針が、21時を過ぎていることに眉を顰めた。
今、部屋の中にはアリス一人だ。
ブラッドは当然のように帰ってきておらず、用意した夕飯は冷蔵庫の中で眠っている。

ブラッドが帰ってくる時間というのは、大抵が17時。
遅いときは19時頃。
それは大体一貫されており、これから帰るという連絡は毎日必ず入ってきていた。
未だ鳴らない電話機を思い浮かべながら、まだ仕事なのだろうとアリスは再度本を読む。

あと1週間。
あと1週間でブラッド=デュプレが殺せそうかと問われれば正直かなり厳しい。
何せアリスには策がないのだ。
隙を突くくらいしか術がない。
固定された室内に、固定されたスケジュール。
その中で突ける隙は全て突いたつもりだし、もうこれ以上どうしろと言うんだと、アリスは投げやりな気持ちになっていた。
それでもナイフでの攻撃は欠かさないようにしているのだから、努力の一つや二つは認めて欲しい。

3週間、長いようであっという間だったこの期間。
ゲーム上とは言え、結構良い生活だったなーなんて思い始めている辺り、アリスは本当に諦め半分だ。
でも人生最期の1ヶ月としては悪くなかった気がする。
確かに屈辱的だったし口惜しい思いも最初はしたが、好きなだけ読書をして美味しいものを沢山食べて、一緒にいる男は最低極まりなかったが、嫌いかどうかと言われるとそうでもない。
アリスは確かにブラッドを殺そうとしたし、今もしているが別に彼本人に恨みがあるわけじゃない。
自分が所属している組織の一員として、結局動機としては仕事の一言。

アリスが自分の夢≠叶えるために、一番出世に近いコースだったのがブラッド=デュプレの暗殺だ。

だから別に、彼本人を憎んでいるわけじゃないし、妙な関係だが付き合ってみれば悪くないと思っている自分もいる。
本の趣味は悪くないし、出される紅茶も一級品。
アリスが作った食事にも文句を付けることはないし、時折チェスに興じることもしばしばある。
完全に、友人感覚。
言いたい事を言っても怒らないし、何かの事柄について議論しても面白い。
この3週間で、アリスにおけるブラッドの印象は大分変わってしまった。
変わってしまったと自覚している辺り、やはりアリスに暗殺業は向いていない。
そりゃそうだ。
アリスは根っからの殺し屋ではない。
意図せずしてなってしまったのであって、それなりにプライドはあっても本来性格的に向かないのだ。


『君は一体――どこのお嬢さん≠ネのかな?』


ふいに、ブラッドに言われた言葉が脳裏に響く。
彼は分かっただろうか。
私の事を、知ってしまったのだろうか。
知られたところでどうという問題でもないが、アリス自身が放って置いて欲しいと思っているのも事実。
アリスの過去など、些細なものだ。
それなりに不幸な過去≠ナはあるだろうが、この世界にそんな人間は掃いて捨てるほどいる。
アリスは生きるためにこうするしかなかった。
失ったものを追いかけるのは簡単だったが、それをしなかったのはアリスの選択。
このゲームだってそうだ。
参加は強制的だったが、ゲームを続けると選択したのも自分自身。
途中で自決するのも簡単だったが、そうしなかったのはアリスなのだから。
だから、最期までやり遂げようと思う。
最期まで、ブラッドにも付き合って欲しい。



(で、遅すぎよね)

帰ってくるのが。



時計を見れば、もう22時になろうとしている。
何かあったのかしら、と思う程度には――アリスはブラッドのことを考えていた。

(夕飯のリクエストして行ったくせに)

いつだったか、頼まれてカップケーキを作ったときから、ブラッドは時折料理のリクエストをしていくようになった。
最初からメニューを考えるよりは手間が省けていいのだが、リクエストしていったくせに帰りが遅いとは何事だろう。

のそりとベッドから起き上がって、アリスは電話機のあるリビングへと足を踏み入れる。
いつになったら鳴るんだとそれを覗き見ても、ディスプレイには現在の時刻が示されているだけでうんともすんとも言いはしない。
隣に置いてある簡易メモには見慣れた電話番号だ。
一度もかけたことのない、ブラッドの番号。

かける機会などないと思っていたし、それは今でも思っている。
思っているのに――アリスは受話器を手に取った。

ゆっくりと、メモを見ながら番号を押す。
この間アリスの心は半分ほど空っぽだった。
ただ帰りが遅いな、と思って。
夕飯が、冷蔵庫の中でどんどん冷えていくから。

プルルルル――という機械音がアリスの耳に響く。
だがそれは何度鳴り響いても、目的の声が聞こえてくることはない。


『只今電話に出ることができません。ピーっという発信音の後に、お名前とご用件をどうぞ』


かけて――どうするつもりだったのだろう。
何というつもりだったのだろう。
帰りが遅いとか、そんなのブラッドの勝手だ。
勝手というより、当たり前のこと。
だって相手は敵組織のボスなのだから――アリスは一体何を勘違いしているのだろう。

はっと気付いた時には、ピーっという発信音が耳に響いていた。
それが鳴った時点で、慌てて切っても不自然なだけ。
無言の留守電が残ってしまう現象は、混乱する頭の中でどうにかして避けたいと思った。

発信音が鳴り終わって、約2秒の無言。





「――――――アイス買ってきて」





苦し紛れに出た言葉を最後に、アリスは乱暴に受話器を叩き付けた。
そして膝から崩れ落ち、片手で顔を押さえながら後悔という後悔に苛まされる。




(ア、アイス買ってきてってなに!?)

