「先生の事、ずっと好きでした」

夕日の差し込む校舎。
人気の無い廊下では外から聞こえてくる運動部の声がうるさいほどだというのに、その声は嫌というほど自分の耳にはっきり響き渡った。

「先生の事が、好きです」

繰り返される文言。
夕日のせいか、俯き加減の女生徒の頬は朱く染まっており、栗色の髪が太陽に反射してきらきらと眩しい。
思わず溜息の漏れそうな――美しい光景だった。
愛を伝える少女も、愛を受けている男性も。
その光景は純粋で、純潔で、純情で、純良で、純然としている。

「卒業したら私と―――「すまないが、」――」

女生徒の声を遮るように、その男性教員は微笑んだ。
その次に放たれる言葉は誰でも分かる。
女生徒は一瞬びくりと肩を竦めて、泣きそうな顔をした。

「君のことは、可愛い生徒だと思っている」
「………っ」
「私にとって、君は生徒だ」

だから付き合えない。

聡明な女生徒は、胸の付近で両手をぎゅっと握り合わせて「そうですよね――」と微かに笑う。
その表情は痛いほど健気で、見ている此方が泣きたくなるような顔だった。

「ごめんなさい」と一言告げて、走り去っていった女生徒の後ろ姿は潔い。
今この瞬間破れた恋は、彼女にとって甘酸っぱい恋の思い出の一つとして心に残るだろうか。
トラウマになどならなければいいと思う。
もう二度と恋なんてしないと、そんな卑屈な子にならないで欲しいと思う。

こんな―――廊下の片隅で、一つの恋の終わりを覗き見ていた私のようにならないで、と――アリスは目の前の階段を駆け下りた。









3月某日。卒業式。
桜が咲き誇るには早すぎて、かといって芽を出し始めるには遅すぎる。
卒業証書の入った筒はただの荷物で、普段よりも倍重い鞄を振り回しながらアリスはぐるぐると校舎を回っていた。

卒業したら進学する子、社会に出る子、それは様々で、でも今のご時世やはり進学する学生の方が多い。
アリスも例に漏れずその一人。春からは花の大学生だ。
幼い頃から施設暮らしのアリスに家族はいない。
施設に身を置いて貰えるのも18歳までで、これからは一人で暮らしていかなくてはならないのだ。

奨学金で学費を払って、生活費はアルバイトをして……きっと高校生活よりも慌ただしい日々を送ることになるだろう。
だが学びたいものがあって、欲しい資格があって、アリスはそのために進学する。
そう決めたのはアリスなのだから、それを嘆くことも途中で投げ出すことも許されない。

ぽーんと筒を投げ捨てれば、空中で蓋が開いて分裂する。
中から飛び出た卒業証書がひらひらと舞い、ぱさりと地面に落ちた先で土まみれになっていた。

卒業。
そう、アリスは卒業した。
早く早くと思い描いていた未来。
早く大人になりたくて、早く施設を飛び出して、早く働いて早く自立したかった。
そして今日、アリスはようやくスタート地点に立つ。

たった一人で立っているそこは、期待よりも不安の方が多い。
本当に大丈夫だろうか?
ううん、やらなきゃいけないのよ。
ぎゅっと胸元を押さえて、アリスは深呼吸をし真っ青な空を見上げる。

高校生活でやり残した事など――きっとない。


『先生の事、ずっと好きでした』

「――――――」


ふと昨日の光景を思い出して――アリスは空を見上げたまま目を細める。
美しい光景だった。
夕日の朱が眩しくて、きらきらと輝いていて、恋に破れたにも関わらず綺麗に微笑んでいた女生徒は純粋だった。

アリスは恋というものをしたことがない。
生活するのに精一杯だったアリスに、そんなものをする余裕はなかった。
施設にも学校にも男の子はいるがそういう対象として見たことはなく、有り難いことに好意を持ってくれた男子はいたけれど、興味がなくて全てお断りしてしまった。

だがそれを――別段アリスは後悔したことがない。




「……君が、物をこんな風に扱うなど珍しいな」
「……そういう気分だったのよ」

ふいに話しかけられて、アリスは空から声のした方向へと視線を移した。
土に塗れた卒業証書を拾い上げたのはアリスの担任で、ばさばさと乱暴に土を払いながら筒の中へと仕舞う。

「最後まで優等生だった君が、そういう気分だった……ね」

悩みがあるなら聞いてやるぞ?
私は今日まで君の担任だ。

にやりと笑う黒髪に、アリスははっと鼻で笑いながら「結構です」と言い放った。

「やれやれ、強情な子だ。もっと素直になったらどうだ?」
「他の先生方の前では素直な良い子≠ナ通ってますのでご心配なく」
「君が素直な良い子≠ゥ…それはそれで気色悪―「何かおっしゃいました先生?」―いやいや、確かに君は素直な良い子、模範的な優等生だよ。答辞の挨拶も、中々良かった」

