「またおいで」

そう言って、枕元に札束を投げ捨てていく男が大嫌いだった。

上着を羽織りながらカップに残った紅茶を飲み干し、ソーサーごと台所へと持って行くその男。
かちゃりと流しにカップを置いた音がして、その後玄関を開けて出て行く様子が、身動きできないアリスの耳に響く。
ご丁寧に鍵までかける音がして、結局今回も勝手に作られた合鍵を奪い返せなかったと歯を食いしばる。

むくりと――アリスがベッドから身を起こした時には、既にそれから数十分が経過していた。
気だるい身体を叱咤しながら、枕元に置かれた札束を手に取って数を数える。
それは意味のない行為だ。
どうせ使い道は決まっているし、それ以外に使う選択肢をアリスは与えられていない。
次の休みは五日後。
五日後に、この分厚い札束をアリスは一夜で使うことになる。





きっちり五日後。
頭のてっぺんから足の先まで、全てをブランド物で揃えたアリスは、行きつけの花屋で豪勢な花束を受け取った。
ふわりと香る匂いは甘く上品で、咲き誇る生花は美しいのに、アリスの心は薄暗い。
強要されたプレゼント。
こんなものを受け取って嬉しいのかと尋ねたことがあるが、男は「まぁ建前は大事だ」と興味なさげに言っていた。
だったらもういらないんじゃないかと思うが、彼から貰った札束に、この花束の費用が入っているのだから仕方がない。
これでも工夫を凝らして、色合いだとか飾り付けだとか、花言葉にアリスが気を遣っていることを、あの男は気付いているだろうか。


「アーリス」

会いに行かねばならない男の店の最寄り駅に辿り着くと、そこには白いスーツを着た優男が相も変わらず胡散臭い笑顔で手を振っていた。
「迎えに来たよ」というその男に無言で花束を押しつけて、「彼はどうしたのよ」と尋ねると、「他の女の子を迎えに行ってる」と笑われた。

「あ、これでも帽子屋さん、ちゃんとアリスのこと迎えに来るつもりだったんだぜ?」
「…………」
「でも急なお客さんだったからさー。割とお得意様だし」
「別に構わないわよ。そもそも迎えなんかいらないって、いつも言って―――」
「はは!そういうわけにはいかないよ。お金を落としていってくれるお客さんは、大事にしないとね」

特にアリスはVIPだし。
今日も一杯お金を落としていってくれよ?

仮にも客に向かって金を落とせとか、よく堂々と言えるなとアリスは隣を歩く男を見上げた。
彼はにっこりと微笑んで、「そう言えばアリスと歩くの久しぶりだねー」と店とは真逆の方向へ行こうとする。

「それは、貴方が一度外へ出ると中々帰ってこれないからでしょ」
「この辺って、道が入り組んでて難しいよな。今日も駅までユリウスに連れてきてもらったんだ」
「いつまでたっても治らないわね……その方向音痴」

アリスの言葉に、彼――エースは「道が悪いんだよー」と軽やかに笑う。

「自分のお客さんも迎えに行ってあげたいんだけど、迷惑になるから行くなってさー、ユリウスが怒るんだ」
「……懸命な判断ね」
「だからアリスは特別。ほら、俺、帽子屋さんとは結構仲がいいから、直接頼まれるんだよね」

ふらふらと道を外れようとするエースの袖を引きながら、アリスは「意外にね」と笑いを零す。
自分が会いに来た男が、アリスを迎えに来れない事は多い。
一番人気で、多忙を極める。
それでもアリスが男を訪ねる回数の半分は迎えに来てくれるが、もう半分はこのエースか、エリオットというお兄さんが迎えに来てくれる。
昔はエリオットがよく来てくれていたのだが、彼も人気が出て多忙になってきたのか、最近ではエースの方が多い。
異常すぎる方向音痴で、他の客を迎えに行くという仕事を免除されているエース。
開店前のこの時間帯は暇らしく、アリスの男が来れない時は、毎回彼が来るほどに。



「お、着いた着いた。いやー、間に合って良かったよ」
「あんたの道案内じゃ確実に間に合わなかったわ」
「花束、どうする?俺がそのまま帽子屋さんに渡しとこうか?」
「そうして頂戴。毎度のことだもの。本人に手渡しても邪魔だろうから」
「そういうお客さんって、アリスくらいだぜ?大体の女の人は、絶対直接本人に手渡したいって言う人が多いのにさ」
「喜んでもらいたいからでしょう?私別に、喜んでもらいたくて持ってきてるわけじゃないから」
「……ふーん」

じゃあ何のために持ってくるの?

