あったかい。

ふわふわと、身体が宙に浮いている気がする。
自身の身体を滑るように撫でる何かが気持ち良くて、その穏やかな温もりが何か確かめようと、アリスはふっと意識を持ち上げた。


「―――起きたのか?」
「…………おきた」

流すから、目を閉じていろ。

ブラッドの言葉に、アリスは素直に従い目を閉じた。
頭からお湯をかけられながら髪を撫でられる感覚は気持ち良く、身体はどうやら洗った後のようで、腰が重い以外は不快な所がどこにもない。

「……いまなんじ?」
「2時半だ。明日は仕事を休め」
「もともと休みだから……へいき」

ぼうっとしながら、心地よい温度に身を委ねる。
いまいち状況が飲み込めていないが、とりあえずお風呂に入っていることは理解できた。
あとブラッドの機嫌があまり宜しくないことも分かる。
何とかしろ、とか、仕事を休め、とか……妙に命令口調な時は、機嫌が悪い。

ブラッドはいつも、まるで自分が年上のように喋るのだ。
彼と会話している時、アリスはいつも自分が子どもになってしまったように感じる。
尤も喋り方がどうであれ、言うこと成すこと子ども全開なのはこの男の方だが……


「ねぇブラッド」
「…………」

「一週間、ご飯作らなくてごめんね」

ペットに餌をやらないなんて、飼い主として失格だ。
噛みつかれても文句は言えない。
ブラッドに抱えられ、ぽちゃんと湯船に浸かったアリスはゆっくりと息を吐いた。

あたたかい。
おちつく。

ふわふわと身体が宙に浮いているような気分は消えなくて、眼前もゆらゆら揺れてよく見えない。


「別に――」
「……うん?」
「本当に性欲が発散できなかったから君を無理に犯したわけじゃないぞ?」
「…分かってるわよ。いらないわ、そのフォロー」

べしりとブラッドの肩を叩く。
本気でそんな理由で犯されたなんて思ってない。
ブラッドはこれでいて結構淡泊な方なのだ。
ヤってもヤらなくても平気というか、基本この男は、自分の快楽のためにセックスをするタイプではない。
人の反応を見て楽しむタイプの鬼畜だ。多分一番性質が悪い。

「外食した?自分で作った?」
「二、三日は作ったな。だが途中でだるくなったから、買いに出た」
「レシートある?お金払うわ」
「別に構わない。どうしてもというのなら、クリーニングに出した制服の代金を払ってくれ」
「……そっちの方が高いじゃないの」

別にいいけど。

こつん、と――ブラッドの胸元に額をつける。
ぽかぽかして気持ちが良い。
ブラッドの腕の中というのも安心で、アリスは久しぶりに心が軽くなるのを感じた。
やっぱり、ペットというのは悪くない。


「――まだ機嫌直らない?」
「今までの会話のどこに――機嫌を直す要素があったのかな?」
「謝ったし、クリーニング代を払うことになった」
「君が、×××を×××××して×××××な××××な格好で×××××に××××××××して×××××××××××してくれると言うなら機嫌を直してもいい」
「――暗に死ねと言っているの?」

羞恥心で死ぬわそんなの。
真顔で恐ろしいことを言うブラッドに、アリスの顔は青い。

「正直、殺してやりたい気分だ」
「………それほどひもじい思いをさせていたとは思わなかったわ――「違う。別に食事がなかったから私は怒っているわけでは」――え、違った?」
「………………」

君は、一体私をなんだと思っているんだ?

ブラッドがそう尋ねると、アリスは不思議そうな顔で「犬でしょう?」と答える。
ほら見ろ。アリスのこういう所がブラッドは嫌いだ。
ブラッドはアリスを女として意識しているのに、彼女にとってブラッドは犬。ペット。
それ以下でもそれ以上でもない。
多少余所の女に嫉妬することがあっても、結局それはペットが自分以外に懐くのは面白くないという程度の延長線なのだ。
ブラッドはそれがつくづく気に入らない。

