「出張?」
「えぇ、三泊四日で出張。ご飯、ちゃんと食べるのよ?洗濯物は置いといていいから」

背後から聞こえるアリスの言葉を聞きながら、ブラッドは夕食の食器を流しに浸ける。
来週から出張だと言う彼女は仕事が立て込んでいるのか、食事を取りながらも資料を眺めて目を離さず、食べるスピードもいつもの倍遅い。
どこへ行くんだ、と聞けば国外だと言う。
観光地の取材らしく治安は良いようで、女一人で出張に行ったところで何の問題もないとアリスは言った。


「心配なのは……私のいない三泊四日の貴方だわ」
「…何故この年になって留守番の心配をされなくてはいけなんだ」
「ついこの間まで洗濯機も回せなかった人間が何言ってるの。今だって干そうとも畳もうともしないじゃない」
「…………面倒くさい」
「その面倒くさがりが心配なの。ご飯、二日分くらいなら作り置いて行くから……」

アリスは未だ資料から目を離さない。
出張までにはどうしても仕事を終わらせたいという彼女は鬼気迫るものがあり、再度食卓テーブルの椅子に腰を下ろし、真正面からアリスを見つめるも視線は合わない。
それが何となく面白くないブラッドは、ふっと思いついた言葉を放った。



「――――私も付いていく」



思いつきで言った言葉。
アリスが仕事ばかりしているのが面白くなかったから、困らせるつもりで言った言葉。
ブラッドの思惑通り、アリスは資料から顔を上げてようやくブラッドを視界に入れる。
だが次の瞬間、彼女が放った言葉はブラッドの予想を跳び越えた。


「それいいわね。一緒に行く?」

そうね。そうだわ。連れて行った方が心配もないし……


よもやあっさり肯定されると思っていなかったブラッドは、アリスを唖然と見つめる。
幸い出張も私一人だしと笑うアリスに、「やっぱり面倒くさいので行きません」とはとてもじゃないが言えない。
言ったら多分――アリスお得意の鉄拳制裁が待っている。

「置いて行って余計な心労を抱えるよりは、一緒に来てくれた方が安心よね」

取材も手伝ってもらえるし、一人より話し相手がいた方が暇にならないだろうし、あぁそうだ、荷物持ちとしても使えるわよね、機材も持って行かなきゃだしお土産も買わなきゃだし……

ぶつぶつと言うアリスにブラッドは若干顔を青くさせて俯いた。
まずい。面倒なことになった。
呟かれていることが今の時点で究極に面倒だ。
だがここでやっぱり行きませんなんて言うとアリスお得意の――以下略。

かくして、三泊四日のアリスの出張――もといアリスとブラッドの旅行が決定した瞬間である。





□■□





ブラッドの不機嫌具合は過去最高潮だった。
空港で手荷物を受け取りながら、今日はもう仕事できないなぁとアリスはブラッドの袖を引く。
不機嫌顔でアリスの後ろをついてくる犬は手ぶら。
対してアリスは、仕事用の機材と自分のスーツケースに加え、ブラッドの荷物まで持っている。
時折ちらちらと周囲の視線が向くレベルの大荷物。
それらを女が一人で持っている状況にすら関知しないほど、アリスの犬は不機嫌だ。

「……言っておくけど、帰りもエコノミーだからね」

生まれてこの方エコノミーなんて乗ったことがないというこの駄犬を、全力で殴りつけてやりたいのはアリスの方だった。
ファーストなんてむしろ私が乗ったことないわ。
そもそも国外へ行くのにどれだけ金がかかると思っている。
アリスは会社から手当が出るものの、ブラッドの旅費はアリスの自腹。
犬を飼い始めて約半年で正直いくら使ったかも分からないレベルの金額を払っているのに、飛行機の座席クラスが低いというだけでこの不機嫌ようには呆れるしかない。

呼び止めたタクシーに荷物と犬を詰め込んで、アリスはホテルへと向かう。
陽は高いが今日はもう仕事をする感じではない。
折角番犬がいることだし夜の街並みも散策しようと思っていたのだが、この分では役に立ちそうになく、ホテルに缶詰だなと思いながらスケジュールを決めていく。
とりあえずホテルに犬を下ろしたら、アリス一人で目的地の下見には行こう。
本当は今日中にじっくり見て回りたかったのだが、犬の調子を見る限り放置したら拗ねる一方だとアリスは判断する。

