ぎゅっと抱き締め擦り寄ると、ふわりと鼻を掠めるアリスの匂いに安堵する。
こちらへ背中を向けて眠る彼女を、背後から抱き締めて眠るのがブラッドのお気に入り。

アリスはブラッドのお気に入りだ。
認めたくはないが、一等懐き心を開いている。
彼女といるのは苛立たないし、むしろ心が休まる場合が多い。
アリスは自分という人間そのものを見てくれる。
家柄、権力、財力、顔、そういう所で自分を判断しない彼女が好きだ。
純粋に――好きだと思っている。
気に入っているし、手放すのは惜しい。

ぐいっと彼女を引き寄せて、背後からその首筋に顔を埋めると――「眠れないの?」という声が聞こえてブラッドは思わず肩を揺らした。

「昼寝し過ぎたんじゃない?どれくらい寝ていたの?」
「………起きてたのか」

疲れているし眠いんだけど、何だか目が冴えちゃってるのよねぇ。

目が冴えていると言う割には、ふわりと欠伸をするアリスの腰を抱え直す。
最近はこの体勢が定着してきたせいで、最初の頃のように彼女が意義を唱えることはない。
ベッドの中でブラッドがこんな風に彼女を抱き締めていても、彼女は微塵も危機感を感じていないのだ。
それはそれで腹立たしいというか、男の矜持を打ち砕かれる気分だが、変なことをして一緒に寝てくれなくなっても困るので何もしない。
ブラッドにはアリスの扱い方が分からなかった。
自分に媚びない靡かない屈しない女は初めてで、そして自分が曲がりなりにも好きだ∞気に入っている≠ニ自覚した女も初めて。
こんな風に抱き締めて眠るのも、ブラッドには彼女以外経験がない。
アリスという存在はブラッドにとって摩訶不思議で、それが面白いと思う反面、どうしていいか分からず苛立つことも多かった。


「明日は一緒に出かけるでしょう?」


呟くようにそう言ったアリスに、ブラッドは短く「あぁ」と答える。

自分は彼女に振り回されている。
実際振り回しているのは自分だろうが、それでもブラッド自身は振り回されていると感じる。
どうしたら、この言い知れない不快感から逃れることができるのだろう。

自分の飼い主なはずなのに、自分のモノと思えないこの違和感。征服欲。

アリスの首筋に――額をくっつけて目を閉じる。
アリスに自分の匂いが染みつけばいいのに。
まるでマーキング行為だと……アリスの言う通り段々犬に近づく自分に、ブラッドは眉を顰めた。





□■□





眩しいほどの木漏れ日に目を細めながら、アリスは「休みましょう」とブラッドに声をかける。
清々しいまでの晴天にアリスの犬は不機嫌そうで、ベンチに機材を置きながら自販機はないかと見回した。

「飲み物を買ってくるから、待っていて」

アリスの言葉に、ブラッドは無言で頷く。
眼前には大きな広場が見えて、小さな子ども達が楽しそうに走り回っていた。

アリスは公園があまり好きではない。
公園と聞いて思い浮かべるのは親子。兄弟。友人。
小さな子どもの無邪気な笑顔が、正直な所アリスには苦手だった。
子どもは可愛いと思うけれど、可愛いと思える分自分と比べて悲観する。

自分には、親とあんな風に遊ぶことなどできなかった。
家柄もそういう感じではなかったし、そうでなくともあの父親と遊ぶ自分というものが想像つかない。
母は穏やかで優しい人だったから、自分の記憶にないだけで実は無邪気に遊んでいた時期もあったのかもしれない。
だが覚えていない以上それはないに等しく、アリスの記憶にあるのは一から十まで姉との思い出だけ。
年の近い妹とは喧嘩することの方が多かったし、姉が亡くなるまで――亡くなっても、それが変わることはなかった。

だからアリスは公園が――無邪気に遊ぶ親子と兄弟という構図が苦手だ。
眩しくて、苦しくて、今にも泣きだしてしまいそうな気分になる。
どこかから聞こえてくる「お姉ちゃん」とはしゃぐ声が、アリスの脳髄を揺さぶって耳を塞ぎたくなるのだ。

大好きだった姉。
アリスが殺した――大好きで、大嫌いだった姉さん。
家を出てから、墓参りには一度も行ってない。
もう自分はあの家の人間ではないからと自分に言い訳をして、アリスは全てを放り投げてしまった。
罪を償うことさえ放棄して、アリスは意味もなく生きている。
いやもしかしたら、意味のない人生を送ることで贖罪しているつもりなのかもしれない。
可哀相な自分を作り上げて、アリスは自分を罰している。


