目が覚めたら、犬がいなくなっていた。

それほど広くない家の中を、寝ぼけた状態でアリスはうろつき、探し、確認したが、財布を持って犬はどうやら外出したらしい。
つい三日ほど前に鉄拳制裁を行い、お小遣い制に移行した自分の飼い犬。
嫌なら出て行けばいいと言ったし、もしかしたら出て行ったのかなと思ってアリスは珈琲を作り始めた。



「……………」

午前6時半。
アリスの朝は早く、犬の朝は遅い。というか、いつもなら放っておけば昼まで寝ている。
今の時点でいないということはきっと出て行ったのだろう。

久しぶりの珈琲は美味しくて、アリスの目覚めを助けてくれる。
あの黒犬はどうやら珈琲が嫌いらしいというのは、初日で分かった。
怪我をしていたからすぐに出て行こうとはしなかったが、あの盛大な眉の顰め方を見る限り、かなり嫌いだったのだろう。
その日から控えていた珈琲を、アリスは今、堂々と飲むことができている。


今日、取材入ってたっけ。
会議が確か13時からで―――――

ぱらぱらと手帳を捲りながら、スーツに着替えてカップを流し台へと置く。


「行ってきます――」


アリスの声が、誰も居ない室内に響いた。
これは日常だ。
学校を卒業して約三年。何も変わらない、アリスの日常。




始業のチャイムが鳴って、書類を纏めて、お昼が来て、会議に出て、取材に行って、会社に帰ってくると同時に鳴る終業のチャイム。
ばらばらと仕事仲間が帰っていくのを尻目に、アリスはデスクに向かい合ったまま書類の山と戦っていた。


(やっと仕事ができる――)

落ち着いて、ゆっくりと、熱心に、膨大に。
アリスが拾った犬は、結局一ヶ月と経たずいなくなった。
それに対してアリスは何も思わない。
いや、むしろ仕事に集中できるという喜びを噛みしめていた。

人間、変な気まぐれなど起こすものじゃない。
常識的に倫理的に、人間はそうして生きるべきなのだ。
拳銃を握りしめた血塗れの未成年を拾って飼おうなんて、アリスは大馬鹿者だった。
あのまま殺されても、連れ帰った後に殺されても文句は言えない。自業自得。
恐ろしい出費にはなったが、殺されないだけマシだったかとアリスはぐーっと背伸びをする。

「――――――――」

ふっと宙を見上げて息を吐くと、耳元で聞き慣れた声がした。『アリス――』と。
それが誰の声かなんて明白で、(疲れているのね)とアリスは目を閉じる。

アリス――
アリス――
アリス――

幻聴は病まない。
もう一度聞きたくて、でももう二度と聞きたくなくて、でもずっと聞いていたい声が、アリスの名前を呼ぶ。

(……どうしたの、姉さん)

何故そんなにも私の名前を呼ぶのか。
酷いことをした私の名前を、どうしてそんなに優しげに。


『早く家に帰って来たららどう?』

……帰らないわ。あの家に姉さんはいないもの。

『また一緒に本を読みましょう?』

帰っても、姉さんはいないじゃない。

『貴女の好きな紅茶を淹れてあげる』

無理よ。家にあったティーセットね、壊れてしまったの。

『アリス』

なぁに?

『アリス』

どうしたの、姉さん。

『アリス』

………………

『アリス』



ふと窓の外を見ると、小雨が降り始めていた。
空には雨雲が立ちこめており、このままだとしばらくしない内に土砂降りになるだろう。
母の葬儀の時も雨が降っていた。
姉の時もそう。
アリスの思い出はいつも雨が降っている。
雨は嫌いだ。涙を流せない自分を嘲笑っているようで、窓ガラスを流れる雨粒が憎たらしい。


「……帰ろ」

ぽつりと呟いて、アリスは席を立つ。
会社にはまだ数人残っていたが、「お疲れ様です」という言葉を残して部屋を出る。
傘は持ってきていない。
途中どこかで買おうかとも思ったが、どっちにしろ濡れるなら家に帰った方がいいかと思い空を見上げる。