エースはアリスに尋ねなかった。
見た目ほど爽やかではない彼は、そこそこ頭がキレる。
だからこそ、アリスの男とそれなりに良い関係が築けているのだろう。
そして尋ねられないことに、アリスは心の中で安堵した。
アリスがここに来る理由。そして来ることができる@摎Rを、アリスの男以外は誰も知らない。


「ま、いいや。いらっしゃい、アリス。楽しんでいってね」

開かれる扉。
薄暗くて、賑やかで、華やかな店内。
男の声。女の声。
全てが目障りで耳障りだと思うのに、甲斐甲斐しくこの場所に足を運ぶ自分を、アリスは心底憎らしく思っている。


「この子、いつもの席に通してあげて。アリス、帽子屋さんすぐ来ると思うからさ」

他のスタッフに指示を促しながら、アリスを気遣うエースに「ありがとう」とチップを手渡す。
にこにこと笑って手を振るエースに此方も手を振り返しながら、アリスは店内の奥へと促されていった。



入り口よりは、静かな空間。
あくまで入り口よりは、だが、多少はマシだとアリスはコートを脱ぐ。
アリスが尋ねて来た男が来るまでの繋ぎとして他の誰かが接客してくれるのが普通なのだが、アリスはそれを全て断っていた。
エースやエリオット、その他の見知った知人なら構わないが、それ以外だと煩わしい。
そしてアリスの知人は皆一様に人気のある人間ばかりだ。
特に今日は週末。
多忙を極める知人がアリスの元に来られる時間があるわけもなく、アリスは一人でぼうっと店内を見渡す。
一応と出されたお酒にも、口を付けない。

ホストクラブ。
まさか自分がこんな場所に足しげく通う事になろうとは、姉が知ったら卒倒モノだ。
父親に知られてもまずい。勘当されても文句は言えない。
一度だけ――友人の付き合いで足を踏み入れてから、アリスは妙な男に目を付けられてしまった。
以後通うことを強要され、その費用を賄われているのだから人生何が起こるか分からない。
そしてそれを甘んじて受け入れている自分も大概で、自覚する度アリスは苦々しい思いをする。

(……何飲もうかな)

今日は甘いお酒がいい気分だ。
仕事明けはどうしても疲れる。
特に今日は週末で、明日も休み。
美味しいな、で満足するくらいが丁度良いと思う。



「アリス」

席に着いてから、数分か、数十分か。
どれほどの時間が過ぎたかは定かでないが、アリスの目当てであり、アリスをここに呼びつけている男は来た。
実に五日ぶり。
代わり映えのしないその黒髪と、端整な顔立ち、そして嫌になるほど似合っているスーツが、アリスの溜息を誘う。
感嘆の溜息だ。感心して褒め称える方の意ではない。
嘆き悲しむ方の溜息だ。誰に?自分自身に。

「待たせたな。すまない」
「……言うほど待ってないわ」

それに週末だもの。忙しいのは当然よ。

隣に座る男に、メニュー表を差し出して指さす。
待っている間に飲み物は決めていたのだ。

「……なんだ、そんな甘いものが飲みたいのか?」
「そういう気分なのよ。貴方は貴方で好きなものを飲めばいいわ」

どうせ貴方のお金なんだから。

喉元まで出掛かった言葉を、アリスは飲み込む。
そう、彼の――ブラッドのお金だ。
アリスが身につけているブランド品。
洋服も、アクセサリーも、バッグも、ヒールも、全てブラッドがアリスに買ってきたもの。
店に来るとき着てこいと、強要されたもの。
そしてこの場所で遊ぶお金すら、ブラッドが全て出している。
もちろんお店側は知らないし、これはブラッドとアリスだけの秘密だ。
そうまでしてアリスをこの場所に呼びたいかと意見したが、ブラッドは頑として譲らない。

『君と会う口実がなくなるだろう』

勝手に人んちの合鍵まで作ってる男がどの口で言うかと思ったが、本人は真剣だと言うのでアリスはそれ以上言及できない。

お店の一番人気。No.1。
そんな男が、どうしてここまでアリスに執着するのか、アリス自身にも分からなかった。

「――思ったよりダイヤが小さかったか?」
「え?」
「イヤリングの話だ」
「……そう?割と大きいと思うけど」

あんまり大きいの好きじゃないし、このくらいが丁度良いわ。

アリスの栗色を持ち上げて、ブラッドは「そうか?」と言う。
顔が近いわよと押し返しながら煽った酒は甘くって、ブラッドが口付けていた酒を勝手に一口含めばそれは苦い。
それほど酒に強くないアリスの回りでは、若い男が騒がしくはしゃいでいる。

