大きなテーブルの上に、一品二品三品と料理を並べていく。
我ながら張り切りすぎたというか、少々作りすぎた感が否めないが、結局合計七品のおかずが食卓の上に並んだ。
最後にスープを添えて出し、冷蔵庫にはデザートまであるという豪勢っぷり。
「……料理が得意なのは知っていたが」
ここまでか。
感心したようにそう呟いたブラッドに、アリスは自分の頬が緩むのを自覚した。
素直に嬉しいと思う感情が顔に出てしまって、アリスは誤魔化すように「味は保証しないわよ」と可愛げのない言葉を放つ。
ビバルディに喜んで貰いたくて、沢山の食材を買った。
色々作っておくれと言う彼女のために、メニューだって買い物をしながら予め決めていたのだ。
だがそれにしても――張り切りすぎてしまったとアリスは思う。
予定より二品多くなってしまったとか、飾り付けに拘ったとか、味見だって慎重に――
そうなってしまった理由を、アリスはきちんと自覚している。
大はしゃぎするビバルディの隣で、ワインを用意しているブラッド。
「お酒に合うような料理じゃないかもしれないけど」と声をかけると、彼は「単純に飲みたいだけだ」と肩を竦める。
「姉貴がな」
「そう、わらわが飲みたいのだ」
「……ブラッドは飲まないの?」
アリスがそう問うと、ブラッドは「何があるか分からないからな」と自身の姉を見て呟いた。
その重苦しい声色に、アリスは苦笑しながら「そうね」と笑う。
料理中にブラッドが車で出かけた回数は三回。
あれを買ってこい、これを買ってこいと言うビバルディの命令を、嫌々ながらも聞き入れているブラッドの姿は面白かった。
玄関先にあった車のキーはカウンターに捨て置かれ、いつでも彼が出かけられる準備は整っている。
「あぁそうだブラッド。お前、食べ終わったらこの雑誌を買ってこい」
アリスに似合う服を探すのだ。
この子ときたら、折角一緒に出かけたというのに何も買わなくて―――
すっと、アリスはブラッドから目を逸らして取り皿を探しに席を立った。
「どうしてさっき出かけた時に言わないんだ」と低い声を出すブラッドに、ビバルディは「今思いついたのだ」と気にもせず言う。
確かに。
これではブラッドも飲酒などできないだろう。
甲斐甲斐しいほどビバルディの言う事を聞くブラッドは年相応で、普段あれだけ偉ぶっている男が実姉には頭が上がらないという構図は面白い。
面白くて、可愛いと思う。
そんなブラッドの姿を見て、二品多く作ってしまう程度には、アリスの心は浮き足立っていた。
「あぁもううるさい愚弟だこと。料理が冷めてしまうではないか」
「誰のせいだと――――」
ワインを注ぎながら、ブラッドは盛大に溜息を吐く。
どうせこの姉に何を言おうとも無駄だと分かってはいるのだが、言わずにはいられないほどの理不尽っぷり。
普段なら絶対に聞かない頼みでも、今日だけは聞かざるを得なくてそれが殊更に腹立たしい。
アリスがいなければさっさと自室に引っ込んでいるし、例え怒鳴り込んでこようともスルーできる自信がある。
だから、ブラッドの最大の誤算はアリスなのだ。
そもそもこの空間に彼女がいることがまずおかしい。
外食に飽きただの手料理が食べたいだのと、思ってもいないことをすらすら言ってのける姉に殺意が湧く。
お互い料理をしないのは本当だし外食ばかりなのも本当だが、別に飽きてなどいないし不満を抱いているわけでもない。
アリスを連れてくるためにビバルディが吐いた嘘。
どうしてそんな嘘を吐いたか、ブラッドには嫌と言うほど分かっている。
「アリス。これには何の食材を使ったのだ?」
「あぁ、それには――――」
口に運ぶ、アリスの手料理はお世辞抜きに美味い。
普段から食べるものに比べたら庶民的だが、別に貴族でもなんでもないブラッドには此方の方が口に合った。
にこにこと笑ってビバルディと会話をするアリスを見つめて、ブラッドは(久しぶりに見たな)とすぐにその視線を逸らす。
アリスの笑顔。
ブラッドが気に入った表情だ。
別に笑顔が可愛かったなどと薄ら寒いことを言うつもりはないが、怒ったり、喜んだり、そういうくるくる変わる表情をブラッドは気に入った。
自分に媚びない、縋らない、頼らない。
