泣いている女、というものがブラッドは大嫌いだ。
まず醜い。そして鬱陶しい。
その顔面を蹴り飛ばしてやりたいと思うほどには、嫌いだ。
だがそうは言っていられない場面も存在する。
主に自分のパトロン関係。
何かに傷つき泣いている女を慰めるのも自分の仕事で、打算に塗れながらもその涙を拭う。
女を慰めるのは得意だ。
引き寄せ、抱き締め、優しく口付けをしてやれば大抵はそういう空気になるし、ブラッドという男が優しく声をかけてやるだけでも、女は頬を染め笑みを零す。
あぁこうして思い出してみると、女も大概大した理由でもないことで泣いているのだ。
本気で泣いているわけじゃない。
本気で何かに悲観し、絶望しているわけじゃない。
きっと女達が本気で泣いている時は、ブラッドが簡単にそれらを切り捨てたときだ。
醜く顔面を歪めて泣いている。
でもそんなものを慰めてやる義理もないので、ブラッドは鬱陶しいと切り捨てるのだ。

と――ここまで女の涙を嫌うブラッドだが、アリスが泣き始めた時、彼が抱いたのは戸惑いと焦りだった。

姉の死を後悔し、懺悔するその姿は少しだけ己と被って見え、大人な彼女がこれほど感情を露わにするのは珍しかったように思う。

『ごめんなさい。今日は姉さんの命日なの』

家を出てからもう何年も墓参りに行っていないという彼女の目元は朱かった。
恥ずかしいわ、と言うアリスに、ブラッドは「気にするな」と言った。
人間誰しも弱くなる瞬間というものは存在する。
もちろん自分にも、そんな瞬間が無いとは言わない。
だがアリスの行動一つ一つで己の心が左右されるように、アリスの中で自分もそうで在れば良いと――ブラッドは不器用ながらも、人間らしくアリスを慰めた。

アリスはその後黙々と仕事をした。
またどこかで泣き出すのではないかと内心冷や冷やしながら付き合っていたブラッドだったが、それは杞憂に終わり思ったよりも早く仕事が片付いたのは一時間ほど前。
ホテルに戻り、夕食はもういいと風呂へ入ってしまったアリスを見届けて、ブラッドはルームサービスを頼んで腹を満たす。
飼い主の面倒を見るのも中々疲れるものだと思いながら、それでも不愉快な気分ではないことに、ブラッドはふっと口元を緩める。


「お待たせ、ブラッド。お風呂空いたわよ」
「あぁ、早かったな」
「えぇ……何だか長い間入ってたら眠っちゃいそうで――――ってまたワイン頼んでる!昨日あれほど駄目って――!!!」

しまった、という顔をしたブラッドに、アリスは「もう!」とそのグラスを奪い取った。
が、すぐに考え込むような顔になって、そろっとそれを元の位置に戻す。

「……でもまぁ、今日はいいわ」

手伝って貰ったし、色々迷惑もかけたからね。

そう呟き、ドライヤーを手に取り髪を乾かし始めたアリスの背中を見て、ブラッドは「ふむ」と戻されたワインを口に含んだ。
「今日だけよ?」と再三言う彼女の言葉を聞き流しながら、ブラッドは思案する。

アリスは――ブラッドにとっての家主であり、飼い主。
出て行けと言われたら、ブラッドは出て行くだろうか?
答えはきっと否だ。何が何でも居座ってやろうと思う。
そしてアリスがブラッドを追い出そうとする時は、一体どんな時だろう。
ブラッドはアリスに対してかなりの迷惑をかけているはずだ。
金銭的にも、労力的にも、精神的にも。
だがそれでもアリスはブラッドを追い出さない。
ちゃんとブラッドの世話をして、良い関係を築こうと思案してくれていることは分かっている。
ブラッドも、物珍しくて面白い彼女のことは気に入っているし、できることならこのままの関係を築いていきたい。
だから彼女の嫌がることはしないし、多少強引に我が儘を通すことがあっても、無理強いは絶対にしない。

