大通りに面している人気のカフェテリア。
ワッフルの美味しいカフェで、紅茶の味も悪くない。
一緒に暮らしている男が男なものだから、アリスの紅茶に対する舌は随分と肥えてしまった。

……今この状況じゃなければ、アリスは優雅に紅茶を楽しめたと思う。
目の前にはダージリンとブルーベリーのケーキ。
どうしてケーキを一緒に付けたか?
そんなの色々誤魔化すために決まっている。
カフェの雰囲気、座っているお気に入りの席、大好きな紅茶。
好んでいるもので埋め尽くされた空間に、普段はないものを入れて誤魔化している。
この場所が、嫌な思い出にならないように。


「じゃあ、考えておいてね」

がたりと、アリスの目の前に座っていた女が立ち上がる。
肩にかからないように切りそろえられた栗色の髪。
きりっとしたタイプの美女で、パンツスーツがよく似合っているバリバリのキャリアウーマンだ。
アリスより三つ年上なだけなのにこの違い。
えぇと、名刺を貰ったはず。
こっちは小さな出版社の平社員。
相手は若い女の子に人気のあるブランド会社の社長だ。
立ち去っていく女性の後ろ姿は、同性でも見惚れるものがある。
身長は、170くらいだろうか?
女性にしては高い方で、モデルの経験もあるらしい。
すらりとした長い足。
身体の細さ考えられない豊満な胸には思わず釘付けになってしまった。

とんでもない美女とお茶をしてしまったな…と、アリスは冷めた紅茶を口に含む。
ブルーベリーのケーキをフォークで突っつきながら窓の外を見れば、さっきの女社長が黒塗りの高級車に乗り込んでいった。
漫画のような展開に、アリスの思考が現実逃避を起こし始めている。

面倒くさいことになったなぁ……

机の上には小切手。
いっそ気持ち悪いほど0が多く、これで縁を切れと言われているのだと、アリスはようやく理解した。
縁を切れ、じゃないな……売ってくれと言われたようなものだ。

4月中旬。
春麗らかなこの陽気に、アリスの気分はどん底だった。



アリスの犬は、それはもうモテる。
まぁ犬と言っても人間の男なのだから仕方が無い。
顔がいいのもセックスが上手いのも事実。
女の人とキスをしているシーンを目撃したこともあれば、高いスーツを着てホテルに入っていく所も見たことがある。
ブラッドと女という構図はどこに行っても切り離すことができなくて、ここまできたら呆れを通り越して尊敬するレベルだとアリスは思った。

貰った名刺を目の前に掲げて、アリスは溜息を吐く。
ブラッドと男女の関係を持った人と、直接会ったのは初めてだ。
仕事が早く終わって帰ろうとしていた所を、女性に呼び止められ車に乗せられた。
見知らぬ土地に連れて行かれなかっただけ幸いと言うか、話の内容は穏やかじゃなかったが別に何か悪いことをされたわけでもない。


「……不潔」

ぽつりと呟いて、アリスは名刺と小切手を手帳に挟む。
嫌な気分だ。猛烈に嫌な気分。

『ずっと探していたのよ、ブラッド』

にこにこと笑う女の顔が、頭から離れない。

『私が色々教えてあげたの。上手でしょう?彼』

首を振る。席を立つ。お金を払う。目を閉じる。
今すぐあの女のことを記憶から抹消したかった。
だがアリスの脳はそんな簡単にできていない。

『半年くらいかしら?一緒に暮らしていたんだけど、突然いなくなっちゃって……』

可愛かったのよ?
危ない目つきは昔からだったけど、当時は何にも知らなくて。
でも興味はあったようだから、色々教えてあげたの。
むしろ私の方がハマっちゃったくらいで、男の子って怖いわよね?
若いから体力もあるし、何より彼、魅力的でしょう?
自分より8つも若い男の子に本気になるなんてプライドが許さないと思っていたんだけど、貴女のような子に盗られるのは癪だったから。
あぁ、ごめんなさい、貴女は貴女で魅力的よ?
でもほら、お金遣い荒いじゃない?あの子。
それに貴女、男性経験もあまり豊富じゃないみたいだし、金銭面でもそっちの面でも、私の方が満足させられると思うのよ。

『あんな綺麗な――若いツバメを飼っているっていう優越感もあると思うけど、これで譲ってもらえないかしら?』

これだけあれば、遊んで暮らせるでしょう?
男の子だって、きっと他にもいくらでもいるわ。

でもブラッドは駄目。
あの子、元々私のだったんですもの。
だから―――――――




「だから、引き下がれ―――か」

こつん、と……道に転がっていた小石を蹴る。
帰りが随分遅くなってしまった。
自分で作ったか、外食したか、出前を取ったか……あの犬はちゃんと夕飯を食べただろうかとアリスは思案する。
アリスはブラッドがハジメテだった。
ブラッド以外の男の人を知らない。
ブラッドのハジメテはあの女らしいが、あまりの趣味の良さに脱帽する。
何から何までスペックの高い男だ。
何で未だ私の所にいるのか、アリス自身が理解できない。