別に放って置いてもいいのだ。犬くらい。
だがアリスはそれをしない。できない。昔ならした。
でも今はそれができない程度には、可愛がっている。




タクシーを降りて、ホテルの受付付近にあったソファにブラッドを座らせる。
「荷物見ててね」と言い残し、アリスはチェックインするために受付へと足を向けた。
その間約5分。
だがそのたった5分の間に、一個目の問題が発生した。



「え、部屋、予約できていないんですか?」
「申し訳ありません。当初シングルのお部屋をお取りしておりまして、その後ツインに変更ということだったんですが、どうやら手続きにミスがあったようで……」

困った顔をする受付のお姉さんに、アリスも困った顔をする。
だがツインは全て満室で埋まっているらしく、「ダブルのお部屋なら空きがあるんですが…」と控えめに言うフロントマンに、アリスは仕方が無いかと溜息を吐いた。

まぁ、変更もかなり急で無理を言ったし……
普段から一緒に寝てる分別に構わないわよね。

クイーンサイズよりよほど小さいベッドで、あの不機嫌を隣に寝るのは居心地が悪そうだが……まぁ明日になれば機嫌も直るだろうしとアリスは「じゃあそれで」と手続きしてしまう。
ほっとした表情と申し訳なさが全面に出ているフロントマンを見ると、むしろこれ以上引っ張るほうが申し訳ないとアリスは気持ちを切り替えた。
そんなアクシデントがありながらも、さっさと手続きを済ませてブラッドの所に戻ろうとすると――ここで二個目の問題が発生していた。
いや、アリスの問題ではない。
アリスの問題ではないのだが……後々アリスに被害が出そうな問題である。



……映画かドラマかよ。

アリスは思わず――そう心の中で突っ込んだ。
いやもしかしたら口に出ていたかもしれない。
少なくとも顔は歪んでいるはずだ。
不機嫌ながらも大人しく荷物番をしていた犬に群がる二人の女性。
眩しいほどの金髪と、艶やかな夜色の髪が美しい美女に囲まれて、アリスの犬は無表情だ。
現在進行形でナンパされている犬の姿に、アリスはどうしたものかと立ち止まる。
ぶっちゃけ、あの中に入っていく勇気がない。


一方ブラッドの機嫌は急降下するばかりだった。
朝早くから叩き起こされ、自分が叩いた軽口が原因とは言え行きたくもない出張に連れてこられて、おまけに何時間も揺られる飛行機はエコノミーだし身体がみしみし言っている。
ホテルまでノンストップで来ているため腹は減ったし煙草も吸いたいというのに、今自分の目の前にいるのは鬱陶しい女共。
強すぎる香水の匂いと媚びた声が苛立ちを誘い、最近相手にしてなかった人種だとブラッドは盛大に眉を顰めた。

昔は節操なく手当たり次第、来る者拒まず去る者追わずで女に手を出していたブラッドだったが、最近は食う女も選ぶようにしている。
アリスと過ごし始めてからというもの女の香水の匂いが気になるようになったし、口をつける食事も限られてきた。
なるべく金のある比較的上品で趣味の悪くない女と付き合うようにしているため、今自分に近寄って来た女共がブラッドには殊更不愉快だった。
「一人?」「何しに来たの?」そんな頭の悪い問いに答えてやるほどブラッドは優しくないし、それに輪をかけて不機嫌な彼は無言で目を逸らす。
この膨大な荷物を見て一人かどうか聞いてくるなど、頭が湧いているに違いない。
明らかに女物のスーツケースまであるというのに、この女の目は節穴かとブラッドは鬱陶しそうにフロントへと視線を向けた。

と、そこで――鍵を片手に此方を見ながら、立ち止まっているアリスの姿が目に入る。
その表情はどこか困っていて、それでもブラッドと視線が合ったことに気付いたアリスは、「どうするの」と口パクで問うてくる。

どうするの?
この状況でそんな事を聞いてくるアリスも大概頭が悪い。

ブラッドは舌打ちをしながらがたりと立ち上がり荷物を持つ。
その間も女共には見向きもせず……そもそもアリスが普通に此方へ寄ってこないから悪いのだ。
そうすれば連れがいることが分かるし、自分もこんな馬鹿みたいに重い荷物を持つこともない。

というか、何だこれは重すぎる。

それが更にブラッドの機嫌を下げて、無視され続けた女達が「えー何よー」と馬鹿全開に呟くのを背後で聞きながら、ずんずんとアリスの元へと歩いて行く。



「……重い」

そう一言呟いて、アリスの前でどさりと荷物を下ろす。
機材がある分丁寧に下ろしてくれたのは見ていたら分かるが、男が女に「重い」と言って荷物を手渡してくるのはどうなんだろう。
アリスは呆れた目でブラッドを見ながら、機材を担ぎスーツケースを二つ持って「あの女の子達はいいの?」と問いかけエレベーターの方へと歩く。