「………一週間も無断外泊をして、私が心配しなかったとでも思っているのか?」
「……宿とお金がなくなるから?」
「どうしてそうなる。根暗なのもいい加減にしろ」

ブラッドの言葉に、アリスは俯き「だって…」と口ごもる。

「心配した。探しもした」
「……ごめんなさい」
「君自身を、心配したんだ」
「…だったら帰宅早々強姦まがいのことしないで欲しい……」
「鬱憤が溜まっていたものでな。謝らないぞ?」
「いやそこは謝りなさいよ」

君が悪い――――とブラッドは言う。
瞳の奥は相変わらず暗くて、不機嫌、苛立っている。

ぼうっとした視界で彼の頬に手を伸ばし、撫でると、触れるだけのキスが落ちてきてアリスは軽く目を見開いた。


「――心配した」


抱えられた身体をぎゅっと抱きしめられて、アリスの視界がぐにゃりと歪む。
ブラッドの言葉が胸に突き刺さって、アリスは上手く息ができない。

こんなのはおかしい。

アリスはブラッドの胸を、離れるようにぐっと押す。
だがびくともしないブラッドの身体は、その逞しい腕でアリスを抱きしめるばかりで言う事を聞かない。
強制的に上を向かされ、何度も落とされる口付けが異様なほど気持ちいい。
情事中以外にキスをされるのは初めてだった。
ブラッドがアリスにするキスと言えば、セックスの開始の合図が、その合間か、終わった後名残惜しそうにしてくれるキスだけで、アリスには今されているキスの意味が分からない。
でもそれを気持ちが良いと、嫌じゃないと、嬉しいと思うのは絶対何かがおかしいような気がした。

ぼろりと思わず零れた涙が、何に対する涙なのか分からない。
アリスはブラッドを拾って弱くなった。
ブラッドが傍にいるのが当たり前になってしまって、いないと寂しいと思う。認める。認めざるを得ない。
独りが当たり前だったアリスは、もう独りでは生きていけないほどブラッドに依存している。

――だがそれを、口に出すことも、態度に出すことも許されない。
嫉妬、独占欲、束縛、執着、依存。
アリスはアリスの気持ちを認めよう。
だがそれを許すことはできない。
許してくれる人はもうこの世にいないのだ。
アリスの後悔と罪の塊が、アリスに罰を与え続けている。

「―――――」

姉さん。

ブラッドに繰り返されるキスの合間に、アリスは確かにそう呟いた。
それが彼の耳に届いたのか届いていないのか、それは定かではない。

ブラッドは犬だ。
何度繰り返したか分からないその言葉。
なのにアリスは彼の首筋に縋り付いて、深く深く口付けを求める。
ぱしゃんと弾けた水の音が、やけに大きく耳に響いて――アリスはもう、戻れなかった。



「ふっ、ん……いっしゅ、」
「……ん?」
「…んぁ……一週間前、っ一生遊んで暮らせるだけのお金を貰ったわ」

「……………」

訝しげな瞳で、ブラッドがアリスを見つめる。
唇と唇が今にも触れあいそうな距離。

「ブラッドを引き取りたいって。そのお金で、別の男の人を囲えばいいって」
「……なんだと」
「だけど今日突き返してやったのよ。私はペットを飼ってるだけで、男を囲ってる認識なんかないし、大体そんなの、ブラッドが決めることだから私にお金を渡されても困るわ」

アリスを見つめるブラッドの眉間に皺が寄る。
それをちらりと上目遣いで見上げたアリスは、その不機嫌全開の顔に思わずすっと視線を逸らしてしまった。
ちょっと怖くて直視できない。
17歳の男の子の目つきじゃない。

「そ、その人、ブラッドと半年くらい一緒に暮らしたって。ブラッドに……その、色々教えたって――えと、そういうことを………ていうか嘘吐き!女の人の所にいたの、最長二週間だって言ってたじゃない!」

嘘吐き嘘吐き!
ブラッドの馬鹿馬鹿馬鹿!!

