アリスが拾った黒犬には名前があった。

ブラッド=デュプレ。

唯一所持していた財布の中の学生証に、そう書いてあった。
国内有数の名門校に在席。
本人は頑なに口を割らないが、苗字から推測するに生まれは貴族。
中流階級の出であるアリスなんかより、よほどお育ちの良い家。

『大型犬を拾った気持ちでいるから、貴方もそのつもりでいて』

拳銃を突きつけられながら、アリスがそう堂々と言い切ったのはつい先日の事。
なんで拾おうと思ったか?
そんなのノリと勢いだけに決まっている。
そういう空気だったのだ。雨の中に美青年。
そういうシチュエーションだったのだ。だから拾った。
そういうことにしておいて欲しいと、投げやりになっているアリスは思う。

気が狂っていたのは自分も同じだったのだ。
こんな面倒事を抱えるつもりなんてなかったし、何より男…しかも未成年を拾うなんてアリスの常識が許さない。
だが拾ってしまった。
彼も我が家に居着いた。

ご飯は食べないし睡眠も取らない。そのくせ人の財布からお金だけ抜き取っていく最低最悪の犬。
躾?あぁ飼い主の基本だとも。
この男が本当にアリスに飼われてくれるのなら、の話だが。


犬を拾って約三週間。
アリスは職場のデスクでクレジットカードの明細を広げ唖然としていた。

ちょっと待って。買った覚えが無い。
0が二つ三つ近く多い。
何コレ見覚えがあるわよブランド名でしょ。
時計?こんな高い時計いつ買った?
ていうか……服!
服も!これ!高いとこ!!
あの馬鹿犬!人のカードで何勝手に買い物してくれてんのよ!
事前報告もなければ事後報告もないんですけど!?
21歳の一般女性が払える金額でもないし、16の男、しかも学生が買う値段じゃないでしょう!!?

わなわなと肩を震わせるアリスに同僚が怪訝な顔をしている。
だがアリスには周囲の視線を気にする余裕はなく、とにかく0が二つ三つ多いこの明細の数字が未だに信じられない信じたくない。

アリスは同世代の同性に比べて稼いでいる方だ。
貯金もある。だがこれはない。
こんな金額毎月払っていたら半年で貯金が尽きる。
学校を卒業して働いてきた三年間の貯金が半年で!!!


……コロス。


ゆらりとその場に立ち上がったアリスは、明細を握りしめてそう思った。
こんな物騒なことを本気で思ったのはきっと人生初めてのこと。

躾。躾は大事だ。飼い主の基本。
世間を知らないあのクソガキ――間違った、あのクソ犬に一般常識というものをたたき込んでやる。
警戒心が未だに薄れないのか、あの犬はアリスが家にいると基本寝ない。食事も取らない。
ただ財布から現金がなくなるから、きっと外で何か食べているのだと思う。
まぁそこまでなら許そう。
別に懐かれたいとは思わないし、一緒に住むのなら友好的な関係を築けたらベストだが決して強制はしない。
お互いの節度を守っていられるのなら、ご飯欲しさにちょっと現金がなくなるくらいなら許そう。
そういう面倒事を抱えると、気の迷いでもあの雨の中決めたのはアリス。多少は想像していた。
だが何度も言うが、これはない。
0が二つ三つ多い請求はさすがにない。
払えないし払いたくない。
そんな贅沢、あんな犬にさせるのなら私がする!!



終業のチャイムが鳴ると同時に、アリスは鞄を持ってダッシュで家路へと急いだ。
定時で帰れる会社。何て素晴らしい。
これも三年間のアリスの努力の賜だ。
山のように仕事を溜め込み受け入れ、人一倍仕事をしてきた。
一日くらいこんな日があってもアリスは許される。
が、その三年間がたったの半年で食いつぶされそうな現実に、アリスの怒りは凄まじかった。


バンッと勢いよく玄関の扉を開ける。
鍵を閉めてチェーンを閉めて、犬が室内にいることは靴の在処で確認済みなので、逃げられないようにと念を押す。
荒々しい足音を立てながら、アリスはリビングの扉を開けた。
ソファには、優雅に読書を楽しんでいる黒犬が鎮座している。
飼い主が…家主が帰ってきたというのに視線さえ向けやしない。

扱いづらい男だと、アリスは常々思っていた。
嫌なら出て行けばいいのにと、追い出さないくせに出て行くことを願っていた。
ろくに話もしない犬。金だけ食いつぶす犬。
それでも出て行くまでは面倒を見てやろうと思っている辺り、アリスの頭もそれなりに末期だ。