コール?両手を叩く男達の持っている酒とその名称には聞き覚えがあるが、それがどれほどの金額なのかアリスは知らなかった。
ブラッドが勝手に頼んで勝手に払っているだけ。
それでもいつの間にかVIPなんて呼ばれているアリスがいるくらいだから、高いことには変わりないのだろう。

全く、恐ろしいほどの金の無駄遣い。
だがブラッドは、この場にアリスを呼ぶためにそれを止めない。

「……他の女の人の所に行かなくていいの?」
「……だるい」
「行ってきなさいよ。仕事でしょう?」

アリスがそう言うと、ブラッドは不機嫌そうな顔で酒を煽った。
ここでは紅茶が飲めないと、いつだったか不満を言っていたのを思い出す。

「……私が他の女と楽しそうにしていても、妬いてくれないのかな?お嬢さん」
「他の女の人と一緒にいて楽しいの?」
「…………」
「ちゃんと稼がないと、私来れなくなっちゃうわよ」

「チッ」と盛大に舌打ちしたブラッドは、無言で立ち上がってアリスに背を向けた。
両肘をテーブルについてそれを見送ったアリスだったが、ちらりと視界の左端に顔を向けると、まるで拝むように頭を下げるエリオットと顰めっ面をしたユリウスの姿が目に入った。
ブラッドが私にばかり構うから、何か苦情が入ったのだろう。
ブラッドを目当てに来ている女の人など山ほどいて、自分だってその内の一人に過ぎない。

行かないで

そう言えるほど自分は素直になれないし、それを聞いて貰う義理が発生するような関係でもない。
ただブラッドがアリスを、気まぐれに気に入っているだけ。
だから少し、他の女の人より優遇されているだけ。
それに私財を投げ打つのはどうかと思うが、ブラッドがそうしたいのなら止めはしない。
アリスも――拒否はしない。


「寂しくないのか?」

どさりと音を立てて、隣に座った知人の顔色は悪い。
「他の女なら、もっとやかましくなったり、不機嫌になったりするものだが…」と、ブラッドの歩いて行った方向を見て、彼は訝しげな顔をする。

「別に。むしろ今は、貴方の顔色の方が心配よ」

やめてよ?血吐くの。

「うるさいな」と拗ねるナイトメアに、ノンアルコールを差し出してから客の元へ去って行くグレイはさすがだ。
視線で『頼んだぞ』と言われた気がする。
ここ最近グレイとは顔を合わせても会話をする機会がないが、視線で意思疎通ができるようになっただけ一番親睦を深めているかもしれない。

「妬いたりしないのか?」
「仕事だもの。妬いてどうするの」
「ふーん……君は珍しい女だな、アリス」

それほど帽子屋に貢いでおいて、執着も束縛もしないとは……

(だって貢いでなんかないもの)

ナイトメアの言葉に、アリスは心の中でそう呟いて、「そういう女の一人や二人いるわよ」と返す。
目線だけはしっかり、他の女と会話するブラッドに向けて。
「やっぱり君はおかしな子だ」と、そう呟くナイトメアに、アリスは(そうでしょうね)と苦笑した。





□■□





「……寒い」
「分かったから少し離れて。鍵が開けられないわ」

冬の静けさと澄んだ空気。
真っ暗な深夜帯に帰宅したアリスは、背後から抱きついてくる男を押しのけながらドアノブに鍵を刺した。
時刻としては明け方に近いが、日の出まではまだまだ時間がある。
何だかんだと結局閉店まで居残らされたアリスは、押し寄せる睡魔と格闘しながらブラッドと部屋へと押し込んだ。

「もう!何で私がこんな時間まで……」
「仕方がないだろう。客が多かった」

あと、稼げと言ったのは君だ。

ふて腐れたようにそう言うブラッドに、アリスはまだ根に持ってるのかと呆れて溜息を吐く。
あれから一度もアリスの席に戻ってこなかったブラッドを、一人退屈して待っていた私の気持ちを察して欲しい。
ナイトメアが暫く粘ってくれていたが、時折向けられるブラッドの刺すような視線に耐えられなかったらしく、彼は数十分で立ち去った。
それからはもうずっと一人だ。
何人かが変わるがわる声をかけに来てくれたものの、決して居座ってはくれない。

『俺暇になっちゃったんだけど、帽子屋さんが怖いからごめんなー』と爽やかな笑顔だけ向けて立ち去ったエースの薄情さときたら。
一発殴ってやりたいほどだったが、アリスは溜息を吐いてちびちびと酒を煽り、気がつけば店の中はがらんがらん。
閉店かと思って立ち上がれば、ブラッドに腕を引かれてこの様だ。


「ちょ、ちょ、ブラッド!スーツのまま寝転がらないで!!」
「……ねむい」
「皺になるから!!」

高いんでしょう!?ねぇそれ高いんでしょう!!?