ぎゅっと目を瞑ってブラッドの胸をどんどんと殴る。
止まっていた涙がまたじわりと浮かんで、自分は一体何をしているんだとアリスは自己嫌悪に襲われる。
嘘吐きなんて、罵れる立場じゃないのに。
ブラッドのやることを、否定できる立場じゃないのに。
でもそんなアリスを許してくれるブラッドが悪いのだ。
年下のくせに、アリスを甘やかすブラッドが悪い。
ふわふわしてて、甘ったるくて、胸の辺りがじわじわと熱を帯びてくる。
アリスにそんな思いをさせるブラッドが悪い。

「……………」
「何とか!……っ言いなさいよ」

何を――言えというのだろう。
自分で言っておきながら、アリスにもよく分からない。
どんな返事を求めているのか、アリス自身検討もつかない。
そんなのことをブラッドに求めている辺り、自分は何て愚かで馬鹿な人間なのだろうと気持ちがどんどん沈んでいく。

「……………」
「……………」

「……………」
「……取りあえず、嘘は吐いていない。確かにその女とは半年ほど関係があったが、家を出る前のことだ」

だから、カウントしていなかった。

まるで独り言のようにそう言ったブラッドは、ふっと宙を見上げた後ざばりと湯船から立ち上がった。
もちろん、彼に抱えられていたアリスの身体も自動的に宙に浮く。

「きゃあ!!」
「続きはベッドだな。布団の中でじっくり話し合おう」

すたすたと浴槽を横切るブラッドの首に、落ちないようアリスは懸命に縋り付く。
身体を拭かれ、寝着を着せられ、ドライヤーで長い髪を乾かされながら、アリスは今自分が置かれている状況に首を傾げた。

「ねぇ、ブラッド?」
「なんだ?」
「おかしくない?」
「……何がだ?」

おかしな、状況だ。

「……いつも通り過ぎて、」
「それのどこがおかしいんだ」
「おかしいわよ。だって私、一週間凄い一杯―――」

考えた。
悩んだ。
考えて、想像して、寂しくなって、怒って、思い出して、許せなくて、泣いたり、笑ったり、また考えて、悩んで、八つ当たりして、ぼうっとして、考えて………
結論を出して、帰ってきたのだ。
そしたら強姦同然の行為をされて、ペットは超不機嫌で、中々の修羅場だと思うのだ。
そうだ、修羅場だ。今アリスは修羅場の真っ直中にいる。多分。

「………おかしくない?」
「おかしいのは君の頭だ。その女と会った日に真っ直ぐうちに帰ってきていれば、こんな面倒なことにならずに済んだ」

かちりとドライヤーの電源を切って、ブラッドはブラシでアリスの髪を梳く。
床に座っているアリスと、背後でソファに腰掛けているブラッド。
机の上に置かれたそれを、今度はアリスが手に取って電源を入れた。
くるりと振り返って立ち上がり、ブラッドの足にまたがれば彼の頭は丁度アリスの胸の位置にくる。
ブオオオという風の音を耳に入れながら、アリスは「やっぱりおかしいわ」とブラッドの頭を乾かし始めた。
いつも通り過ぎて、いっそもう気味が悪い。

自分の胸にこてんと寄りかかってくる頭を、アリスはわしゃわしゃと掻き乱す。
男のくせにやたらと綺麗な黒髪だと、若干の嫉妬を覚えるのもいつものこと。
どことなくうとうととしているブラッドの姿は年相応で、アリスは一瞬今日が何月何日なのか分からなくなった。

「ん。乾いた」
「……寝る」
「待って待って、ここソファ!」

ブラッドの足にまたがったままのアリスの背に手を回し、どさりとソファに倒れた彼の頭をぺしりと叩く。
仰向けになっている彼の上にのし掛かっている状態となってしまっているアリスは、必死に身を捩ってその腕から脱出する。

「ブラッド、起きて。ベッドまであと三歩!」
「……私は眠いんだ。一週間抱き枕もなくて――」
「誰が抱き枕よ。ほらブラッド、しっかりして。私に腕枕してくれないの?」
「…………する」

のそりと起き上がるブラッドの手を引いてベッドへと引き寄せる。
ほんとに三歩だけ歩いたブラッドは、どさりとベッドに倒れ込みもぞもぞと布団を被り始めた。
アリスも部屋のリモコンを手に持ってそれに続く。

「……眩しい」
「はいはい、今消すから」

ぱちりと部屋の電気を消せば、アリスの背後からブラッドの腕が伸びてくる。
ぐいっと引き寄せられ、布団の中で身体を反転すれば、ブラッドと向き合う形になったアリスが再度抗議の声をあげた。