このままの関係。
このままの――関係。

お互いの過去も知らない。
血の繋がりなどない赤の他人。
同居人と言うには希薄で、家族と言うのもどこかおかしい。

ブラッドは思い当たる。
もしブラッドがアリスに追い出されるという事態になる時は、きっとアリスに男ができた時だ。

ずん、と……ブラッドの胸の内にどす黒い感情が浮き上がる。
アリスは自分のモノだと、どこかで思っている自分がいた。
出て行くつもりなど毛頭無いと思っている時点で、気に入っている以上に独占欲という感情を抱いていた自分にブラッドはようやく思い当たる。

ふらりと――ブラッドは浴室へ向かいながら、その扉を閉める。
今は存在しない、これから存在するかも分からないアリスの男に対して負の感情を抱き、鏡を見つめながら思案する。

―――いっそモノにするか。

誰かに奪われるくらいならそれがいい。
恋だの愛だの薄ら寒い感情は微塵もないが、この独占欲を満たすためにはそれが一番良いような気がした。










そんな危ない思考回路に陥っているブラッドがいる一方で、アリスの心はどんよりと薄暗かった。
ブラッドに晒した醜態が、今更ながらにアリスの精神を直撃し、正直吐きそうなレベルまで来ている。

公園の生き生きとした空気に当てられてしまったのだ。
姉の命日とは言えあそこまで泣いて感情を吐露してしまうなど、普段のアリスからは考えられないほどの醜態。
しかもそんなアリスを慰めたのは5つも年下の学生だ。
アリスが犬だと豪語する、そんな男に。

(ドン引きよね……)

この年でシスターコンプレックスを拗らせているなど、恥ずかしいことこの上ない。
ドライヤーを机に置いて、アリスはふらりと立ち上がりベッドの上へと倒れ込んだ。

恥ずかしい。
恥ずかしい。
恥ずかしい。

この上なく恥ずかしい。
年甲斐もなく大泣きしてしまったし、あの面倒くさがりのブラッドに気を遣われたという事実も恥ずかしい。
アリスは顔面を覆ってベッドの上を転げ回る。

それと同時に、どこかで安堵している自分もいた。
姉の命日。
毎年何かしら心を病んで一日を終えるのに、今日という日はどこか違う。
そしてどこが違うかなんて明白で、やっぱりあの犬のおかげなのだろうとアリスは溜息を吐いた。

アリスはブラッドを気に入っている。
出張に連れてきてもいいと思うほどには気に入っている。
もちろん心配で目が離せないというのも事実だが、気に入っていることを自覚できないほど愚かでもなかった。

拾って早半年か。
ブラッドは既にアリスの日常に組み混まれ、何をするにもまず二人分で計算してしまうほど。
そして自分の内情を、感情的になったとはいえ吐露できるほどには心を開いている。

それが良いことか、悪いことなのかアリスには分からない。
面倒事の匂いが若干漂っているが、まぁそれはいいだろう。
面倒など、拾った時点で抱えていることには変わりない。




暫くベッドに転がっていて、うつらうつらと瞼が下がり始めた頃――がちゃりと浴室が開く音がして、アリスはごろりと寝返りを打った。

「髪……ちゃんと乾かさなきゃ駄目よ」
「……眠そうだな」

えぇ、眠いの。

瞼を閉じながら、アリスは言う。
お腹も空いてないし、歯も磨いた。
もうこれ以上起きている理由がないと、アリスは布団に潜り込む。

「まだ寝るなよ?」
「……ブラッド、早く」

ブオオオっとドライヤーの鳴る音がする。
室内は薄暗くて、アリスの意識はすぐにでも飛んでしまいそうだ。




「アリス」

もぞりと、布団の中で何かが蠢く音がする。
うっすらと瞼を開くも、辺りが暗すぎて何も見えない。

(電気、消したのね)

近くにブラッドがいる気配がする。
ぐいっと腰を引き寄せられて、アリスは(やっぱりね)と顔を綻ばせた。

「アリス」

眠ったのか?

耳元で、ブラッドの声が聞こえる。
前から抱きかかえられるのは初めてだと思いながら、アリスは「起きてるわよ」とその肩を叩く。

「アリス、聞きたいことがあるんだが」
「ん?」

なに?どうしたの?

