朝になっても、アリスは帰ってこなかった。
濡れた身体で玄関にもたれ掛かり、ブラッドは苛立ちを抑えきれず壁を殴る。
最初は事件に巻き込まれたり、連れ去られたり襲われたという可能性を考えたが、ブラッドが携わっている裏の仕事での情報網を駆使した限り、どうやらそれはない。
ということは、アリスは自分の意思で家に帰ってこなかったのだ。
立派な無断外泊。
男か。男でもできたのか。
自分という人間……いや彼女の中では犬らしいが、自分という存在がありながら男ができたというのだろうか。

「――――――」

考えて――ブラッドの不機嫌は最高潮に達した。
壁を殴るだけじゃ飽き足らず、その場にあった傘立てを全力で蹴り飛ばす。
大きな音を立てて転がったそれに見向きもせず、ブラッドは荒い足音を立ててリビングへと入っていった。

アリスに拾われ、アリスと過ごした家。
随分と自分の私物が増えてしまったここには、一年以上住んでいる。
二度目の誕生日さえ間近に迫っているほどで、アリスに拾われた時16だった自分は、もう18になろうとしているのだ。

ブラッドには叶えたい未来がある。
夢というほど希望に満ちているわけでも、未来というほど明るいわけでもないが、どうしてもやり遂げたいことがあった。

姉の復讐。

姉を殺した連中と、姉を見殺しにした両親に悲惨な末路を与えてやりたい。
あの冬の日、姉がいなくなった瞬間からブラッドはそれだけを切望して生きてきた。
ブラッドがやりたいことは、ただそれだけ。

名門と言われる学校に、入学が決まったと同時に家を出た。
寮に入るという建前を両親は疑いもせず、そもそもその前からブラッドは大して家に帰らなかったのに、彼らはそれを気にもしなかった。
今の学校に入る前、親に連れられて出た夜会の場で会った女の家に約半年住んだか。
家を出る前の前準備として、教わり、学び、利用するだけさせてもらった女。
悪くない女だったし、むしろブラッドの好みとしてはどんぴしゃに近かった。
金もあれば顔も良かったし、身体の相性も悪くなく、性格も――あの傲慢で高飛車なプライドをへし折ってやるのは楽しかった。
だがそれでも、それはブラッドにとって遊びと暇つぶし、そして次へと進むための踏み台にしかならない。
好みは好みだが、そんな女は履いて捨てるほどいるとブラッドは知っている。


シャワーを浴びて、学校に行く気にもならないブラッドは、そのままベッドへと転がり目を閉じた。
一晩中街を走り回った疲労は深く、昨夜アリスが男の所にいたのではないかと考えると胸くそ悪い。
これで目が覚めて、それでもアリスがいなかったらどうしてやろう。


――――……殺すしかないような気がして、ブラッドは暫く眠れなかった。





□■□





冷めた紅茶に、今度はアップルパイ。
アリスはアップルパイを作るのが好きだ。
自分の好きなおやつだし、甘さを調節すればブラッドも食べてくれる。
果物も、リンゴとかイチゴとかピーチとか、あぁいう赤い果物が好き。
美味しいし、見ているだけでも可愛らしくて、そういう時だけアリスは自分がオンナノコ≠ノなったような気がする。性別上の話ではなく、精神上の話だ。


「とりあえずこれ、お返ししますね」
「……………」

大通りに面している人気のカフェテリア。
ワッフルの美味しいカフェで、紅茶の味も悪くない。
一緒に暮らしている男が男なものだから、アリスの紅茶に対する舌は随分と肥えてしまった。

あの時と同じ時間、同じ天候、同じ席で、アリスはブルーベリーのケーキではなく、好物のアップルパイを目の前に、机の上へと小切手を差し出した。

「お金はいりません。そんなつもりで行き倒れていたあの馬鹿犬を拾ったわけじゃないし、うちに居座るのも出て行くのも、あの犬の自由ですから」
「犬、ね……」
「犬です。実際は男子学生だし、関係もその…色々面倒なことになってますけど、前提は犬だと思ってます。だから飼い始めたんですよ。犬だと思っているから、飼っていられた」

