「楽しい?」
「あぁ、楽しいとも」
背後にいる男に向かって視線もくれずナイフを突き立てようとする。
が、その腕はあっさりと捕まえられてしまって、武器はそのまま取り上げられてしまった。
結果的に自由になった両手で、頼まれたカップケーキを作るべくアリスは料理本のページを捲る。
「できるまで結構時間がかかるわよ?」
「構わない。その過程を見るのも、たまには良いと思ってね」
「……相変わらず気まぐれですこと」
くるくると頭上で弄ばれるナイフ。
(誤って人の頭に落としてくれたりしたら急所蹴り上げてやる)などと物騒なことを考えながらも、さすがに器用なその男の手元は狂いない。
そのうちナイフで遊ぶことに飽きたのか、人の腰を抱き寄せ大きくスリットの開いた太ももに手を這わし、ガーターリングに仕舞い込んでくれるのだから手慣れている。
「あなた、甘い物が好きなの?」
ブラッドの目の前で、堂々と生地に毒をすり込もうとする。
「物によるが、特別好きなわけではないな」
だがそれさえもあっさり阻止され(当然である)、毒の入った小瓶にしっかり蓋を閉めた後、ぽいっとその辺に放り投げられた。
「……なんでカップケーキ?」
「そういう気分だったからだ。15時におやつには似合いだろう?」
ちらりと時計に視線をやれば、時刻は14時を差している。
確かに、今から生地を型に流し込んで焼き始めれば15時のおやつにぴったりだ。
どうせその際には、ブラッド自慢の紅茶が用意されるのだろう。
実を言うとこの男に出される紅茶は気に入っているのだが、認めたくないので「美味しい」と告げたことはない。
「折角の休日だ。何か映画でも見るか?」
「……興味ないわ。読書の続きがしたい」
それか外に出たいわ。
そう言うと、ブラッドは「君は本当に本が好きなんだな」と言った。
外に出たいの発言は完全にスルーである。
出す気もなければ聞く気もないのだろう。
大げさに溜息を吐いて見せれば、「お薦めの本でも見繕ってやろうか?」と問われる。
あぁ、本当にこの男は人の話を聞く気がない。
「結構よ。ほら、邪魔だから寄って頂戴」
再度ナイフを突き立てようとしてみる。
ぱしりと腕を取られてまた不発。
「つれないお嬢さんだ」と男はボヤきながら、取り上げたナイフを片手にリビングへと戻っていった。
ついでに、転がっている毒の小瓶を回収することも忘れない。
(……そんなにカップケーキが食べたいのかしら)
今から塩でも混ぜて不味い代物に仕上げてやろうかと思ったが……一瞬だけ考えて、アリスは辞めた。
勿体ないし、私も食べたい。
中々欲望に忠実なのは、あの男だけでないらしい。
□■□
この部屋で家政婦のような生活をし始めて2週間。
アリスはブラッドを殺せるどころか、傷一つ追わせたことがない。
(暗殺者の名折れだわ)と半ば諦めも入り始めた頃だが、アリスは根気よく作戦を練ってブラッドに挑んでいる。
まぁ今のところ悉く惨敗中なのだが、一度トイレから出てきた所にナイフを放り投げてみたら、これは案外効いたらしい。
見事なほどに避けられはしたが、あの時のブラッドの顔は引きつっていた。
あの顔を思い出す度、日頃の恨みが募って胸がスっとするのだが、さすがに2回目以降は上手くいっていない。
同じ手法は二度通じないということだ。
お茶会が一段落した所で、アリスはいつもの定位置に座って読書をし始めた。
ブラッドはというと、ソファに座って仕事し始める。
(結局休みでも仕事をするのなら、いつものように屋敷へ出向けばいいのに)
帽子屋ファミリーの本拠地。
アリスが忍び込んで、捕らえられた場所でもあるそこだが、その屋敷はこのマンションからそう遠い位置にあるわけではない。
よくよく話を聞いてみれば、このマンションはゲームをするためだけに用意した場所らしい。
金持ちの道楽というかマフィアらしいというか、もうなんだかんだとブラッドらしい手の込みように、アリスが抱いた感情は呆れの方が強かった。
普段は屋敷の方に住んでいるのに、ゲームのためだけにブラッドはこのマンションに帰ってくる。