人のベッドでごろごろと転がるブラッド。
上着を脱がそうとアリスが彼の肩に手をかけると、ぐいっと引き寄せられてキスをされる。

「っ、ん」
「……甘いな」
「っ――ばか!!」

唇を離すと同時に、ぐいっと手の甲でそれを拭う。
「早く脱いでよ!!」と声を荒げると、「積極的だな」と返ってくるのだから話が噛み合わない。

「ブラッド!!!」
「いいだろう、スーツくらい」

だるい事を言うな。

余程眠いのか、枕に顔を埋め始めるブラッドの肩を無理やり引っ張る。
ブラッドの重い身体をどうにかこうにか動かしながら、もう皺だらけになってしまったスーツを懸命にはぎ取った。

(―――皺だらけになっちゃったじゃない)

高いスーツを握りしめながら、アリスは泣きそうになりながらそれをハンガーにかけた。
多少は裕福な家庭で育ったとはいえ、ブラッドの金銭感覚にアリスは付いていけない。
住む世界と価値観があまりに違い過ぎて、アリスはいつも口惜しい間隔を味わう。
どうしてそんな思いをしているのかって?
そんなのアリスにも分からない。でもとにかく口惜しいのだ。
すぐ隣にいるはずなのに、それが何より遠い距離に思えてアリスは口惜しい。
ブラッドに一等気に入られているね、特別だね、アリスとブラッドの共通の知人は口を揃えてそう言うが、それでも自分達の距離は遠すぎるとアリスは思っている。
ブラッドのために花束を買って、お店に来て、指名して、お酒を頼んで、自分の美貌と力と金で、ブラッドのために行動する女の人たちの方がよほど彼に近い。


「アリス」

クローゼットの前で立ち尽くしていたアリスの背後から、ブラッドが抱き着く。
そのまま耳元で名前を囁かれ、首筋に唇が触れ始めると、アリスは心の中で絶叫する。

嫌だ、と心が泣いていた。
それなのに抵抗しない、抵抗できない身体が、まるで自分の身体じゃない感覚がして、アリスはいつも泣きたくなる。

熱い口付けを受けるのも、身体の中心を暴かれるのも、耳を塞ぎたくなるような嬌声を上げて言い知れない快感を身に受けているのも自分なのに、アリスはそれを自分のことと思えない。
全てが終わるまで、アリスはひたすらに耐える。
ブラッドが満足するか、自身の意識が飛ぶのをただ待ち続けて、溢れた涙が生理的なものなのか理性的なものかも分からず、ただ男の端正な顔立ちを視界に入れては身体の疼きを覚えて――

眠いとか、だるいとか、彼はそう言う癖に必ずその日の内にアリスを抱く。
心の底では嫌だと思っているはずなのに、アリスは甲斐甲斐しく店に通ってはブラッドと話し、引き摺られるように帰ってきては抱かれる始末。


意味が分からない。


今の現状も、自分の心も。
嫌なのに分からなくて、この状況に甘んじている私の心を誰か整理して欲しい。


(それかどうか――――)


朝日が昇らないでくれたらと思う。
夜にしか会えない人。
夜にしか会うことを許されない人。
夜しか私を見てくれない人。
もういっそこのまま夜が続けば、自分と彼の距離は縮まるのだろうか。






「――またおいで」

そう言って、枕元に札束を投げ捨てていく男が大嫌いだった。

クローゼットの中にある、アリスが前回クリーニングに出しておいたスーツを着て立ち去って行くその男。
玄関を開けて出て行く様子が、身動きできないアリスの耳に響く。
ご丁寧に鍵までかける音がして、結局今回も勝手に作られた合鍵を奪い返せなかったと歯を食いしばった。

むくりと――アリスがベッドから身を起こした時には、既にそれから数十分が経過していた。
気だるい身体を叱咤しながら、枕元に置かれた札束を手に取って数を数える。
それは意味のない行為だ。
どうせ使い道は決まっているし、それ以外に使う選択肢をアリスは与えられていない。

ばさりと――それを床に投げ捨てて、アリスはベッドの上で膝を抱える。



大嫌いよ。



夜だけアリスを特別扱いする男。
店で出会った名前しか知らないその男。

意味のない行動と行為を繰り返して、そこから抜け出せない自分が一番嫌いだった。




泥濘の海に沈むことすら

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

ホストクラブQuinRose

2015.10.07