でも少し突っつけば泣き出すような脆さがあって、それでも屈せず睨み付けてくる彼女を、ブラッドは可愛いと思った。
だが最近のアリスときたらいつも俯き加減で、ブラッドを見ると困ったような顔をして項垂れる。
何か不満があるのなら、いつものように睨み付けて罵倒してくれればいいのに。
つついてみても泣き出さなくて、それにさえ困ったように眉を顰めていた。
ブラッドにはアリスの気持ちが分からない。
嫌われてない自覚はあるが、金を渡してでも会いに来て欲しいと頼んでいるのにそこで困った顔をされる意味が分からない。
いや頼んではないか。半ば強制だが……それでもそれだけ想っているということだ。
アリスはブラッドがいくら抱いても、いくら金を出しても、一向に笑ってくれないし好意の感情も向けてくれない。
姉には「馬鹿かお前は」と呆れられたが、そこで呆れられる理由すら、ブラッドには分からないのだ。
「ブラッド、どう?美味しくないかしら?」
「――いや、美味いよ」
心配そうに此方を覗き込んできたアリスに、ブラッドはそっけなく答える。
否、そっけなく答えたつもりだった。
だがアリスはブラッドのその態度に、少しだけ目を見開いて――直後ふわりと優しく微笑む。
「えへへ」とでも言い出さんばかりのその笑みに、今度はこっちが目を見開く番で……
「なんじゃお前。もっと感想はないのか」
「いいのよ、ビバルディ」
美味しいって言ってくれたら十分よ。
ビバルディでさえ気付かなかったブラッドの心境に、アリスは気付いた。
そっけない態度を取ったつもりなのに、それが照れ隠しだと気付かれて、ブラッドは突っ伏したいほどの羞恥心を覚える。
いや、本当に気付かれているかどうか定かではない。
だが見たこともなかったアリスの柔らかい表情に、自分の全てを見抜かれたようで、ブラッドは酷く居心地が悪かった。
美味いと思っている。
できれば毎日食べたいと思うほど。
そして毎回その笑顔が見られるのなら、ブラッドはずっとこのままでもいい。
騒がしい店内で会う、煌びやかなアリス。
店の雰囲気に合わせてブラッドがコーディネイトしたアリスは綺麗だが、それでもブラッドは今のアリスの方が好きだ。
酒と煙草の匂いが入り交じった空間。
男と女の笑い声が絶えない騒がしい空間。
そんな場所で出会ったから。
自分はホスト、彼女は客として、そうして会うしか自分達は交流できないと思っていたから。
だが今は違う。
アリスはアリスで、ブラッドはブラッド。
ここは店じゃない。ブラッドが仕事の延長として足を踏み入れるアリスの家でもない。
今日はブラッドもアリスも仕事は休みで……姉も一緒に存在する、ブラッドが家族と住まう家。
ブラッドという個人。
アリスという個人。
そこでこうやって笑い合えるのなら、ブラッドはそっちの方がいいと――――心の底から思った。
□■□
ちゃりん――と、差し出された鍵にアリスは目を丸くした。
「取り返したがっていただろう」
返す。
そう言って、差し出されたそれを両手で受け取ったアリスは、そのままの体勢でブラッドを見上げた。
終始ずっと眉間に皺を寄せたままだったブラッド。
突き返された合鍵は冷たくて、取り返したかったはずなのに、いざ返されたアリスは自分の心が冷えていくのが分かった。
(なん、で――)
なんで突然鍵を返そうと思ったのか。
なんでこのタイミングなのか。
そもそもなんで、もうこの鍵がいらないのか。
それが分からないほどアリスは馬鹿じゃなかったし、ここで楽観的な解釈ができるほどお気楽な性格でもなかった。
じわりと、アリスの瞳に涙が溜まる。
バカ、こんな所で泣いてどうするのよ。
緩くなった涙腺を叱咤しながら、アリスは鍵を握り締めて「今日はお邪魔してごめんなさい」と言った。
夕飯の最中、上機嫌に輪をかけて上機嫌だったビバルディは、お酒を飲んで眠ってしまった。
仕方がないなと言いながらブラッドと二人でビバルディを寝室に運び、リビングと台所の片付けをして帰ろうとした所でこれ。
楽しかった時間が台無しだと、アリスの心は暗くなる。
「それじゃあ――帰るわね」
震える声を悟られぬように、アリスは俯き加減にそう言ってブラッドに背を向けた。