「ねぇ、これやだ」
「…………」

アリスの声に、ブラッドは無言で彼女を抱きしめ「よいしょ」と言わんばかりに身体を捻る。
どさりとした衝撃がアリスの身体を襲ったが、彼女はよしよしと満足気に笑った。
アリスの定位置はブラッドの左側。窓とブラッドに挟まれる形のその場所が、一番落ち着く。

「ブラッド、寝ちゃうの?」
「……あれで抱かれ足りないとは君も中々――」
「そっちじゃないわよ馬鹿」

ブラッドの腕に頭を乗せ、その胸元に擦り寄る形でアリスは悪態を吐く。
「さっきの続きは?」と尋ねるアリスに、ブラッドは「あぁ」とたった今思い出したように目を開いた。

「確か、どっかのブランド会社の女社長だったか、家を出る前に社交界の場で会ったんだが……」
「……………」
「えらく気に入られてな?まぁ多分向こうもそういう性癖なんだろう。若い男を食うのが趣味という」
「……恐ろしい趣味ね」
「金持ちや貴族には、意外と多いものだぞ?まぁとにかく気に入られたんだ。私も経験がなかったし?女も好みと言えば好みだったからほいほい付いていった」
「……最低」
「健全だと言ってくれ。年頃の男子でそういうことに興味がなかったらそれこそ病気だ」

私も見ての通り身体の成熟は早かったしな。
家に連れ込まれてその日のうちに関係を持った。
と言っても一回二回で全部が理解できるわけではないいし、暫く世話になったよ。
家を出る前準備にもいいと思った。
金ももらえるし、男としての知識と技量も学ぶことができる。
家を出て自分で家を借りたりするのも金がかかるし、何より家事が面倒だ。私は面倒が嫌いだからな。
だがら、家を出たらそういう生活をすると決めていたのは前からで、その女との半年間はその予行演習だったというわけだ。

「それ以上でもそれ以下でもない。思い出もなければ思い入れもないし、私が食い物にしてきた女達とそう大差ないよ」

すらすらーっと、何でも無いことのように語るブラッドに、アリスはその胸板に額をくっつけたまま顔を歪める。
相変わらず最低な男だと認識すると同時に、彼女がブラッドの特別≠ナはないという現状に安堵した。
そして安堵した自分を醜いとも思う。
アリスは、自分がいつからこんな人間になってしまったのか理解できなかった。

「何か質問はあるかな?お嬢さん」
「……私の方が年上よ」
「一人で落ち込んで一週間も家出する奴など、お嬢さんで十分だろう」
「落ち込んでないわ!驚いただけよ!!」
「虐められて、劣等感を感じたんだろう?彼女と自分を比べて――容姿、性格、財力……自己嫌悪は君の得意技だ」
「…っ」
「馬鹿馬鹿しい。少なくとも性格は、君の方がまだ可愛気がある。趣味も悪くない。私も本が好きだ」
「……でも、好みだったんでしょう?」
「そうだな、容姿は好みだった。性格も特別悪くなかったし、金もあった」
「じゃあ―――――」
「だが半年で飽きる程度だ。いや、飽きたのは三ヶ月くらいだったか……金稼ぎのために半年居座ったが、あれも面倒だったな」

君と私がどれだけ一緒にいるか、知っているか?アリス。

ブラッドの言葉に、アリスは「一年三ヶ月と十五日よ」と答える。
「……中々細かいな」というブラッドの声をスルーして、アリスは「引き取りたいんですって」と投げやりに言う。

「あの女が私をか?ごめんだな」
「……なんでよ」
「君こそ。私を追い出したいのか?」
「…………」
「あれの美点など金があるくらいだろう。別に今の生活に不満があるわけでもないし、金だけで釣られるのはごめんだな」
「……好きな物、自由に買ってもらえるわ」
「子どもか、私は。今も割と自由にしている」

さらりと頭を撫でられて、子どもなのは私の方だと思った。
ゆるゆると動くブラッドの手が気持ち良くて、徐々に瞼が落ちていく。

「……明日の夕方、その人に会いに行くからね」
「……は?」
「ブラッドを連れて行くって約束したの。引き取りたいなら直接交渉してくれって、」
「それはまた面倒な……」