首筋に埋められる顔。
ブラッドの髪から漂うシャンプーの香りに目を細めながら、アリスは無意識にその頭を撫でた。

「聞きたいことと言うか頼み……お願いだな」
「……何なのよ」

ぐりぐりと額を押しつけられてくすぐったい。
ふわりと一つ欠伸をすると、ブラッドは急にアリスから身を離し、その身体をぐっとベッドへと押しつけた。

「―――ブラッド?」

目は開いているが、前は全く見えない。
ただ分かるのは、両手を彼に押さえつけられていて、上に彼が乗っているというその事実だけ。
まるで押し倒されているようなそれに、アリスは「え?」と声を漏らした。



「抱いてもいいか?」



言われた言葉の意味が分からなくて、アリスはブラッドの顔があるであろう部分をじっと見つめる。
だんだんと目が慣れてきたのか、彼の顔がようやく見えてきた辺りでアリスはようやく「は?」と口を開いた。


「抱いてもいいか、と聞いている」


健全な男子学生と一つ屋根の下。
自分もよく半年手を出さずに過ごしたと思うが、今日はおあつらえ向きにホテルに泊まっていてしかもベッドは一つしかない。

「据え膳食わねば――というやつだと思わないか?」
「思わないわよ!!!!???!?」

いきなり何を言い出すんんだこいつは!!
アリスは心の中で絶叫しながら、「離しなさいよ!」と身を捩る。
だがブラッドの身体はびくともせず、足を蹴り上げようかと思ったがそれも難なく阻止された。

「変なことしたら追い出すって言ったでしょう!?」
「健全な行為だろう。年頃の男女が一つ屋根の下――」
「私は未婚よ!!おまけに恋人もいないわ!!!!!」

いるのは――何故か今日この日に限って盛っている犬だけだ。

「それで何の問題がある?欲求を解消し合うだけだ」
「解消したいのはあんただけでしょう!!」
「まぁ、折角なら君にも気持ち良くなって欲しいとは思っているが」
「思わなくていい!!」
「何だ痛いのが好きなのか?それならそれで――」
「違うわよこの馬鹿犬!!!!!」

余所の迷惑も考えず、アリスは深夜に大声を張り上げながら暴れ出す。
だがブラッドは涼しい顔でアリスを見下ろしており、その口元には笑みさえ浮かんでいた。

「性欲は三大欲求の一つだぞ?それを手頃に解消できるのならそれに越したことはない」
「絶対追い出――」
「追い出せるものなら追い出してみろ。その度に足腰立たなくしてやる」
「!!!!!」

涙目で睨み付けてくるアリスに、ブラッドはにやりと笑ってその首筋に吸い付いた。
びくりと身体を震わせたアリスに一層笑みを深めながら、その首筋を徐々に徐々に下へと下ろす。

「ちょ、やだ!ブラッド!!」

アリスがじたばたと両手両足を動かそうとするも、動く気配は微塵もない。
肩紐の結び目をブラッドが口で咥える様子が見えて、アリスは「駄目だってば!」と拒絶の意を表す。
だがそんな叫び虚しく、しゅるりと音を立ててほどかれたそれに、アリスの身体が冷気へと触れた。

(や、だ――――)

途端に、アリスの顔から血の気が引く。
これからされることへの恐怖もそうだが、今までブラッドと培ってきた信頼関係が根こそぎ覆されるような感覚がして、アリスの背筋がすうっと凍る。
これではまるで犯されるようではないか。
突然性犯罪に巻き込まれた気分になって、アリスの呼吸がふいに止まる。

(そんなの、嫌だ――)

目にじわりと涙が浮かんで、アリスは嫌々と首を振った。
だがブラッドは止まらないし、無言で色々な場所を暴かれていく感覚は、アリスにとって恐怖でしかない。

「ぶらっ、」

ど―――

怖い。
やめて。
そんなことしないで。

色んな感情がごちゃまぜになって、遂にアリスの目から涙がこぼれ落ちる。
誰にも触れたことのない胸の膨らみを鷲掴みにされて、アリスはあまりの恐怖と、今それをしているのがブラッドというよく分からない現状に、全身の力が抜け落ちるのを自覚した。