玄関先で履いた靴は冷たく、少し土に汚れているそれを見てアリスは更に泣きたくなる。
もっと可愛い靴を履いてくれば良かった。
こんな庶民的なのではなくて、もっとビバルディの隣に並んでもおかしくないような―――
「――お邪魔しました」
そう言って、玄関の扉に手をかける。
内鍵を開けて、そのドアを開けようとアリスが力を込めた瞬間――
「アリス」
背後で聞こえた、ブラッドの声。
「今度から――」
耳に響く彼の声は、普段より余程柔らかない。
いつもとは大違いだと、アリスは唇を噛み締める。
「私が休みの日に、夕飯を作りに来てくれ」
『休みの日に、またおいで』
堪えきれず、ぼろりと零れた涙。
言われていることは多分さほど変わらないのに。
私が休みの日にお店へブラッドに会いに行くことと、ブラッドが休みの日に私が夕飯を作りに行くことは、きっとそれほど大差ないことのはずなのに。
むしろ後者の方が手間だ。
買い物をするのは私だし、おまけに絶対仕事終わり。
バスを乗り継いでここに来て、彼の口に合うような料理を作らなければならないのは本当に手間だ。
だけど――
「待っている」
枕元に札束を投げ捨てられるより、それは余程嬉しいことだった。
帰っていったアリスの後ろ姿を見つめて、その姿がどこにも見えなくなってからも玄関に立ち尽くしていたブラッドは、はぁと一つ溜息を吐いて頭を掻いた。
ふと玄関先の時計を見れば、時刻は午後10時半を指している。
「―――――――」
チッと舌打ちをして、ブラッドは乱暴にリビングの扉を開き、カウンターに置いてあった車のキーを取った。
今から走れば、きっと追いつく。
財布と携帯を持ち、そのままの姿でブラッドは家から飛び出した。
ビバルディが目を覚ますと、そこは自室のベッドの上。
割と良い目覚め。
カーテンの隙間からは明るい光が差し込んでおり、のそりとベッドから起き上がって自室を出る。
まず真っ先に入ったリビングに、人はいなかった。
そして昨日の楽しかった面影もなく、普段通り整理整頓された部屋がそこにあるだけ。
次にビバルディは浴室へと向かった。
服を脱ぎ、シャワーを浴びて、バスローブを身に纏った状態で風呂場を後にする。
今度はそのままの姿でブラッドの部屋へと向かった。
コンコンとノックをして、返事は返ってこなかったがその扉を遠慮なく開け放つ。
此方もよく整理整頓された部屋。
カーテンは閉め切られており、ベッドは使った痕跡すらない。
そんな室内の様子を見て、ビバルディは「はっ」と鼻で笑う。
「あの愚弟め……一体どこに行ったのやら」
二回目に足を踏み入れたリビング。
普段はカウンターに置いてある、弟の車のキーが見当たらない。
ビバルディはくすくすと上機嫌に笑いながら、自ら紅茶を淹れるべく台所へ向かった。
テレビをつけることも忘れずに、今日のニュースを見ながら穏やかな朝のひと時を過ごす。
午前7時55分。
ビバルディは自身の愛車である真っ赤なポルシェに乗り込んで、会社へと向かった。
今日は珍しく道が空いており、思ったよりも早い時間に会社へと到着する。
出迎えにきた秘書に今日のスケジュールを聞いて、最上階にある自分のオフィスへ向かう途中、ビバルディはアリスの部署へと顔を出した。
まだ始業時間前。
昨日の礼を言わねばと尋ねると、普段は誰よりも早く来ているアリスの姿がない。
それに「おや」と声を漏らしたビバルディは、アリスの直属上司である男に声をかけた。
「あぁ、彼女は今日休みですよ。さっき連絡がありました」
「休み?アリスがか?」
「えぇ、何でも体調を崩したらしく……」
珍しいですよね。
声も枯れて辛そうだったので、此方のことは心配せずにゆっくり休むよう伝えました。
「彼女に何か、ご用でしたか?」
「……いや、大したことではないよ」
今にも緩みそうな口元を叱咤して、ビバルディは踵を返す。
早足で廊下を歩き、駆け込むように社長室へと駆け込めば、ビバルディは片手で顔を覆いながらくつくつと笑い始めた。
ブラッドは一体どんな顔で家に帰ってくるか。
そしてアリスは明日どんな顔で出社してくるか。
中々、楽しみというものはそこかしこに散らばっているものだと――ビバルディは声を出して笑った。