付き合っていく内に分かったことだが、この男は極度の面倒臭がりだ。
一度問うたことがある。
「面倒だろう」と。
暇つぶしや退屈しのぎのゲームにしては面倒の方が勝るとアリスは思うのだが、この何を考えているのか分からない男は「楽しいよ」と宣うのだ。
帽子屋。
マッドハッター。
文字通りのイカれた男。
アリスにこの男が考えていることはさっぱり分からない。
分かりたいとも思わないが、分からないと不安になる。
この1ヶ月――あと2週間に意味はあるのか。
アリスは無意味な時間が一番嫌いだ。
無意味だったと自覚するのも、嫌だ。
ふっと本から顔を上げて、流れるような動作でアリスは窓の外を見た。
チャイナドレスというのは中々便利なもので、腰まで大きく開いたスリットが動きやすい。
丈が長い分獲物を隠すのにも絶好だし、通常体制で手の位置が近い分時間の短縮にもなる。
目にも止まらぬ速さで――アリスはガーターリングから抜き取ったナイフをブラッドの方に投げた。
顔は依然と窓の外。
ターゲットがどうなったのかも確認せぬまま、再度読んでいた本へと視線を移す。
ぎしりと、ソファが軋む音がした。
ふいに視界に影ができて、アリスはようやく顔を上げる。
「退屈なのかな?お嬢さん」
投げたはずのナイフを差し出されて、アリスは「そうかもね」と言葉を紡ぐ。
受け取った自身の獲物は軽くて冷たい。
人を殺すためだけのその無機物は、アリスにとって何の価値もないものだ。
「その本は、君の趣味に合わなかったか?」
平然と目の前に座るブラッドに、アリスは「仕事はいいの?」と問いかける。
「別に急ぎじゃない。時間があるなら捌こうと持ってきただけだ」
「……………」
足を組んでだるそうにそういう男は、とてもマフィアのボスには見えなかった。
若くて、品があって、おまけに強いし頭もキレる。
アリスの組織のボスとは大違いだ。
中年太りの、部下がいないと自分一人では何もできない、ただ偉ぶっているだけの組織の頭。
だがそういう人間がどの組織にも多いことはよく知っている。
だからこそ、ブラッドのような男は珍しい。
椅子の上で体育座りをし、本を抱えていたアリスは「そうね。趣味じゃなかったかも」と――当初のブラッドの問いに答える。
じっと見つめた本の表紙は暗い。
連続猟奇事件をモチーフに書かれたその小説は、残忍で動機も不明で、ただ人が死ぬという事実だけを書いたものだ。
どんな思いで作者がこの小説を書いたのかは分からないが、アリスにはあまり受け入れられそうにない。
意味の無いものは嫌うアリスは、意味の無い殺人も嫌いだ。
暗殺者としては――多分向いていない。
「見繕ってやろう。書斎へおいで」
立ち上がって手招きするブラッドに、アリスは大人しく従った。
「これ返すわ」と読んでいた本を突き出せば、彼は笑ってそれを受け取る。
「読書は、眉間に皺を寄せてするものじゃないぞ」
「……切り所が分からなかったのよ。もしかしたら面白くなるかもと思って」
でも半分読んでお腹一杯だ。
合わないと思った物は無理に読むものじゃない。
ブラッドの書斎に足を踏み入れて、アリスはそこの中央に備え付けられているソファに腰を下ろした。
ソファの隅に位置して体育座りをするアリスに、ブラッドは本を仕舞いながら「それは癖か?」と問いかける。
「……なにが?」
「その座り方だ。君はいつでもどこでも、縮こまるように座る」
「……広くて落ち着かないだけよ」
言いながら、アリスはぎゅっと膝を抱える。
癖――と言われれば癖かもしれない。
この体勢が一番落ち着くというのは確かだ。
「まるで怯えているようだな」
「……貴方に?」
思わず鼻で笑ってしまう。
それくらい、ブラッドの発言はおかしかった。
「私に、というわけではないだろうが……」
「………………」
「逆に聞きたいな。君は何に怯えているんだ?」
「……怯えてるって決めつけないでよ」
そんなんじゃないわ。
数冊の本を手に取ったブラッドがアリスの隣に腰掛ける。