これが全く知らない男にレイプされているという状況だったら、アリスは抵抗を諦めたりしなかっただろう。
もしくは自分で舌を噛むということさえやってのけるだろうし、今のこの場で身体の力が抜けるなどという事態になることはまずあり得ない。
ではどうして、今この瞬間アリスの身体が脱力したのか。
それは多分――相手がブラッドだったからだと思う。

ブラッドならいい、とかそういう乙女染みた話じゃない。
結局このとき、アリスは昼間の件を引きずっていたのだ。

ブラッドに慰められる前の――全てを投げ出してしまいたいという気持ち。
幼い頃に母を亡くし、些細な喧嘩から姉を殺した自分。
生きている父とは何年も会話をしたことがなく、妹とは犬猿状態で孤独に陥った自分。

可哀相な私

可哀相。
可哀相。
可哀相。

可哀相だなんて思われたくないのに、確かに境遇としては可哀相かもしれないが、自分自身はそれくらいのこと≠ニ割り切りたいのに。
だが根が暗いアリスにはそんなことできなくて、結局いつまでたっても可哀相な自分≠ノ酔いしれている。

アリスは罰を待っているのだ。

傷つけて、傷つけて、傷つけて。
どこまで自分は可哀相≠ノなったら、許してもらえるのだろう。
アリスには分からない。
だが自ら傷を負いたがるアリスは、ほぼ無意識にブラッドを利用することに決めた。



途端に身体の力が抜けたアリスを、ブラッドは訝しげに感じながら拘束の手を緩めた。
ブラッドが両手を離しても、アリスは抵抗する気配を見せず為すがままの状態になっている。
どうした、と思ってブラッドがアリスの濡れた頬に手を添えた瞬間――

「――――っ」

ぎっと睨み付けられ即座に飛んできた頭突きを、ブラッドは間一髪背中を仰け反って回避した。


「何してくれてんのよこの馬鹿!!!!」
「っ――元気そうで、何よりだ」
「死ね!!!!!!!」

右ストレートさえ飛んできそうな勢いに、ブラッドは慌てて再度アリスの両手を押さえつける。
ぼろぼろと涙を零しながら此方を見上げてくるアリスに、ブラッドは「そんなに嫌か」と呟いた。

「いいわけないでしょ!!?」

この強姦魔!!!!!

罵られる言葉には凄まじい棘がある。
思わずうっと怯みかけたが、ここで止めるわけにはいかないとブラッドは力を込めた。


「やめないぞ?」


同意がなくとも犯す。
暴れようが何しようが犯す。
舌を噛むまで嫌がられるのは傷つくが、その場合は口に何か押し込んででも犯す。


「絶対にやめない。私は、やりたいことをやりたいようにやる」


だが今後の円滑な同居生活のために、同意してくれると嬉しい。


「今この時点で円滑なんてほど遠いわよ!」と吠えるアリスに、ブラッドは「いいだろう別に」と呆れたような溜息を吐いた。





「処女じゃあるまいし」





途端に広がる―――沈黙。
てっきりまた何か罵倒が飛んでくるものだと思っていたブラッドだったが、まるで自分の声が反響するかのように静まり返った空間に、ん?と首を傾げてアリスを見下ろす。

アリスは――口を噤んだまま首と視線を横へと逸らしており、その瞳には焦りの色が見えた。
沈黙が広がること約10秒。
「まさか――」と口を開いたブラッドに、びくりとアリスの身体が震える。


「処女、なのか?」
「……………」


沈黙は肯定の証。
あまりの衝撃にブラッドの思考はフリーズし、この年で処女とか――まるで天然記念物でも見たような気分だとアリスをまじまじ凝視する。

ブラッドの不躾な視線と広がる沈黙に耐えきれなかったのか、アリスは真っ赤な顔で「悪かったわね!」と途端に声を張り上げた。

「えぇえぇ、どうせ未経験よ!!何よ!!だからって何も悪くないでしょう!!!??!?」
「……まぁ、別に悪くはないが――」

一体どんな青春自体時代を送ってきたんだ?