「―――――」


がこん、と――飲み物が落ちる音がして、アリスはのろのろとそれを手に取った。
ペットボトルを2本。あとおつり。

さわさわと髪の毛をすり抜ける風が心地よい。
眩しいほどの木漏れ日に目を細めながら、このままどこかへ行ってしまおうかと思った。
家を出た時のように全てを放り投げて――アリスは孤独を望んでいる。
追いかけてきてくれる人だって、どうせいやしない。
家族でさえ自分を引き留めず、妹には罵倒さえされた。
捨てたのは私で、引き留めて欲しいなんて微塵も思っていなかったけど、やっぱりここは自分の居場所じゃないと自覚して涙した私の格好悪さときたら……

アリスは愛されたかった。
他人を愛することなどできないくせに、愛されたくて堪らなかった。
自分も他人も否定して生きているのに、誰かに肯定されたいという矛盾。

嫌になる。
自分も、世界も。
どうして私は生きているの、なんて――馬鹿馬鹿しすぎて口にも出せない。

ふっと自嘲気味に口元を歪めて、アリスはペットボトルを抱えて来た道を戻り始めた。








「……何かあったのか?」

「はい」っと差し出されたペットボトルを受け取りながら、ブラッドはアリスを見上げてそう問うた。
「何もないわよ?」と首を傾げるアリスに若干の違和感を感じながら、ブラッドは「そうか」と眼前に広がる光景を眺める。

青すぎる空と覆い茂る木々が鬱陶しくて、けたたましい子ども達の笑い声も不愉快だ。
転んで泣いている男子に手を差し伸べて慰める女子。
あれは姉弟だろうか。
姉に守られるなど、みっともない上に情けなく、愚かだとブラッドは目を背けた。

ふと、目を背けた先にアリスの横顔が視界に入る。
両手でペットボトルを持ち、ぼーっと眼前の光景を見つめるアリスに、ブラッドは再度「何かあったのか」と声をかけた。

「?……何もないわよ?」
「……心ここにあらずといった感じだが?」
「そうかしら?疲れてるのかもね」
「ホテルに帰るか?今日の仕事自体は終わったんだろう」
「んー、あと一つ写真を撮ったらね」

ならば早く終わらせるぞ――と、ブラッドは気だるげに立ち上がってアリスの機材を持つ。
それにはっと目を見開いたのはアリスで、彼の肩に担がれた自分の仕事道具を見て思わず「え?」と声を漏らした。

「ど、どうしたのよブラッド」
「何がだ」
「貴方が進んでそんな重たいものを持つなんて、」
「……そうしてやってもいい気分だったんだ」

文句があるなら返すぞ?

ブラッドの言葉に、アリスはぶんぶんと首を振る。
持って貰えるのはかなり有り難い。
これを持つか持たないかで疲労は倍違うと言ってもいいくらいだ。

すたすたと木々の奥へ進んでいくブラッドを、アリスは駆け足で追いかけた。
さすが――普段はあれだけだるそうにしていても(いや実際今もだるそうだが)男の子なだけあって力はある。
軽々と荷物を運んでいくブラッドの後ろ姿を見て、アリスは思わず顔を綻ばせた。
騒がしい子ども達の声はもう聞こえない。
聞こえるのは風の音と、それに揺られて葉がこすれ合う自然によって生み出される音だけ。
心地よい空間だ。
ほうっと息を吐けば、言い様のない安心感が胸の内から溢れ出して、アリスは泣きそうになった。


「遊んでる子ども達、可愛かったわね」

それらを誤魔化すように、アリスは言う。

「……うるさかった」
「ブラッドってそういう人よね。でも昔はあんな風に遊んでたんじゃない?」
「記憶にないな」
「そうなの?でもご両親とか兄弟とか―――」

居たんじゃない?――と聞きかけて、アリスは止めた。
ブラッドは未だ前方を歩いている。
変わった様子は何も見えない。

両親とか兄弟。

この単語に反応したのは、むしろ言ったアリスの方だった。




「……………」
「……………」

「……………」
「……………」

「……………」
「………あ、ブラッドここでいいわ。ここで撮る」


小さな湖の広がる場所で、アリスはブラッドの服を引っ張った。
彼は無言で機材を下ろし、それをアリスが組み立てる。



「――――君は?」

パシャパシャとシャッターを切っている最中の、ブラッドの問いかけの意味がアリスには分からなかった。
視線だけをそちらに寄越して、アリスは首を傾げる。

「さっきの。君は、両親や兄弟とあんな風に遊ばなかったのか?」
「――――――――」

ここでそれを蒸し返すのか。
アリスはふっと地面に視線を下ろし、だがすぐに顔を上げてカメラのレンズを覗き込んだ。


「記憶にないわ」

返した返事は、先ほどのブラッドと相違ない。
それに対してブラッドは「ふうん?」と言うだけで、それ以上追及してこなかった。

アリスが思い出す両親。
アリスが思い出す――姉妹。

コンプレックスとトラウマの塊。
そして愛の象徴。
アリスはきっと、自分の家族が嫌いだ。
愛している。愛していたと思い込みたいだけ。
思い出す度こんなに苦しくなるのに、大好きだったなんて堂々と言えるはずもない。