「鬱陶しい。何故私が付き合ってやらなくてはならないんだ」
「……可愛い子達だったわよ?」
「顔の造形などどうでもいい。香水の匂いも不愉快な上に、あの笑い方は受け付けない」
「よく分からないけど…まぁ貴方がいいなら」

眉間に皺が寄りっぱなしのブラッドに、せめてボタンくらい押してくれと目線で合図する。
後ろからさっきの女の子達が「おばさん」だ「趣味悪い」だ失礼なことを言っているが、アリスは気にする様子もなく降りてきたエレベーターに乗り込んだ。
アリスが気にしていないくらいだから、ブラッドには耳に入っているかどうかも怪しい。

でも正直おばさんは傷つく。
そりゃ10代みたいな若々しさと肌の艶はないけども!!
言うてまだ22よ!?おばさんは言い過ぎじゃない!!?

二人して無言で乗り込んだエレベーターの中で、アリスの心が今更ながらに荒れる。
そりゃまぁ見た目凡人で年上だろうと思われる女に、目を付けてた男が寄っていったら面白くないだろうけど!

最終的にブラッドがモテるのが悪い。
国外に来てまで妙なフェロモン垂れ流して、女を引き寄せるこいつが悪いのだ――と、アリスは部屋の鍵を開けながらそう結論づけた。






「あぁもう!重い!!!」

機材に二人分の荷物。
どさりとソファの上に下ろしながら、アリスはそう叫んだ。
ようやく外界から遮断されたせいか、ブラッドも少しばかり不機嫌を緩めて部屋を見て回る。
ホテルは割と良いところを取ったつもりだ。
出張とは言え折角の観光地。
こういう所で贅沢をしてもバチは当たらないだろうと、アリスは少しばかり奮発した。


「……思ったより悪くないな」
「そりゃそうよ。三泊もするのよ?観光地だし」
「割と……飛行機の中で覚悟していた」
「えぇえぇエコノミーで悪うございましたね。いい加減機嫌直しなさいよ」

まだお昼だけど、夕飯は貴方の好きな所で食べていいから。

上着を脱ぎ捨てポーチの中から髪留めを探す。
鏡の前で長い髪を一纏めにしながら、アリスはふうっと一息吐いた。

「……ダブル?いや別に構わないが、ツインで予約したと言ってなかったか?」
「あぁうん。ホテル側が手続きミスしたらしくって……」

何だかんだダブルになっちゃったのよねーと言うアリスに、ブラッドも「ふーん」と言うだけで特に気にした様子はない。
ぼふんとさっそくベッドに転がりながら、「だるい」と呟いたブラッドは家での様子とそう変わりなかった。


「私、取材場所の下見に行ってくるから」
「………何時に帰ってくる?」
「夕食までには――そうね、18時までには帰ってくるわ。貴方どうせ寝てるでしょう?」

お腹が空いたのならルームサービス取りなさい。
煙草はベランダに出て吸ってね。
出かけてもいいけど、18時には帰ってきてよ?
心配するから。

小さなショルダーを肩から提げて、アリスは「それじゃあ行ってくるわね」と言った。
ブラッドはそれに寝そべったまま、無言で手を振り送り出す。

気だるさと睡魔が限界だ。
空腹も感じているが……とりあえず今は寝よう。

ベッドに身を沈めて、ブラッドは静かに目を閉じる。
だがアリスの匂いがしない客室のシーツは、どことなく寝心地が悪くて、ブラッドは何度も寝返りを打った。
余所の女の所に一晩泊まることは多いが、ブラッドはそこで眠ったことがない。
もう暫く、アリスのベッドでしか寝ていないことに気付いてブラッドは急に不快感が込み上げた。


ここでは眠れない。


むくりと起き上がってアリスを追いかけようかとも思ったが、それはそれでだるい上に面倒くさいとベッドから降りるに至らない。
ここでは眠れないと思う自分に眉を顰め、自分が予想以上に彼女に依存していることを思い知らされて苛立ちを覚える。

結局ブラッドは、持ってきていた本を手に取り読書をすることにした。
ルームサービスを頼んで、ゆっくり飼い主の帰宅を待つことにする。



折れた純潔の主軸

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

久しぶりの犬を飼ってるアリスさんシリーズ。

2015.10.15