そう言うブラッドに、アリスは「あんたが爛れすぎなのよ…!」ともっともな事を叫ぶ。


「まさかこの年まで恋人ができなかったとかそういう……」
「あんた、昼間の私の話聞いてなかったの?付き合ってた人はいたけどすぐ別れたの!!」
「あぁ姉に盗られた男か。それ以降には?できなかったのか?」

何年も前の話だろう?
その後、男の一人や二人できてもおかしくはないと思うが。

ブラッドがそう言うと、アリスはぐっと押し黙り、拗ねたようにふいっと顔を背ける。

「…………」

しばらく黙っていたアリスだったが、ぼそりと一言「トラウマになったのよ」と呟いた。

「また好きな人ができても、その人も姉さんが好きになっちゃったらどうしようと思って……」
「……………」
「だから、学校を卒業したら家を出ようと思ってたの。自分に自信が持てないから、まずは自立した女性になって、恋愛とかはその後でもいいかなって」

でも―――


「でも、私が家を出る前に、姉さんは死んでしまったわ」


そしたらもう、他人を見てる暇なんてなかった。
宣言通り家は出たけど、仕事ばかりして、時間が早く過ぎればいいと思って。
そしたら―――この様だ。

黙り込んでしまったアリスを見下ろして、ブラッドは「ふむ」と彼女の両手を離す。
途端に身体を解放されたアリスだったが、動く気にもなれずそのままの状態で溜息を吐く。
が――息をつけたのもその一瞬だけで、またぐっとのし掛かってきた重みにアリスはぎょっと目を見開いた。


「ちょ―――」


鼻が付きそうなほどの眼前に、ブラッドの顔。
両手を押さえつけられてはないが、ブラッドの両肘が顔の両側に押しつけられており、どちらにせよ身動きが取れない。

「ブ、ブラ――」
「キスは?」
「…………は?」
「キスをしたことは?」

暗闇でも分かるほどの翡翠の瞳。
その綺麗な目にじっと見つめられて、アリスは戸惑いながらも「キスくらいは――」と答える。

「触れるくらいの……可愛らしいものだけど」

アリスの言葉に、ブラッドは「そうか」と呟く。
それと同時に「馬鹿な男だ」と囁かれて、アリスは思わず「え?」と聞き直した。
だがブラッドはそれに答えず、片手でアリスの頬を撫で、ふっと――――それこそ触れたか触れないか程度のキスをする。

「!!?」

一瞬何をされたか分からなかったアリスだったが、唇同士が触れ合ったという認識に目を瞬く。
「ちょ――」っと、と抗議の声を上げようとした瞬間、唇を唇で押さえつけられてアリスはぐっと息を飲み込んだ。

頭を抱えられ、何とか押し返そうとブラッドの両肩を押すもびくともしない。
押しつけられた唇があまりに熱くて目を白黒させていたアリスだったが、ブラッドの舌が自分の唇を舐める感覚に、ぞわりと背筋が凍り付く。

「口を開け」
「む――――」

り―――――

言う前に、ブラッドの舌が口内へと入ってくる。
初めての感覚にアリスは足をばたつかせたが、彼の足でしっかりと押さえつけられ抵抗らしい抵抗にならない。
舌で舌を絡め取られて、その息苦しさから思わず吐息が漏れる。
生暖かい感覚。
目の前がくらくらし始めた辺りでようやく唇を離され、その頃には両肩で息をしなければならないほど、アリスの身体は疲弊していた。


「力を抜け」

痛いことはしない。

それ以前に本当にする気なのか!と声を張り上げたかったが、キスだけで翻弄されたアリスにその気力は無い。
可哀相な自分を作り上げるために自分を傷つけるのがブラッドなら、それでもいいかもしれないと――もう半ばどうにでもなれと思っていたアリスは荒い呼吸を繰り返しながら目を閉じた。


首筋を舐められる感覚にぞくぞくする。
胸を揉まれる感触だとか、突起を摘ままれた時に身体が跳ね上がるとか。
じわりと身体の中心から湧き出る密が気持ち悪くて足を閉じるも、無理矢理押し開かれて舐められる。
ずぷりと指を入れられる感覚は苦しくて、自分でも触ったことの無い場所を、ブラッドに触られていると思うと恥ずかしくて堪らなかった。

