「まだできないのか?」

アリスの頭に顎を乗せて、その体勢から彼女の手元を見つめる。
「もうちょっとよ」というアリスに、ブラッドは「腹が減った…」と力なく呟いた。

「全く……今日学校だって言わないから。前日に言ってくれれば、ちゃんとお弁当作ってあげたのに」
「……忘れていたんだ。思い出したのも10時を回っていたし」
「遅刻じゃないって怒ればいい?それともサボらず真面目に行ったことを褒めて欲しい?」
「できれば褒めて欲しいな。……だるい、そもそも何故普段の休日に学校なんか――」
「振替休日があるでしょう?学生の本分は勉強よ」

アリスの言葉に、ブラッドは眉を顰めて溜息を吐く。
その表情は見なくても想像ができて、アリスは揚げたての唐揚げを半分に割りながら思わず口元を綻ばせた。

……君は、真面目に学校へ行って勉強していたんだろうな。

ブラッドの呟きに「当たり前でしょ」と返す。
菜箸で掴んだ唐揚げを頭上へ掲げれば、鳥の雛のようにそれを咥えるブラッドの可愛らしいこと。
よほどの空腹なのかじっとしていられないらしく、ブラッドはアリスの頭に自身の顎を乗せたまま「まだかまだか」と夕飯を催促していた。
16歳の男子高生。育ち盛りのこの時期に、昼食抜きはよほど堪えたらしい。

「ていうか、お小遣いもう使い切っちゃったの?ご飯買えば良かったじゃない」
「小遣いとやらは残っているが、学校の食堂や外食は口に合わない」
「……よく言うわ。ほんの二ヶ月前までは人の財布からお金抜いてまで外で食べてたくせに「そうだ、アリス。今日いい茶葉を手に入れたんだ。淹れてくれ」……話の逸らし方が雑ですこと」

アリスから離れて茶葉を取りに行くブラッドを尻目に、てきぱきと夕食を作り上げていく。
今日は給料日だったため、ちょっと奮発して豪勢に。
余ったら明日のお弁当入れようと思っていたのだが、ブラッドの空腹具合を鑑みるとどうやら完食されそうだ。


皿に盛りつけたら後は並べるだけ。
背後を振り返らず「ブラッドー?」と呼べば、賢い犬はすぐアリスに近寄ってくる。

「はい、並べてね」

アリスの言いつけ通りいそいそと食卓の準備をするブラッドは、こうして見ると年相応だ。
拾った時はなんて扱い辛いクソガキ――…間違った、躾のなってない駄犬だと思っていたが、長い間接していたらお互いの扱いに慣れてくる。
思いかけず良い同居人――…いやいや、賢い犬になったとアリスは上機嫌だった。
給料日に、ちょっと奮発しようと思うくらいには上機嫌で、犬のことを考えている。


「茶葉と一緒にワインも手に入れたんだが……」
「おいこら、未成年」

前言撤回。
賢いは賢いがある意味駄犬であることに変わりはない。
「飲むか?」と手慣れた手つきでそれを開けるブラッドに、アリスは「どこでそんなもの…」と呆れた声を出す。
茶葉にしろ酒にしろ、ブラッドは時々そう言った物を家に持ち帰ってくるが、提供元は未だに分からない。
買ったなら買ったと素直に言うブラッドは、いつもそれらに関しては手に入れた≠ニいう。

「ふむ……やはり紅茶は後にしよう。こっちの味を試すのが先だな」
「……貰ったの?」
「あぁ、ちょっとしてツテで……」

詳しくは話そうとしないブラッドに、アリスもそれ以上は聞かない。
エプロンを外して食器棚からワイングラスを二つ取り、食卓に並べて席に着く。
グラスにワインを注ぐブラッドというのは見慣れた光景だが、これが制服を着ているのだから不自然だ。
胸のポケットからは煙草が見え隠れしている。
酒に煙草、とんでもない不良少年だと思いながらも、アリスはそれを積極的に止めようとはしない。

「ワイン、高いの?」
「ん?――あぁ、安くはないな。君の給料から言えばの話だが」
「安月給で申し訳ありませんね」
「そんな給料でよく働く気になると、私は感心している……」
「殴るわよ。この給料であんたを養ってる私の身になりなさい」
「……まぁ、慎ましい生活というのもさほど悪くない」