「不潔」


こつん。
再度石ころを蹴飛ばしながら、アリスはもう一度呟いた。
ほっぺたを冷たいものが伝った気がしたが、これは雨だろう。雨に決まっている。
アリスに嫌なことがある時は、必ず雨が降るのだ。
だからきっと、今も雨が降っている。










ブラッドは不機嫌だった。
いつまで経ってもアリスが帰って来なくて、でも外食をする気分にはならなくて自分で台所に立つ。
料理はアリスに教わった。
包丁も握ったことがなかったブラッドだったが、元々器用なのもあって今じゃ簡単なものなら自分で作ることができる。

今の時刻は午後21時38分。
仕事だろうか。時々だがこういう日はある。
だからブラッドは待っていた。
アリスが帰ってくるのを、自分で調理した夕飯を食べて待っていた。
だが22時を過ぎても、23時を過ぎても、日付が変わってもアリスは帰って来ない。

おかしい、と――ブラッドはここでようやく気付く。

アリスを探すため、ブラッドは上着を羽織り玄関の外へと飛び出した。
外は、雨が降っている。





□■□





「飼い主と、ペット」

アリスは呟く。ブラッドとアリスの関係だ。
ビジネスホテルの一室。
ベッドの上で、膝を抱えて呟いた。

「恋人じゃないのよ、アリス」

ブラッドとアリスは恋人同士じゃない。
嫉妬したり、されたりする関係じゃない。
ブラッドの女関係なんて好きにすればいい。
私も良い人がいたらアタックするかもしれないし。
恋愛はこりごりだが、結婚に夢がないわけではない。

爛れた関係だ。
お互いの感情よりも先に、身体を繋げてしまった。
そしてそれを良しとしている自分がいる。
どうでもいいと、投げやりになっているのかもしれない。
でもブラッドに抱かれるのは好きだ。
快楽もそうだが、そうじゃなくて、安心する。
その感情の名前を、アリスは知らない。

いっそブラッドが他の女とそうしていたように、自分も余所の男と行きずりに関係を結べばこの想いから開放されるのだろうか。

ブラッドはペット。ブラッドは犬。
飼い主は私だ。

ブラッドは―――男だけど、男じゃない。
彼を男性だと認めてしまったら、きっとアリスは元に戻れない。
この関係がいいのだ。ずっとこの関係がいい。
付かず離れず。

身体の関係があるのに?
嫉妬したり、独占欲を抱くときがあるのに?
どこにも行かないでと、本当は思っているのに?
いなくなったら寂しいって、思っているのに?


「――――そんなこと、ないわ」


自分で考えたことを、アリスは口にして断罪する。


「飼い主とペット」


でもブラッドをどうこうする権利はアリスにない。
これはただの関係性。
女に養われているヒモじゃ大勢が悪いから、そう呼称しているだけ。
実際は女と男。人と人。
だからモノ扱いはできないし、他人の意思をアリスが決めることはできない。


貰った小切手を見つめて、アリスは「仕事辞めようかな」と呟いた。
ブラッドがいなくなったら、田舎とかに引っ越しちゃって……猫とか飼って、読書をして―――
でもきっと暇になるから、その街で簡単な仕事を見つけよう。
図書館とか、実は結構働いてみたかったりするのだ。
それか自然溢れる場所で、身体を動かす仕事なんかでもいいかもしれない。
汗をかく仕事というのも、アリスにとっては中々に魅力的だ。

(ふふ、ブラッドとかそういうの嫌いそう)

ブラッドが力仕事。
え、畑を耕したりとか?
何それ面白い。爆笑する。絶対する。
あの究極の面倒くさがりが、加えてあのイケメンが、麦わら帽子を被ってタオルを首から下げて鍬を振り下ろすシーン。
どんなギャグだよ。世界も真っ青だわ。
それでも田舎の女の子達はキャー!とか言って黄色い声を浴びせるのだろうか。
ちょっと待って?自分が何を考えてるのか分からなくなってきた。

現実逃避に花を咲かせるアリスは一人笑う。

笑う。
笑う。
笑う。

――――笑っていられるだけ、アリスはきっと大丈夫だ。
先生との時だってそう。アリスは笑った。
仕方が無いことだと思っている。
自分に魅力がないから……アリスはアリスだから、誰にも愛されなくて、必要としてもらえない。

仕方が無いことだと、アリスは笑う。

自分はそういう人間で、そういう星の下に生まれた人間だと理解しているのだ。
だから諦めている。
だから投げやりになっている。
先生にも、ブラッドにも、縋り付くなんてみっともない真似ができるなら、きっとアリスはもっと可愛げのある人間だったと思うのだ。
それができないから、アリスは全然可愛くない。



望んで墜ちる不実の月

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

可愛くないから愛されない。でも別に、愛されたいなんて思わない。強がり。

2015.09.03