ぱちりと目が覚めたら、室内は真っ暗だった。
読んでいたはずの本は手元になく、自身の身体には薄手の毛布がかけられている。
読書をしている間に眠ってしまっていたのかと――夜目の利くブラッドが部屋をぐるりと見回せば、ベッドで静かな寝息を立てている家主の姿が目に入った。


「―――――」


何でもない光景だ。
つい最近、『まだ長居する気があるのなら貴方の部屋を作りましょう』と言った彼女は、毎夜せっせと仕事部屋を片付けている。
どうやらそこをブラッドの部屋に宛がおうとしているらしいが、当の本人はそれを無意味なことと感じていた。

自分がいつまでここにいるかなど分からない。
今のところ出て行く気は毛頭ないが、その考えが一ヶ月後、一週間後、もしかしたら明日には変わってしまうかもしれないと考えたら、アリスの行動は無意味なものに思える。
確かにソファは寝辛いし、床で寝た日には次の日がつらいほど。
だがそれが嫌になれば出て行けばいいと思っていたし、そこまで気遣われる必要もない。
これが今までの女達なら、これを買えあれを買えと色々文句を垂れてきたものだし、気の利かない女だとブラッドは切り捨ててきた。
だが、アリスに気遣われるのは何故だか無性に嫌だと思う。
彼女といると、自分がどれだけ子どもであるかを思い知らされて、自分にできないことなどないし、自分に屈しない女も言う事を聞かない女もいないと思っていたのに、その常識をとことん覆される。
自分で家事炊事洗濯をする女と関わるのは初めてだ。
そもそもこんなに金のない女と生活するのは初めてで、おまけにブラッドに何一つ見返りを求めない。
ブラッドに屈するどころか、やれ酒を片付けろ本を片付けろ学校に行けと頭を叩いてくるし、少し何か頼もうものなら「自分でやれ」と切り捨てられる。

史上最高に面倒くさい女。家主。

だがでもそんな女は珍しくて、関わっていると面白い。
だからブラッドは出て行かない。
面倒くさいけど、他の女の家よりこの場所は楽だから。

ブラッドは――アリスに対しての認識を、誕生日以降から少し変えた。
彼女は大人で自分は子ども。認めざるを得なくなった出来事。
それからというもの、アリスに気遣われるのが嫌になった。
何かにつけて子ども扱いされているのだと口惜しくなって、先日初めて包丁を握ったりして……あぁ本当に犬のようだ。ブラッドはアリスに躾けられている。

そこで――アリスはブラッドに部屋を作るという。
「ベッドはどんなのがいい?」だとか、「カーテンは変える?」とか、「本棚は必要よね」とか、一人ですらすらと考えて決定していく彼女の行動力ときたら。
あれやこれやととんとん拍子に話は進み、次の休みにはアリスと外出する約束まで取り付けられた。
でもここで「面倒だから出て行く」と言えない自分は、この状況をそこまで悪く感じていないのだからそれが殊更に口惜しい。

ブラッドはふらりと立ち上がって、眠っているアリスの隣に立つ。
ベッドの縁に腰を下ろせばぎしりとスプリングが軋んだが、彼女が目を覚ます気配はない。


アリスはブラッドに見返りを求めない。
だがアリスがブラッドにかけている労力は中々のもの。
まるで保護者だ。親より親らしいその態度に、ブラッドは眉を顰める。
姉のようだと―――思う自分が許せない。
そんなもの望んでいないのに、アリスの態度はいつもそう。
ほら、やっぱり大人と子どもだ。自分の方が下なのだと、こんな形で思い知らされる。




「――……ブラッド?」

ふいに声が聞こえて視線を落とせば、目が覚めたのか、若干ぼけた様子でアリスがブラッドを見上げていた。
「……ねむれないの?」と問うてくる彼女に、ブラッドは思わず「あぁ」と返す。