アリスは独りだ。
アリスが独りでなかったことなどない。
姉がいた時だって、アリスは独りぼっちだった。
初恋の人は姉を好きになり、それ以降あれほど大好きだった姉を見ると劣等感に苛まされた。
妹とは馬が合わず、下町の学校に通っている時が一番自分らしかった気がする。
でも生まれと家は変えられない。
遠巻きに見られることも多かったし、それでも仲良くしてくれた友人達はいたが、自分が心を開いていたかどうかと言われるとそれは怪しい。

アリスは卑怯だった。
家を出たとき妹にもそう詰られたが、実際その通り卑怯だった。
アリスは全てから逃げたのだ。
失った恋から、姉の死から、家のしがらみから、全部投げ捨ててここにいる。
自立した女性になりたかったのに、今では何が自立なのかも分からない。
独りでいることを選んだのも決めたのも自分なのだから、それを辛いと寂しいと思うことは許されない。

分かっているし、思ったこともない。
アリスは強いのだ。ちゃんと生きていける。
何一つとして、問題など起こらない。


雨の中を――アリスは走り始める。
雨粒がアリスの頬を伝うが、それは所詮雨粒で涙じゃない。

『アリス――――』

姉の声が聞こえる。
もういない、アリスの姉の声。後悔と罪の塊。
世界で一番美しい、優しくて完璧だった私の姉さん。


ばんっと――玄関の扉を開けると同時に、アリスはその場にしゃがみ込んだ。
全力疾走したせいで呼吸は荒く、びしょ濡れになって水分を含んだスーツはとても重い。
げほっと思わず咳き込みながら息を吸うと、何故だか無性に泣きたくなった。

だが涙は出ない。
アリスは強いから、泣かないのだ。

座り込んだまま、アリスは膝を抱えて呼吸を整える。
雨が悪いのだ。この降り続ける雨が悪い。
弱い自分が大嫌いだ。
弱くて、情けなくて、惨めな自分が大嫌い。
こんな自分を、誰かが愛してくれるわけがない。
必要としてくれるわけがない。
だって私も愛せない。
誰かを必要だなんて思えない。

このままでいい。このままがいい。

独りでいれば傷つかない。
独りでいるのが一番楽だ。







「水遊びにしては、派手にやったな」

「!」

俯き膝を抱えていたアリスの耳に、姉じゃない声が聞こえてびくりと肩を震わせた。
思わずばっと顔を上げると、その人物を視界に入れる暇もなく頭からバスタオルを被せられる。

「傘を持って行かなかったのか?」
「……ブラッド?」

しゃがみ込んだままのアリスを覗き込むように、ブラッドが腰をかがめる。
「早く風呂に入ったらどうだ?」というブラッドに、アリスは「貴方出て行ったんじゃなかったの?」と問いかける。

「?出て行くと言った覚えはないが」
「……朝、起きたらいなかったから」

学校に行くにしても、早すぎると思って。

唖然とするアリスに、ブラッドは不思議そうに首をかしげながら「今日は卒業式があったからな」と言った。

「卒業式?」
「世間一般の学校は、どこも卒業式だと思うぞ?朝から準備にかり出されて、酷く面倒だった」
「…………貴方が真面目に準備に出向くなんて、そんなことあるのね」
「そういう時もある。気分の問題だよ」

そこまで会話した所で、ブラッドは「だるい」と呟きリビングの方へと引っ込んでいく。
その様子を未だ唖然と見ていたアリスだったが、はっと我に返った後の行動は早かった。

被せられたタオルで身体を拭く。
上着は全部脱ぎ捨てて、慌てて風呂場へ駆け込みシャワーだけを浴びた。
また後で、お湯を溜めて入り直そうと思いながら服を着替え、電気のついているリビングへと足を踏み入れる。

アリスが出て行ったと思っていた黒犬は、普段と変わらぬ様子で読書をしており変わった所はない。


「――――すぐに、夕飯を作るわ」

普段なら絶対に言わない言葉を、アリスは言った。
もちろんブラッドから返事はない。
それでもアリスは気にすること無く、冷蔵庫を開けて食材を取り出し、調理に取りかかっていく。

姉の声はもう聞こえない。
常日頃から煩わしいと思っている存在でも、いるといないのとじゃ違うのね―――と、

一瞬ブラッドを振り返って、アリスは泣きたくなった。



水槽で殺した人魚の骨

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

心が弱っている時に、誰かがいると泣きたくなる。
それが自分にとってどうでもよくて、煩わしいと思っている存在でも、そこにいると安心する。

2015.09.02