未成年の男子学生を拾って養うとか囲うとか、私の常識が許せません。

アリスは、ブラッドを犬だと思っていたからこそ飼っていられた。
他の女性の目には、彼は美青年としか映らない。
実態はそうだし、もうすぐ18歳になる名門校に通う男子学生だ。お酒と煙草を愛飲する不良少年。
あと読書が好きでおまけに賢い、そしてとんでもなく紅茶フリーク。もちろんあくまで実態は、の話だ。

だが、アリスの認識では違う。

アリスの認識では、彼はどこまでいっても犬だった。
目つきの悪い、我が儘で横暴な躾のなっていない馬鹿犬。
実態がどうであろうと。
一見爛れた関係であろうと。
アリスにとってブラッドはどこまでいっても拾った犬。
……言っておくが、獣姦に興味があるとか興奮しているとかそんな話ではない。そんな話は断じてない。
大丈夫だ。セックスしている時に関わらずアリスはちゃんとブラッドが人間に見えている。
そういう話ではない。
そうじゃない、そうじゃないけど――とにかく犬なのだ。
繰り返して言うが犬。ペット。
そう思っていられるからこそ彼を養えるという話であって、犬と思うことで自分の常識とバランスを取っている。
アリスの精神衛生上の話だ。


「犬は――ペットで家族です。お金で買う買わないの話ではありません」

ペットは家族の一員。
これもアリスの常識だ。

「だから、ブラッドを連れて行きたいなら本人と交渉してください。うちを出て行く出て行かないは、あの子が決めることであって、私が決めることじゃない」
「……いいの?交渉しちゃっても」

はんっと鼻で笑う女に、アリスもにっこり微笑んで「えぇ」と返す。
ブラッドに直接言えば、きっと自分の所に来ると彼女は思っているのだろう。
正直アリスも思っている。
ブラッドはアリスの所より、彼女の所に居た方が幸せだ。
でもそれを選択し決定する権限はアリスにない。
あくまでブラッド本人が選ぶことであって、彼を除いて余所でこうして話し合うことではないと思うのだ。


「明日、同じ時間にブラッドを連れてきます。そこでお話ください」
「分かったわ。貴女がそれでいいと思うなら、私も手間が省けるしね」

惚れ惚れするような笑みを浮かべて、女性は席を立つ。
彼女が店を出て行くのを尻目に、アリスは冷めた紅茶を飲んで、アップルパイを完食した。

ペットは家族。
その家族を一週間&置したアリスには、どんな罰が待っているのだろう。
もしかしたらもう既にいなくなっているかもしれない……あぁそうだその可能性を考えていなかった。
でもあの犬は以外と根に持つタイプだから、出て行くなら出て行くと、当てつけのように言いに来るだろう。
そしたら次の住処は彼女の所に、と勧めてやればいい。
うん、もうそれでいいや。

窓の外は憎たらしいほどの快晴だ。
因みに明日の予報は雨。
まるでアリスの行く末を暗示しているようで、家に帰るのが億劫だった。

























「弁解はいらないぞ?釈明もいらない」

君がどこで何をしていようと、それは確かに君の自由だ。私も君に隠れて好きなことをしている。

「だが、いつだったか君の言いつけ通り他の女を抱かないようにしている私を一週間放置するというのはどういう了見か、気になる所ではある」

生まれてこの方マスターべーションなどというものをしたことがなくてだな?
この有り余る性欲をどこで発散させようかと私は気が狂いそうだったよ。

もう何度目の絶頂を迎えたか分からないアリスの頬を撫でながら、ブラッドは笑う。
だがその瞳の奥は真っ暗で、帰宅して早々無言でベッドに押し倒され、縛り付けられ、衣服を脱がされ好き放題身体を蹂躙され続けているアリスは、(あぁ、あの約束本当に守ってたんだ)と的外れなことを思った。