退屈しないよ。

そう言うブラッドに、アリスは「いつか飽きるかもね」と言った。

お金持ちの女性の家を転々としていたことは、いつだったか聞いた。
女の家に転がり込むのも、女に養われるのも、お財布から勝手にお金を抜き取ったり人のカードで何百万もの買い物をすることは、ブラッドにとって当たり前≠フことだったらしい。
ブラッドのような美青年を囲うことはお金持ちの女性にとって一種のステータスになるらしく、他にもセックスで満足させることが家賃代わりだとか生々しい話もちらりと聞いた。
アリスには考えられない世界である。
というかスレ過ぎている。最近の若者は皆そうなのだろうか。
別に軽蔑するとまではいかないが、受け入れがたいとは思う。
アリスは別にそんな動機でブラッドを拾ったわけではないし、どちらかというと気まぐれとか勢いとかその場のテンションで拾ったという方が正しい。
そして拾ったからには面倒を見なければ、という義務感だけ。
世間的には良くないだろうが、学校や親元から苦情が入っているわけでもないし、ここでアリスが手放したところでブラッドはまた女の家を転々とするのだろう。
別にその件にどうこう言うつもりはないが、彼が自分の意思でこの家を出て行こうとするまでは、責任を持って預かろうとアリスは思っている。


「……美味しい?」
「?あぁ、美味いよ」

ようやくありつけた夕飯に、どこか満足気なブラッドを見てアリスはそう尋ねた。
初めて自分の料理を口にしてくれたときもアリスは同じことを聞いたはずだが、彼は無表情で「悪くはない」と言うだけで、今のように「美味しい」とは言ってくれなかった。
何だ急に…そんな表情でアリスを見つめるブラッドに、「それなら良いのよ」と呟いてワインを一口含む。

視線の先にはカレンダー。
二ヶ月という月日があまりに早すぎて目眩がすると同時に、この状況に慣れてきている自分自身に苦笑した。





□■□





振替休日。
アリスはもちろん仕事。
平日の真っ昼間に、ブラッドはアリスのベッドでごろりと横になっていた。
読書をする気分でも、紅茶を飲む気分でもない。
アリスが用意してくれた昼食は完食してしまったし、言いつけられた皿洗いも済ませた。
一つ寝返りを打って枕に顔を埋めれば、家主の匂いがする。

この家は過ごしやすい。
ブラッドの機嫌を損ねるものがほとんどないのだ。
女の匂いだったり、趣味だったり、性格も――真面目過ぎる所はあるが、基本放任してくれる。
自分に執着を見せないあの態度は好ましい。
だが思いやってくれていることも分かるし、尊重という方が正しいか……今までブラッドが付き合ってきたどんな女にも似つかなくて、それがいいとブラッドは思う。
どことなく、今はもう居ない姉≠ノ似ているような気もするし、だからと言って重ねて見ているわけでも、姉が恋しいわけでもないが、とにかくアリスの傍は落ち着いた。
苛立たない。不快にさせない。
くるくる変わる表情は幼く見えるが、仕事をしていたり、読書をしていたり、手際よく料理をする彼女の横顔は年相応。
そんな普通のことが、彼女の生≠感じさせる。
生き生きしている人間は見ているだけでだるいが、アリスのそれはどこかが違った。
そしてそれは、きっと彼女の過去≠ノ直結するとことで、知りたいとは思わないが似ているのかもしれないとブラッドは考える。

後悔。絶望。罪悪感。憎悪。
誰に対して、何に対して。
それは分からない。知りたいとも思わない。
自分が何に対して後悔し、絶望し、罪悪感と憎悪を抱いているのかさえ分かっていたら、それでいい。
他人のことなど考えてやる義理もなければ余裕もない。

アリスはきっと、少しだけ自分に似ているのだ。
どこが、という話ではない。
そういう話ではないが、きっと何かが似ている。
生い立ちも考え方も生活スタイルも、常識も倫理も違うけれど、だがきっと、根本的な部分が一箇所だけ被っているのだ。
だからきっと―――

(悪くない……)

一緒にいるのが苦にならない。
多少気を抜いた所で、それを咎められることもない。

アリスはブラッドのことを何も知らない。
知らないのが良いと思う。
過去も、家のことも、アリスはブラッド=デュプレという人間を形成してきた全てを知らない。
だからブラッドは、アリスの前でだけブラッド≠ニいう人間でいられる。
顔にも興味がなければ、セックスを求められることもない。
ブラッドがアリスに与えているものなど何もないのに、アリスはそれでもいいと言う。

アリスは変わり者だ。
それかどうしようもなく馬鹿なのか。
きっと両方だろう。
即かず離れずのこの距離感は悪くない。
詮索してこないし干渉もしないし、料理も旨ければ紅茶や読書に理解がある。
部屋が狭いのと、寝る場所が床かソファかしかないのが不便だが、まぁ嫌になれば出ていけばいい。

部屋と金さえあれば、結局ここじゃなくても別にいいのだ。
ただ居心地は悪くないから、しばらくここにいようと思う。



しかし全ては無意味な仮定だ

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

お互い慣れてきて距離感が完成してきた頃。

2015.09.02