大げさなほど溜息を吐きながら、ブラッドは「もう寝なさい」とアリスの後頭部にキスを落とした。
その前から彼女の瞼は完全に落ちている。
意識も―――そろそろ飛ぶだろう。


「出て行くつもりなんて毛頭ないぞ?一週間君がいなかっただけでも、割と寂しい」


ブラッドの言葉は、もう既に寝息を立てているアリスには聞こえていない。





□■□





「年を食った女より、若い方がいい」
「……最低だわブラッド」

「……訂正する。多少技巧のある女より、自分が仕込んだ女の方がいい」
「ほんっっと最低だわ」

背後からアリスの頭に顎を乗せ、下腹のあたりで両手を組む男に心の底から「最低よ」と繰り返す。
対峙している女性はその端整な顔をきつく歪めており、正直アリスは冷や汗をかいている。

「貴女の美点など金があるくらいだろう。まぁ、何も知らなかった私に色々と手ほどきしてくれたことについては感謝してやらんでもないが……」
「――私より、本当にそんな子がいいの?」
「当たり前だろう。私が仕込んだ私だけの女だ――「違う、飼い主」――この、妙に強情な所も可愛いし?趣味も合えば紅茶の味も分かる」

あと、料理が旨い。

ブラッドの言葉に、アリスは無表情で「それはどうも」と答える。
できれば二人で話して欲しい。私を間に挟まないで欲しい。
女のきつい視線を一身に浴びながら、アリスは無表情を貫く。

「貴女が彼女に勝てることはなんだ?」

さっきも言ったとおり彼女は貴女より若いし、情事についての技巧はよく存じているが、そんなものに魅力は大して感じない。

「容姿も、美人は見てれば飽きるし、例え醜悪だろうと見ていれば慣れる」
「……誰が醜悪よ誰が」
「物の例えだ。いちいち突っかかるな」

君は可愛いよ、アリス。

ちゅっと後頭部に口付けられてアリスは「やめなさい」とその足を踏んづけた。
「っ、そういうのは、私の趣味じゃない…」というブラッドをスルーして、眉間に皺を寄せる女性に向き直り、アリスは頭を下げる。

「そういうことなので、うちで預かります」

女の視線は冷たい。
だがふと違和感を抱いたのは、その冷たい視線が自分に向けられているのかブラッドに向けられているのか、はたまたその両方かよく分からないことだ。

「……………」

彼女は何も言わない。
ただ眉間に皺を寄せて、大げさなほど溜息を吐いて首を振る。
アリスには、彼女の考えていることがよく分からない。

「じゃあ、これで」

早く帰りたいだるいと騒ぎ立てる犬の頭を叩きながら、アリスは女性に背中を向けて歩き出した。
話すことなど何もないし、これ以上一緒にいても、ブラッドが彼女のプライドをただただへし折り続けるだけになるだろう。
それはそれで不憫だ。




「――――ねぇ」

ふいに、呼び止められてアリスは振り向いた。
先ほどまで顔を歪めていた彼女だったが、今は溜息交じりに苦笑して、右手に持っている名刺をひらひらと振る。


「今度、一緒にお茶でも飲みましょうね」


ひらひらと振られている名刺は、アリスが彼女に渡したものだ。
目を見開いたアリスの返事を待たず、くるりと背を向けて歩き出した彼女の後ろ姿は、やっぱり同性であっても惚れ惚れする。







「……私、あんたがあの人のこと気に入ってたの、少し分かるわ」
「潔い女だろう?後腐れが無くて楽だ」

可愛気があるとは言いがたいがな。

欠伸混じりに家路へと歩き出すブラッドを追いかけながら、アリスは「憧れるわ」と言った。



(いつかブラッドが家を出て行く時、あんな風に見送ることができるかしら)



できるかしら、ではない。
できないと駄目だ。

いつまでもブラッドと一緒にいることはできない。

彼の過去を何一つ知らなくても、アリスはそれだけ知っている。



望んで墜ちる不実の月

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

強がるくせに甘えて、甘える癖に目を逸らすから、修羅場が修羅場にならない二人。

2015.09.05