「意識が飛びかけているな……起きろアリス。まだ足りない」
「…ん―――も、」

むり

その言葉は音になることなく、唇を塞がれ舌を絡め取られる。
ブラッドに抱かれている時、アリスは躾けられているような気分になる。
躾。調教。身体中を暴かれていいようにされている。
ブラッドに教え込まれた身体はブラッドの意のままで、逆らうことは到底不可能。
自分の身体のことなら、きっと自分よりブラッドの方が詳しいと思うくらいだ。

涙で滲んだ瞳をうっすらと開けると、暗い翡翠の瞳がアリスを見つめている。
酷く無機質で、危険な目だ。
アリスを嬲る手は乱暴で、いつもの優しさを垣間見ることもできない。

「ほら、起きろ」

ずんっと奥を貫かれてびくりとアリスの身体が跳ねる。
アリスの身体はそういう風に仕込まれていた。
イキ過ぎて頭が上手く働かず、声を上げ尽くして嬌声が出なくなっていても、身体だけは反応する。


「っ……くる、し」

苦しい。苦しい。苦しい。
ブラッドとのセックスが苦しいと思うのは初めてかもしれない。
もう何が快感なのか分からなくて、息も上手くできず生理的な涙だけが零れる。
人間ヤリ過ぎは良くない。セックスだって、おんなじだ。



意識が飛びかけている……というより、もうほとんど飛んだに近いアリスを組み敷いたまま、ブラッドは舌打ちをした。
乱暴に腰を突き動かすも、身体は反応するが彼女の目はほとんど虚ろで嬌声も上げない。
時計を見ると既に日付を超えていた。
アリスが帰宅してからぶっ通しで抱いているので、裕に7時間は経過している。
自分の体力を褒めればいいか、それともここまで意識を飛ばさなかったアリスを褒めればいいか、ブラッドには分からない。

一週間――どこで何をしていたか、聞かなかったのはブラッドだ。
聞きたいとも思わなかった。
これで男の所だと言われたら、ブラッドは確実にアリスを殺すだろう。

アリスは、他の女に嫉妬する程度にはブラッドに執着してくれているらしい。
昔は自分に執着を見せないアリスの態度が好ましかったのに、今では自分に執着していて欲しいと思う。
アリスの中に残りたい。
居なくならないでと縋り付いて欲しい。

アリスのことが好きかと言われると分からない。
愛しているかと言われても分からない。

分からないけれど、ブラッドはアリスを傍に置きたいと思う。
傍にいたいというよりは、傍に置きたい。
アリスに執着しているのは自分の方なのだ。
甘えて、依存している。縋り付きたいのは多分、自分の方。
でもそんなのは情けなくてみっともなくて惨めだから、アリスに執着されたいと、縋り付いて欲しいと思っている。


アリスがいけないのだ。
自分を拾おうなどという気まぐれを起こしたから。
自分の容姿になびかないから。
年頃の女のくせに、情事にも興味がなくて、経験もなくて、生真面目で、ブラッドに優しくするから。
自分以外誰も信用できなくて、全部が敵だと思っていたのに、まるで彼女だけが自分の味方のように振る舞うから。
甘えていいのよ、と言われて、甘えなさいと怒られて、自分だって変に脆い所があるくせに、強がってブラッドの心配ばかりするから。

ブラッドはアリスに懐いてしまった。
乳臭いガキのように、見事に絆され陥落した。

そもそも抱こうと思ったのが間違いだったのだと思う。
一度手を出すと止まらない。
初めて抱いたときから、ブラッドにとってアリスは女≠セった。
アリスがブラッドを犬≠ニしか見ていなくても、ブラッドにとってアリスは唯一無二の女≠セ。
仕事や金欲しさに他の女を抱くことがあってもアリス以上は存在しないし、抱きたいと思って抱くのは彼女だけ。

ブラッドは子どもだった。
何も聞けず、問い詰めもせず、アリスを無理矢理犯すことしかできなかったブラッドは、どこまでいっても子どもだった。



望んで墜ちる不実の月

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

子どもだから相手にされないのか。

2015.09.04