初めては痛い、という話をよく聞く。

ここで問題なのは、この初めてを経験したにも関わらず全く痛くなかったということで……
ただひたすらに息苦しくて、全ての感覚が初めてで、もうなんかよく分からなかったから、アリスはこの時のことをほとんど覚えていない。

「ぶらっ、ど」

くるし……っ

口元に手を当てて、ぐっと歯を食いしばる。
息が上手くできなくて、漫画やアニメで見るような嬌声なんて出やしない。
息を吸って、吐くのに精一杯の中、ブラッドがナカで何かを吐き出すような感覚に、アリスはぷっつりとその意識を飛ばした。

失神。暗転。
初体験を、恋人でもなければ好きでもない男とシた。
身体も精神も限界だったアリスが気を失うのは当然のことだと思いたい。というか許して欲しい。





□■□





「んっんっ……ぁ、やあ!ああっ」
「っはぁ……声が、出るようになったな」
「ひゃあっ……あっあっ」

出張から三日目。
アリスの状況は一言で言い表すなら「最悪」だった。

がくがくと後ろから揺さぶられる感覚に、アリスの口からは止めどなく喘ぎ声が漏れる。
聞くに堪えない甘ったるい声に耳を塞ぎたくなるが、アリスの手はシーツをぎゅっと掴んだままで、手を離したら最後、自分の全てをブラッドに持って行かれそうで離すことができない。

「――出すぞっ」
「っ!はっ、だめ!中、だめぇ……」

あっあっ、やだ!あああっ!

どくん――と、中で脈打つ感覚。
アリスが覚えている限り、三回目。
カーテンの隙間から差し込む日差しは、もう薄暗くなっている。

昨夜初めて男に抱かれて意識を失った後、アリスが目を覚ましたのは昼に差し掛かろうとしていた時間だった。
全体的に身体がだるく、腰が重い。
その時点で昨夜の行為に赤面したアリスだったが、はっとして横を見ると、にやにやとした笑みを浮かべてアリスの髪を弄る犬が一人……いや一匹。違う、一人。
馬――鹿犬!と叫び倒そうとした所で、布団に引きずり込まれた結果―――――まさかの今2回目が終わった所である。
言っておくが目を覚ましてから2回だ。
昨夜のをカウントすると3回。
色んなモノを喪失してしまった女子になんたる仕打ちと思うのだがこの犬は聞いちゃくれない。


「っ、避妊は!?ねぇ避妊は!!?」
「……だるい」
「死ね!!!!百回死ね!!!!!!!!!!!!」

年頃の淑女が死ねなどと言うものじゃないぞ?と宣うこの馬鹿を誰か殺して欲しい。
どろりとナカから溢れ出す感覚に、アリスは顔を真っ赤にしてブラッドの頭を殴った。

「いっ」
「殴るわよ!?」
「もう、殴ってるじゃないか……」

暴力的な飼い主だ。

ブラッドは頭をさすりながらアリスの身体をシーツでくるみ、ひょいっと抱きかかえて浴室に向かう。
昨夜気を失ったときもどうやら風呂に入れてくれたらしいのだが、アリスには記憶がないため「降ろしてよ!」と暴れる。

「暴れるな。落ちる」
「降ろして!お風呂くらい一人で入れるわ!!」
「ふーん?ナカに指を突っ込んで、私が出したモノを掻き出す勇気が君にあると?」
「――――――」
「……大人しく、私に身体を洗われるつもりになったかな?」

まぁ君が自分でできるというのなら、無理強いはしないが。

そう言ってその場に身体を降ろそうとするブラッドの首筋に、アリスは慌てて掻きつく。
「それでいい」と呟くブラッドの耳元で、呪いのように「あんたなんか死んじゃえばいいのよ」と繰り返したアリスだったが、ブラッドは気にも留めない。


「気持ち良くしてやっただろう」
「知らないわよ!!」

ていうか一日終わっちゃったじゃない!
今日は観光するって約束だったのに!!