筒の蓋を振りかぶっているアリスに、彼女の担任は「落ち着け」と手振りで合図する。
振りかぶっていた手を不満気に降ろした彼女から、蓋を受け取った担任は「乱暴なお嬢さん」だと苦笑しながらそれをはめ直した。

「……私が冷たいのは先生にだけです」
「あまり嬉しくない特別扱いだな」
「いつもだるそうにしていて、尊敬できる所なんか一つもありませんから」

アリスがそう言うと、担任は「だるいからな」と何でもないことのようにそう言葉を放つ。

数学教師の癖に趣味が読書で、大体いつも図書室に引きこもりっぱなし。
司書の先生より学校の蔵書に詳しくて、最終的に管理と整理まで一任されていたというのだから驚きだ。
蔵書のジャンルが若干偏っているのはこの男のせいか、と――アリスが気付いたのは2年生の終わり頃。

「君が卒業するのは寂しいな。読書仲間がいなくなる」
「お一人で自由にどうぞ」

大げさに溜息をつく教師に向かって、アリスは顔を歪めながら吐き捨てる。


3年間図書委員だった。
本が好きだったアリスは迷うことなくそれに立候補して、その希望が簡単に通ったのは最初だけ。
2年からは倍率の高い戦争だった。
図書室にいる引きこもりは他の女生徒からは格好良い先生という認識らしく、彼目当てに図書委員に立候補する者が多かったからである。
それでも自分が3年間漏れることなく図書委員を務めていられたのは、実はこの男が裏から糸を引いていたということをアリスは知っている。
そのせいでいらぬやっかみを受けたこともあるが、やられたらやり返せ精神のアリスにそんなものが通用するわけもなく、実際真面目に本が好きで委員会に入っていたのはアリスだけだったので、彼女がいないと仕事が回らないと理由からそれもすぐに沈静化した。
だがその分アリスの仕事量は普通の委員に比べて膨大で(何せアリス以外の人間が使い物にならない)結局嫌々ながらもこの男に近づき過ぎる羽目になってしまった。


「あぁでも、私の後任なんかは結構本読みますよ?」
「……彼女か。まぁ確かに読書量は多いが、ジャンルが偏っているな」

君のように、ジャンル関係なくオールマイティに本を読む女性は珍しい。
私も君も本の趣味に多少の偏りがあるとは言え、何でも読むという子は珍しいんだよ。

こつんと卒業証書の入った筒で頭を叩かれて、アリスは「痛いです」と教師を睨み付ける。
本当はこれっぽっちも痛くなどなかったけど、この男には嫌味を言わなきゃやっていられないのだ。


「それより、いいんですか?大人気のブラッド=デュプレ先生がこんな所にいて」
「あぁ、逃げてきたからな」
「……最後なんだから相手してあげたらいいじゃないですか」
「最後だから、だよ。君との最後を惜しんでいる」
「―――――――」


人が溢れている校門があるであろう方向を見ながらそう言ったアリスに、ブラッドは平然とそう言った。
一瞬息を呑み――だがそれに気付かれないようアリスは「そーですか」と冷たく言葉を放つ。


「……こんな可愛げのない生徒に、よく構いますね」
「うん?君は可愛いぞ?」
「……良い眼科教えましょうか?それとも頭を診てもらいます?」
「よくもまぁそんな罵詈雑言が次々と思いつく……」
「先生が馬鹿なこと言うからですよ」

ほら、早く向こうへ戻って下さい。
先生と話したい人絶対一杯いますから。


ひょいっとブラッドの背中に回って、アリスはその広い背中をぐいぐいと門の方へ押す。

「君は私と話したくないのか?」と言う言葉に、アリスは「今まで散々話したじゃないですか」と背中を押す手を強めた。

そう。散々話した。
話さなくてもいいことまで散々。
静かな図書室で本に囲まれながら、毎回出される紅茶はいつも美味しくて、アリスはついつい長居してしまう。
紅茶が美味しすぎるのが悪いのだ。
別にブラッドと話すのが楽しかったからじゃない。
ブラッドと過ごす空間が、居心地良かったからじゃない。
本以外の事も散々話したのだ。
身の上、日常、食の好み、休日の過ごし方、勉強で分からないこと、好きなこと、嫌いなこと。

嫌というほど話した。
飽きなかったのが不思議なくらい。
毎日毎日顔を突き合わせて、同じ場所で同じ時間に、紅茶を飲みながら話をした。読書をした。

だから、だからもう――――



「惜しんでは――くれないのか?」



惜しむ必要なんて――ないじゃないか。
アリスは無言でブラッドの背中を押しながら頬を緩める。
3年間独占した。
この男に一番気に入られている自覚があって、この男を一番理解している自信があった。
アリスの3年間の思い出は、全部が全部この男だから。