無言で差し出されるそれを受け取りながら、アリスは「貴方は怖いものなんてなさそうよね」と言った。
「怖いもの、か……まぁそうだな」
「自由人だもの」
「強いて言うなら、そう振る舞えなくなることが怖いな」
……あぁ、それは分かるかも知れない。
一瞬だけ考えて、アリスはそう思った。
「それは私にも分かるかもしれない」と正直に言うと、ブラッドは少しだけ目を見開いて、「面白いな」と呟く。
「君は、面白い子だ」
「……普通の殺し屋よ」
今は失態を積み重ねている所。
ひゅっとナイフを振り上げて降ろすも、ブラッドは簡単に腕を掴んでしまう。
「ほらね」と言えば、「この諦めの悪さも面白い」と彼は言った。
「諦めて欲しいの?」
「いいや?粘ってくれるのなら大歓迎だ。すぐに諦められてもつまらない。もっと死にもの狂いになってくれなければ」
「……こんなことして、楽しい?」
「あぁ、楽しいとも」
お嬢さんは特に。
にやりと笑うブラッドの顔を見て、アリスは不快そうに顔を歪めた。
言外に、このゲームに興じさせられたのが自分だけではないと言われている。
今までの人達はどうなったの?とは聞かない。
ブラッドがこうして元気に生きているということは、今までの人達は1ヶ月で殺されてしまったのだろう。
そういうゲーム。そういうルール。
この男を殺すチャンスを貰える代償。
「趣味が悪いのね」と呟けば、「退屈しのぎには丁度良い」と返ってきた。
やはり最低な男だ。分かっていたけど、イカれ帽子屋の名前は伊達じゃない。
「本が趣味だという子は初めてでね。こういった場面で好きな物を共有できるとは思わなかった」
「……別に共有しているつもりはないけど」
「私が集めた本を熱心に読んでくれて、今は私が本を薦めた所だ」
これを共有と言わずに何という?
そう言葉を放ったブラッドに、アリスは(確かに)と手に持った本を見下ろした。
ブラッドの書斎はアリスにとって宝の山だ。
まだ数冊しか読んでいないが好きなジャンルが被らないこともないし、今手渡された本達についても興味深いと思っている。
「君は面白いよ、お嬢さん」
暗殺を生業としている割には、珍しい部類だ。
「どうせ未熟者よ」と言えば、「そういう意味じゃない」とブラッドは否定した。
「教養もあれば素養もある。賢い上に料理も洗濯も掃除もできて、まるで淑女の鏡のようだ」
「……………」
「もちろん、そう言う殺し屋がいないわけじゃない。スパイも兼ねている者はありとあらゆる情報や教養を身につけているし、潜入捜査を行う者にとってそう振る舞えないのは致命的だ」
「……何が言いたいのよ」
「君は違うな?お嬢さん。造り物の匂いがしない=v
この男は――本当に怖い。
内から暴かれていく感覚に、アリスは膝を抱え直して「だから何だっていうの?」と強気に振る舞う。
「教養があって素養があって、家事炊事ができちゃいけないの?」
っていうか、家政婦の真似事をしろって言ったのは貴方じゃない。
ちゃんとできてるんだから、文句を言われる筋合いはないわ。
そりゃあ毒も仕込むし食事中でもナイフは投げるし、ワイシャツに毒針を仕込むことも忘れないが、それも全てゲーム上のルールの範疇。
やはりどこを取っても文句を言われる筋合いはない。
「文句はないさ。興味があるだけだ」
「……………」
「君は一体――どこのお嬢さん≠ネのかな?」
ちらりとブラッドを見れば、彼はにやにやと笑っている。
アリスのことを知っているのか、まだ知らないのか、分からない表情だ。
「好きなだけ調べてみるといいわ」
虚勢を張って、アリスも笑う。
ブラッドは「ほう?」と声を漏らして、アリスの栗色を一筋撫でた。
「どうせ貴方、あと2週間程度の命なんだから」
「………………」
ブラッドは軽く目を見開いて――でもすぐ楽しそうに、今までで一番楽しそうに、声を出して笑った。
「あぁ、君は本当に面白い子だ」
いいぞ?
残り2週間で、是非私を殺して見せてくれ。
ゲームはまだ終わっていない。