アリスの叫びに、ブラッドは「また来ればいいさ」と言った。
その声は上機嫌で、アリスはこれからどうしようと、言いようのない不安に駆られながらブラッドに身を預ける。


(最悪だわ……)


こんなのは――想定外。
だが一番問題なのは、こうなってもアリスがブラッドを追い出すつもりがないということだ。
アリスはきっと、明日ブラッドと飛行機に乗って、ブラッドと一緒に同じ家に帰る。
ご飯を作って、食べて、あのクイーンサイズのベッドで一緒に寝る生活を、明日から送るつもりでいる。

(最悪だわ……)

再度――思う。
そしてブラッドも出て行くつもりなどないらしい。
こんなの、こんなの、こんなの――――なんかおかしい。


暖かいお湯に浸かりながら、アリスは背中にブラッドの体温を感じながら目を閉じた。
あ、何か眠れる気がする。
ふわふわとした感覚に、アリスの意識は飛びそうだ。

この身体の重さではもう出かけることもできないし、夕食も――あんまり食べたい気分じゃ無い。
このまま眠って、朝がくれば丁度な気がする。
出張三日目なんてアリスには無かった。
そうだ、なかったことにしよう。
カレンダーの中にあったとしても、アリスの中では無かったのだ。
うつらうつらと下がってくる瞼を、押し上げる力はない。
ふと頭上でブラッドが笑っているような気がした。
だがそれを確かめることもできず、アリスの意識は沈んでいく。

あぁもう何か全部夢だといいのに。
だが現実はそう上手くいかない。





















帰りの飛行機はエコノミーだったというのに、行きと違ってブラッドは上機嫌だった。
自分の荷物は自分で持つし、要所要所ではアリスの機材も持ってくれた。
四日ぶりの我が家は何も変わりなく、薄暗い室内に電気を付けて窓を開け、換気をする。
「夕飯は何食べる?」と聞くと、買い物がだるいから外で食べようと言われ、アリスはそれもそうかと頷いた。


外で夕飯を済ませて、家に戻り、洗濯機を回している間にブラッドはお風呂へ入ってしまった。
普段は朝干すのだが、三日分の衣類は結構な量になってしまい、夜の内からベランダに洗濯物を吊す。
全てを終えて籠を抱えたまま室内に戻ると、ブラッドは普段の姿で読書に興じており、アリスも風呂に入ろうと脱衣所へ向かう。

この時点で午後八時。
明日は休みなのでゆっくりできるが、(でももう眠たいな)と思いながら風呂を出る。
ぽかぽかとした身体は心地よくて、髪を乾かした後寝室へ戻ると、ブラッドは既に布団の中だった。

(早いわね。疲れてたのかしら)

家の戸締まりをして、アリスは寝室の電気を消す。
ベッドに乗り、ブラッドを跨ぐ形で窓際へと身体を寄せて布団を被ると、一瞬で眠れそうな感覚に思わず欠伸する。

(ねむい―――)

眠い。
眠い。
眠い。

そう思っているのに、ごそごそと身体を這う手の感覚に、アリスは盛大に眉を顰めながら目を開いた。


「ブラッド――」
「やはり広いベッドはいいな」
「っ――まさか家でもする気じゃないでしょうね!!?!!?」


アリスの叫びに、ブラッドは「当たり前だろう」と言う。


「飼い主に奉仕するのも、立派な犬の努めだと思わないか?」
「そんな奉仕しなくていい!!」
「そう遠慮するな」

遠慮なんかしてないわよ!という叫び虚しく、覆い被さってくる犬に、アリスは心の中で絶叫した。


自室のベッドでこんなことをされた日にはもう歯止めがきかなくなるじゃないかと抵抗したが、アリスの力がブラッドに敵うわけもない。
結局――一度や二度じゃ終わらない情事に一晩中付き合わされる羽目になったのだが、これを日常として受け止められる自分が未来に存在することを、今のアリスは知らない。



折れた純潔の主軸

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

最後駆け足になってしまった。まぁ一回(三回?)食ってるのに家で食わないとかブラッドじゃないよね。

2015.10.18