眠れない。
床は堅いしソファは狭くて、アリスの態度が笑顔がちらついて、夢を見れば姉が出る。
アリスのせいで、ブラッドは姉を思い出す頻度が増えてしまった。
そんなのは嫌だと思うのに、姉との時間は愛しすぎて離れるのが酷く惜しい。
思い出したくない。覚えていたい。
姉の夢など見たくないのに、出てきてくれないのは寂しくて、ブラッドはそんな弱い自分が大嫌いだった。

「―――――」

すっと伸びてきたアリスの手が、ブラッドの髪を撫でる。
半分以上寝ぼけている彼女のその行動は、多分無意識の行動だろう。


「甘えてもいいのよ?」

貴方まだ、子どもなんだから。


か細い声で、アリスは言う。
そういう自分が嫌だから、ブラッドはこうして生きているのに。


「甘えなさい」

子どもの内に甘え方を覚えないと、私みたいな人間になっちゃうわよ。

「可愛くない子になるわ」

全部諦めて、どうでもよくなって、何をしてるのか、何のために生きてるのか分からなくなるの。
でもそれさえもどうでもいいの。
全部全部投げやりになって、泣きたいのに泣けなくて、可愛くないから、ずっと独りぼっちよ。

「大人になったら、もう甘えられないの………だから、子どもの内に甘えなさい」


うつらうつらと船を漕ぎながら言うアリスに、ブラッドは思わずその首筋に抱きつき覆い被さった。
それでもアリスはブラッドの頭を撫でることを止めない。
彼女は明日起きたら、この出来事を覚えているだろうか。
覚えていない気がする。

忘れてくれていい。
忘れていて欲しい。

ブラッドは弱い自分を認められない。
ブラッドにはどうしてもやり遂げたいことがある。
姉のために。復讐を――――

独りなど覚悟の上。
それを寂しいと思ったことはない。
思うことは許されない。
姉は独りで死んだのだ。
だからブラッドもそう在るべきだ。
それを―――――



(姉貴が望まないと知っているのに―――?)



ブラッドの記憶の中にある姉は、気が強くて、でも穏やかで、優しい。
まだ少女だったのに、誰よりも賢く大人だった。
姉のために、早く子どもから抜け出したくて、彼女を守れる大人になりたかった。
いつか、いつか、いつか―――――

もうそのいつか≠ネんて来ないのに、ブラッドはあの日の約束を今でも覚えている。


『いつか姉貴に、とびきりの薔薇園をあげる』


大きくなったら、偉くなったら。
そう約束したのに、大きくなる前に、偉くなる前に、彼女は世界からいなくなってしまった。
その日からブラッドは―――どうしようもないほど独りなのだ。




布団の中に潜り込み、アリスの身体を抱きしめてブラッドは目を閉じた。

自分は子どもだ。

あの日から、きっとブラッドの時間は止まってしまっている。
進みたくないと思う自分もいた。だが進まなくてはならないことも知っている。
嫌が応にも――進んでしまうことも知っている。
だから自分は―――



アリスの体温が暖かい。
生きている温度。生ある者の証。
進まなくてはならないのだから――ブラッドはいつまでも子どもでいるわけにはいかない。
でも今は子どもだから―――

姉と約束した大人になれるように、今だけ他人に甘えることを―――――自分に許した<uラッドは立派だった。





□■□




カーテンの隙間から差し込む光が眩しくて、ふっと意識を浮上させると共に違和感がアリスを襲う。
なんだろう?と思って身体を起こそうとしたが身動きが取れず、視線を下げると胸元に顔を埋めて爆睡している黒犬の姿が目に入った。
アリスが寝る前にはソファで眠っていたはずなのに、人の身体にがっちりしがみついて寝ているその黒犬。
どうしたことかと慌てて身体を起こそうとしたが、よく見ると、その頬には涙を流したような跡があった。


――見なかったことにしよう……


即座にアリスはそう思った。
仕事を休んで二度寝することが決定し、アリスはもう一度身体をベッドに沈めて目を閉じる。
腕の置き場所に困ったが、大人しく黒犬の頭を抱えることにした。
きめ細かい、その綺麗な夜色を撫でながらほうっと息を吐く。
どんな事情があるのかは知らないが、結局彼はまだ17歳の少年なのだ。