だがそれは――酷く口惜しいことであるということも、アリスは分かっている。




「――告白したい子がいるかもしれないじゃないですか」


ぽろっと漏れた言葉を、アリスは自分自身いまいち理解していない。
「は?」と間抜けた声を出したブラッドに、アリスは苦笑しながら「先生モテるんですから」と言う。


「昨日、告白されてたじゃないですか」

『先生の事、ずっと好きでした』


栗色のショートカットが可愛らしい子。
あまり見たこと無かったから、多分別のクラス。


「今日で最後なんですから、きっと先生に一言言いたい子、一杯います」

『先生の事が、好きです』


毎年――見てきた。

アリスは本当にブラッドと一緒にいることが多かったから、それでいて用事も多かったから、そういう場面に鉢合わせることが多かった。

校舎裏で、人気の無い教室で、図書室で。
よくもまぁそんなにモテるものだと……アリスは鉢合わせる度に「またか」と呆れたものだった。
この時期は特に多い。
しかも卒業式の日なんて……定番中の定番じゃないか。
だってもう、こっちは生徒じゃないのだから。
先生の生徒じゃない。
今日というこの日から、先生と生徒じゃなくて男と女。
障害なんて何もない。ここで勇気を出せる女性を、アリスは純粋に応援している。

「だから、戻った方がいいと思います」
「……………」

とんっと最後に背中を一押しして、アリスはブラッドの服から手を離した。
ちらりと顔だけをこちらに向けたブラッドに、アリスは笑って片手を振る。
そんな彼女の姿を見て、ブラッドは溜息を吐きながら「そうか」と呟いた。

「君がそこまで言うのなら、戻ることにしよう」

ポケットに手を突っ込んで、アリスに笑う男の姿は格好良い。
いっそ憎たらしいほどスーツが似合っていて、何でも無いことなのにアリスは泣きそうになった。

「それじゃあ、お嬢さん」

楽しかった。
本当は楽しかった。
ブラッドと過ごした時間は楽しくて、このまま続いて欲しいと思っていた。

「お元気で」

そう言って背を向けたブラッドに、アリスは「そちらもお元気で」と返す。









遠ざかっていくブラッドの背中を見送りながら、アリスはふっと手元に視線を落とした。
いつもより倍重い鞄。はっきり言って邪魔なだけの卒業証書。
(汚れちゃったわよね)と筒の蓋を開ければ、ひらりと中から何かが滑り落ちた。

「?」

ころんと地面転がったそれは、二つに折りたたまれた小さな紙切れ。
何だろうと思ってそれを開くと、そこに書かれていたのは――



「―――――――――」


卒業おめでとう



たったそれだけの――一言。
だがその端整な字には見覚えがあって、これを彼が書いたのかと思うと何故か涙が零れた。

もう会えないのだ。
毎日、毎日、今までみたいには絶対会えない。
あの紅茶を飲むことも、本を薦め合うことも、感想を言い合うことも、

もう絶対にできない。

今日でアリスは、ブラッドの生徒じゃなくなったから。
今日でブラッドは、アリスの先生じゃなくなったから。

教師と生徒の枠組みがなくなった途端、二人はこれほどまでに呆気なく他人になった。

それが口惜しくて、悲しくて、寂しくて――アリスの目から涙が零れる。
アリスの心にばかりブラッドが残って、ブラッドの中にアリスは決して残らない。
それは悔しいことだった。
それと同時に、ブラッドに告白していた女子を初めて羨ましく思った。

あんな風に恋が破られようともブラッドの中に何かを残そうとしていた女の子達は懸命で、3年間近くにいた優越感に浸っていたアリスなどより、よほどブラッドを想っている。
アリスはいつも自分のことばかり。
ブラッドが気に入って可愛がってくれるから、それに甘えて何もしなかった自分は愚かだ。
そして今この瞬間泣いている自分が一番浅ましい。

(馬鹿じゃないの――)

そう、アリスは馬鹿だ。
馬鹿も馬鹿。大馬鹿者。




もう見えなくなったブラッドの背中を追いかけるように、アリスはその場から走り出した。
言わずにいられなくて――例え返ってくる返事が分かっていても、アリスは自分の気持ちを伝えずにはいられなかった。
恋をしたことがない?
あぁそうだとも。
勉強に生活に一生懸命で、初めてまともに接した異性はブラッドだけ。
気付かなければ恋じゃないし、追い縋らなければ愛じゃない。
何で今日この日に気付いてしまったのか、アリスは自分を呪いたくて仕方が無かった。