自分の言った事に最早責任さえ持てない。
何でそんなことを口走ったのかも分からない。
12月も終わりかけようとしているこの真冬の日にアイス!?
どんどん赤くなる頬を自覚して、アリスは穴があったら入りたいと思った。
それか今この瞬間ブラッドの携帯電話が爆発すればいい。
とにかく誰かあの意味の分からない留守電を消してくれ。

アリスは、アリスは今猛烈に後悔している。
時間が巻き戻るなら戻ってくれ1分48秒前に。
そしたら留守電が始まる前に電話切るから!!


「っ、」

どうしよう。


多分初めてこの部屋で目を覚ましたときより、アリスは真剣にそう思った。













23時14分。
面倒な会議がようやく終わって帰宅し、玄関を開けたブラッドの視界に飛び込んできたのは、げんなりとした顔をしたアリスの姿だった。


「……おかえりなさい」

「……あぁ、ただいま」


出迎えなど、珍しいな?


普段なら、ナイフが飛んでくる。
この3週間毎日飛んできたはずのナイフが、今日に限って飛んでこないことにブラッドは訝しげな顔した。
が、そんなブラッドをアリスは気にする様子もなく、じっと彼の手元を見つめて動かない。

「?」

益々訝しげな顔をするブラッドに、アリスはぽつりと――彼の手元から視線を外さず呟いた。



「…………ほんとに買ってきたんだ」

アイス。



アリスの呟きに、ブラッドは「買ってこいと留守電に残したのは君じゃないか」と言った。


「そうだけど……」

ほんとに買ってくるとは思わなくて。

がさりとアイスの入った袋を受け取りながら、アリスは微妙な顔をして中身を覗き込む。


「君からの電話など珍しいと思ったが、予想外のおつかいに笑わせて貰ったよ」
「……………」
「そんなに食べたかったのか?」
「う、ん……まぁって――8個も入ってるじゃない」

「買い過ぎでしょ」と言うと、「何がいいか分からなかったから適当に買ってきたんだ」と、ブラッドはアリスをリビングの方へ誘導しながら告げる。


「気長に食べればいいさ。留守電に残すほどだ。さぞかし食べたかったんだろう」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

ち――がう、とアリスに言う勇気はない。
あれは苦し紛れに出た言葉であって、別にアイスが食べたかったわけじゃない。
だがそれをブラッドに言うのは憚れるし、言った所でどうなる話でもなかった。


「―――無視してくれも良かったのに」
「ん?何故だ?」
「何故って――――」

だってこれは、私の我が儘だから。


別にアイスを買ってきて欲しかったわけではないけれど、買ってきてという言葉はアリスの我が儘だった。
ブラッドには関係ない。
いつも買ってきて貰う、生活用品や食材とはわけが違うのに。


「私がそんな薄情な人間に見えるか?」
「こんなゲームしてる時点で薄情もへったくれもないわよ」

真冬のアイス。
食べたいか食べたくないかと問われれば、正直遠慮したい。
(ケーキにしとけば良かったな)なんて思いながらも、アリスは袋から一つだけ手に取って、あとは冷凍庫に放り込んだ。

アイスバーを咥えながら、冷蔵庫に入れて置いた夕飯を取り出して暖める。
一応振っておくかと毒の小瓶を取り出したところで、「やめてくれないか」と背後から声をかけられながら、アリスはせっせと夕飯の準備をした。
テーブルに食事を並べながら、「忙しかったの?」と問いかけつつ目の前で飲み物に粉塵を入れる。
それに対して、「今日は少しな」などと答えながらブラッドは飲み物をアリスの方へと押し返した。

「毒なんて入れてないわよ?」
「しれっと嘘を吐くのはやめてくれないかな、お嬢さん」

さすがに騙されてくれないか。

まぁ当然だ。
新しい飲み物を取りに行くべくアリスはキッチンへと逆戻りする。


あぁもう、ここまで来れば何てこと無い日常だ。
時刻はいつもより遅いし、アイスは冷たくて身震いするけど、それ以外は何一つ変わらない。

あと1週間か、と考えて――アリスはぼーっと天井を見上げた。
取りあえず薦められた本は全部読んでしまいたい。
ほぼほぼ諦め掛けているアリスは、新しい飲み物にまた毒をぶっかけながらそんなことを思った。



果たしてこの情は真実であろうか

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

ブラッドにアイス買わせたかった。

2015.12.04