周囲に甘えられる存在がいないのは損だと思う。
アリスがそうだった。
誰にも甘えられず、甘えるという行為を知らないまま大人になった。
そうしたらこの世界はとても生きにくくて、気がつけばアリスは独りぼっち。

それが決して良い生き方ではないことを、アリスは身をもって知っていた。

結局犬が目を覚ましたのは昼に差し掛かろうとしていた頃で、何も言わずベッドを降りたその後ろ姿を見ながら、アリスも追及することなくベッドを降りる。
「お昼何食べようか」と尋ねると、彼は珍しく「外食がいい」と言った。




一日が過ぎるのは、休日の日だと特に早い。
昼食を外で取り、真っ直ぐ家に帰ってきて読書や掃除をして、夕食を食べお風呂に入れば寝る時間だ。
目覚まし時計をセットしながら、アリスは自分のベッドに潜り込む。
と同時に、ずしりとした重みを感じて顔を上げれば、今日一日どことなく不機嫌だった黒犬がアリスにのし掛かってきた。

「!?」

何!!!?
突然のことに、目を白黒させてアリスはブラッドを凝視する。
悲鳴を上げて張り倒せばいいのだろうかと思案している最中に布団を捲られて、アリスは今度こそ悲鳴を上げる。

「きゃああ!」

何!?何してんのこの馬鹿!!!

すぱこーんと、小気味のいい音を立てて犬の頭を叩く。
最近叩かれ慣れてきた犬は、頭をさすりながらも無言でベッドに入り込み、ばさりとそれを被ってしまった。

「……ねむい」
「私も眠いわよ!っていうか何!?何なの!!?」

お互い節度を持って暮らさなきゃ追い出すって言ったでしょう!?

そう声を張り上げたアリスに、ブラッドはもぞりと布団から顔を出して「女には苦労していないからそういう心配はいらないぞ?」告げた。


「………………」

ばしん!!

「っ!!」


渾身の力を込めてその後頭部を叩く。
一瞬くぐもった声を上げたブラッドを冷たい目で見下ろしながら、「そういうことじゃないわよ、この馬鹿犬」とアリスはその身体を押し返す。

「出て、行っ、て!」
「っ……嫌だ、私はここで寝る」

君が出て行けばいい。
私はもうソファは嫌なんだ。

そう言って布団の中で抵抗を見せるブラッドに、「だから今部屋を作ってあげてるじゃない!もう少しの辛抱でしょ!?」と言うも、彼は頑としてそこから動かない。

「っ、別にいいだろう。昨日も一緒に寝た」
「あんたが勝手に入ってきてただけじゃない。許可した覚えはないわ」
「じゃあ許可してくれ。私はここで寝たい」
「狭いじゃないの!」
「多少くっついて寝るくらい別にいいだろう」

セックスさせろと言ってるわけじゃ―――

ないんだから、と続けようとしたブラッドの頭を再度殴打する。
何てこと言うんだこのクソガキ――間違った、クソ犬。

「不埒な真似でもしようものなら速攻追い出すわよ!?」
「〜〜〜〜っ、だからしないと言っている」

女には苦労してないと何度―――

言っったら分かるんだ、と続けようとしたブラッドの頭を以下略。

鼻息荒く背中を向けて窓際へと寄ったアリスは、ばさりと布団を被って就寝体勢へと移行した。
その掛け布団を引っ張って中に潜り込んでくる犬をスルーしながら電気を消す。


「……今までソファだったじゃない」

ぽつりと呟くと、犬は「嫌になったんだ」と告げた。
その距離が近くて、アリスは妙なことになったと眉を顰める。

「別にいいじゃないか。私は犬なんだろう?」
「……………」
「……それとも本当は抱かれたいとかそういう――」
「永眠させるわよ、この駄犬」

布団の中で、蹴りを入れながらアリスは自分のペットを詰る。
「…乱暴な飼い主だ」とぼやくブラッドを背中に、アリスは盛大な溜息を吐いた。



同じ傷、同じ歪み、別の身体

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

甘えているんです。甘えたいんです。だって独りは寂しいから。

2015.09.06