『君のことは、可愛い生徒だと思っている』


きっとブラッドはそう言うだろう。
分かっている。
分かっていても言わずにはいられないのだから、なるほど恋は人を馬鹿にするらしい。








「先生!!!」


ようやく追いついた先で、アリスはブラッドの背中にそう叫ぶ。
校門までもう少し。
まだ人気の無いこの場所は、きっと告白するのは適した場所だ。


「アリス?」


訝しげな顔をするブラッドに近よりながら、アリスは胸元を押さえて大きく息を吐いた。
どくどくと鳴る心臓がうるさくて、アリスは思うように呼吸ができない。


「私――」


見上げるブラッドの顔は、普段とあまり変わりない。
いつもと違う格好をしていても、いつも通り気だるげだから、そんな姿にアリスは思わず安堵する。


「卒業、したから―――」
「…………」
「私もう、生徒じゃないし……」


教師と生徒じゃない。
男と女、ただの他人。
これから築きたい関係は、アリスの中では明確だ。



「先生の事が、好きです」



アリスの声が、ブラッドの耳に届く。



「先生の事、多分ずっと好きでした」



多分。多分だ。
だって気付いたのが今だから、大目に見て欲しいとアリスは思う。
俯くことなく、アリスは真っ直ぐブラッドの目を見てそう告白した。
頬を染めて俯き加減に、なんて――そんな可愛らしいことはできない。
照れるより先に、後悔しないことの方が勝っていた。
後悔したくないが故の、覚悟の玉砕。

なるほど、潔い――と、ブラッドは笑う。



「君のことは、可愛い生徒だと思っている」



いつも言っていた言葉だ。
ブラッドがいつも、他の女の子達に言っていた言葉。
それをまさか自分が聞くことにはならなかったな、と……アリスはどこか冷静な頭で思う。


「私にとって、君は生徒だ」


知っている。
知っていた。


「だが、君は今日から私の生徒ではない」

ん?


続いた言葉に、アリスは「あれ?」と言葉を漏らす。
「だから付き合えない――」という言葉を受け止めるつもりだったのに、彼から出てきた言葉はそうじゃない。


「今日から君は、私にとって可愛い生徒ではなく可愛いお嬢さんになるわけだ」
「……は?」
「そしてゆくゆくは――私の可愛い奥さんに、」
「ちょっと待って!!?」

口元に手を当ててうんうんと一人納得しているブラッドに、アリスは想定外の悲鳴を上げる。

奥さんって何!!!?!?
おかしい!何かおかしいから!!!!


「わ、わた……フられ、」
「今の会話のどこに、振られたなどという認識が生まれるのか是非聞きたいものだ」
「!!!!」


唖然とブラッドを見上げるアリスに、告白されたらしい当の本人は穏やかに笑う。


「卒業おめでとう、アリス」
「え、あっ、ありが、とう?ございます……」


思考が追い付いていないアリスの言葉はめちゃくちゃだ。
今ある現実が受け入れられないのか、目を白黒させている彼女に先程の気迫はない。

愛の告白にしては中々色気のない……心持ちと気構えが男らしい告白だったが、それはそれで面白かったのでいいだろう。
ブラッドはぽんぽんとアリスの頭を撫でて、「めでたいな」と呟いた。



「3年我慢した甲斐があったよ」



君から告白してもらえるとは思わなかった。



そう言ってにやりと笑うブラッドを見つめて、アリスはようやくその頬をばっと染めた。



「嘘でしょう!!?!?!?!!!!?」

















「ねぇ」
「ん?」
「貴方、私の事好きだったの?」
「今更だな。好きでもない女を、3年間密室に引き連れて構い倒すと思うか?」
「仕事でしょう!!?図書委員の仕事!!!」
「そんなのはただの口実だ。あれくらい、私一人でどうとでもなる」
「!!?」


「――だ、大体!それなら、私が告白しなかったらどうするつもりだったのよ!」
「一人暮らしを始める君の元へ押しかけるつもりだった。手籠めにしてしまえばこちらのものだと……」
「はぁ!?」
「あぁそうだ。大学へは私の家から通いなさい。遠いというのなら引っ越してやる」
「!!!??!!?」
「アルバイトなどさせないぞ?君は、勉学以外の時間を私に使うべきだ」
「!!?!?!??!!?」
「3年も我慢してやったんだ。これからじっくり、埋め合わせをしてもらわなければ―――」
「それ私のせいじゃないでしょう!!!?!?」

楽しそうに今後を語るブラッドに引き摺られて行く先は、確実にアリスの家の方角ではなかった。



死に損ないのクラシック・ローズ

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

一度はやってみたい教師×生徒。。

2015.10.26