「ねぇ、ブラッド」

アリスの家族は――きっとこの飼い犬だけだ。
それは脆く、いつ破綻するかも分からない関係だけれど、それでも家族らしい&tき合いをしているのはこの犬だけ。

「貴方、お姉さんとかいた?」
「―――――――」

一瞬ブラッドが息を呑んだことに、アリスは気付かなかった。
そして多分気付かなかったのは正解で、続けて「答えなくていいわ」と言葉を放つ。

「姉さんがいたのよ。私」

美人で、優しくて、穏やかで、頭も良くて、手先だって凄く器用。
できないことなんか何もなくて、皆が姉さんを好きだった。
早くに母親が亡くなって、姉さんが私と妹の母親代わりをしてくれたわ。
やりたいことや夢だってあったはずで、友達と遊んだり、おしゃれしたり、彼氏を作ったり……でも姉さんにそんなことをする時間なんかなくて、それでも嫌な顔一つせず私達の世話をしてくれたの。
父は母が亡くなってから仕事一筋で、家族のことなんかこれっぽっちも顧みない。
全部を姉さんに丸投げして、でもそれを姉さんは全て熟して見せたわ。

「姉さんは立派だったわ。大好きだった」

綺麗で優しい自慢の姉さん。完璧な淑女。
本当に大好きだったわ。
きっと姉さんのことを嫌いになる人なんていない。
それくらい完璧な人だったの。

だから私――自分から好きになってお付き合いした人が、姉さんの事を好きになってしまった時、「仕方ない」って思ったわ。
皆が姉さんを好きになる。当然だわ。
姉さんは、人並みで不器用で、賢くもない私とは違う。
だから好きだった人が姉さんを好きになるのは当然で――仕方がないことだと思ったのよ。

思っていた、はずなのに――――



アリスは間違った。
あの日、あの時、姉に、家を出ると言ってしまった。
好きな人が姉さんを好きになってしまったから、自分に自信が持てないって。
自立した女性になるために、卒業したら働いて、家を出るって。
アリスはそう姉に告げてしまった。
姉の病気が発覚したのは、そのすぐ後のこと。




「後悔…っしたわ、」


違う。今もしている。
今も――後悔している。


「最期までっ……可愛い妹で、いられなくて!」


零れる涙が衣服を濡らす。
きらきらと、太陽の光を反射する湖が眩しくて、アリスは歯を食いしばって「ごめんなさいっ」と叫んだ。

誰に。姉に。
姉が死んで、全てを放り投げてしまったアリス。
後悔しても取り戻せない時間。
後悔しても戻れない過去。
それでも今を生きて未来に進まなければならないのに、アリスはそうしようとせず過去に囚われ生きている。
これがアリスの罰だ。
全てを放り投げることによって、残りの生を後悔と懺悔に捧げようと決めた。
だから姉さんはアリスを許してくれない。
アリスは姉に――会いに行こうとしない。


「姉さん――――っ」


ふいに――紅茶の匂いが鼻を掠める。
涙で滲んだ視界に飛び込んできたのは――――

「………………」

アリスの黒犬。
アリスを抱き締めて離さない、アリスの犬。

「っ」



無意識に、無我夢中に、アリスはブラッドにしがみついて泣いた。
醜態を晒しているという自覚はある。
この涙は姉の死を悼む涙ではなく、後悔、罪悪感、羨望、嫉み、切望、色んな感情に押しつぶされそうになっているアリスの心が泣いている。
結局いつだって自分のことしか考えられないアリスは、誰よりも醜くて、誰よりも卑しい。
アリスや妹のために心身を削っていた姉とは違う。
やっぱりアリスは、姉のようにはなれない。

だから誰も――アリスを愛してくれはしない。


「………明日の分の仕事をしよう。私も付き合う」
「………っ、」
「そうすれば、明日は好きなことができるだろう」

仕事にしろ好きなことにしろ、何かをしていれば気も紛れる。

囁くように――ブラッドはアリスにそう言った。
アリスはそれにこくりと頷き、目を擦りながら立ち上がろうとする。
一瞬ふらりとバランスを崩したが、ブラッドはそれを難なく受け止め彼女の頭を撫でた。

その手は酷く優しくて、アリスはまたぼろりと涙を零す。
今日は駄目だ。
アリスは毎年、この日だけは馬鹿になる。



「行くぞ、アリス」



差し出された手を――アリスは迷うことなく取った。
繋いだ手は温かくて、心の中で(犬のくせに)と罵倒しながら、それでも彼がいないとどうにもならない自分自身を嫌悪する。

今日は―――姉の命日だった。



折れた純潔の主軸

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

唐突に心が押しつぶされそうになる時って無いですか?

2015.10.17