アリスは彼を本気で犬だと思っている。駄犬。
一度ペットを飼い始めたら、責任を持って飼いましょうというのは幼稚園生でも習うこと。
アリスはその習いに従っているに過ぎない。


「こ、の――――――」

犬と暮らし始めて早三週間。
この日初めて、アリスは犬に怒鳴った。


「馬鹿犬がぁぁぁぁぁ!!!!!!!」


たまたま近くにあったクッションを投げつける。
ぼふんっと音を立てて犬の頭に直撃したそれ。
それなりの威力があったのか、犬は本を床へと落とし、頭を抑えてギロリとアリスを睨み付ける。
底冷えするような空気を醸し出しているが、怒り心頭のアリスにそんな冷気は通用しない。

「これ!!!!!」

ばんっと机に叩き付けた明細を指さし、アリスは「どういうことよ!」と声を荒げる。
犬は無表情でそれを一瞥した後、「ただの明細書にしか見えないが?」とそれだけ言い放った。

ぷつん、と―――アリスの中で何かが切れる。
にーっこりと犬に微笑んで、「そうよ、明細書。貴方が勝手に使ったカードの」と言い放ち――――

「だから――何してくれてんのよこの馬鹿犬!!!」

下町の学校で培った、アリスの度胸が炸裂する。
拳を振り上げ、それを力一杯彼の夜色へと振り下ろした。
ごんっと鈍い音がすると共にじんじんと拳が痺れるが、それよりも痛かったはずの男が頭を抱えて蹲る。

「私の給料がいくらだと思ってんの!!?」

犬なら犬らしく飼い主の金銭事情に合わせなさいよ!
こっちはあんたを飼ったところでメリットなんか欠片もないし、ヒモ飼ってんのと同じ感覚なのよ!?
何なの!?あんた自分が存在するだけで私にメリット与えてると思ってるの!?
ちょっと顔が整ってるからって調子に乗るんじゃないわよ!!
5つも年下の――しかも未成年の顔の造形がどうだろうが私にはメリットにもデメリットにもならないわよ!!

「この馬鹿犬!駄犬!!私に得があれとは言わないから損はしないようにしなさいよ!!何なのこの金額!!損しかない所か大損害よ!!!!!」
「―――――っ人を馬鹿犬だ駄犬だとえらそうに――」
「飼い主なんだからあんたより偉いのは当然でしょ!?誰が養ってると思ってるのよ!嫌なら出てけ!!」
「―――――――」

今までどこで何してどんな生活してきたか知らないけど、私の所にいるのなら私のルールは守りなさい!!

再度――ごんっと拳を叩き付ける。
後頭部を押さえて蹲る男の姿は滑稽で、アリスはふんっと鼻息を荒くキッチンへと向かった。





□■□





女に平手打ちをされる。という経験はある。
だが拳で、しかも全力で殴られるという経験は初めてだとブラッドは思った。
一瞬殺してやろうかと思ったが、裏に携わっていない一般人の女を殺すのは後々面倒だと男は苛立つ。
たかだが何百万でえらい剣幕だったが、それが常識のブラッドにはいまいち事情が把握できない。
自分を養っているという女の給料も知らなければどこに勤めているのかも知らないし、名前……名前も正直怪しい。

だが実は―― 一人の女の家に三週間滞在するというのは新記録だということも理解していた。
過ごしやすいと言えば過ごしやすい。
今まで自分を囲っていた女のように、やたらと絡まれ話しかけられることもなければ、香水の匂いも悪くない。
部屋は狭いが片付いており、何より本があるのは好印象だ。
情事を迫られることもなければ、夜会へ連れ出されることもない。
良くも悪くも放任主義。

自分に――媚びない女も初めてだ。
年上だろうが年下だろうが、女は基本言い寄ってくる。
自分の顔がそれなりに整っている自覚はあるし、メリットにもデメリットにもならないとこうもはっきり言われると、何だか無性に口惜しい。

女は自分を犬だという。
養う≠ニいう言葉を使うことは少なく、むしろ飼う≠ニいう単語の方を聞く方が多い。
そういうプレイなのかと思っていたが、情事を迫られない所を見るとそういうわけでもないらしく、彼女にはどうやら、自分は本当に拾った犬£度の認識しかないようだった。

『嫌なら出てけ!!』

出て行かないでと言われることは多いが、出て行けと言われたのも初めての経験。
彼女はブラッドの常識を悉く覆す。
尤も、拳銃を突きつけて逃げ出さなかった時点でこの女は常識的じゃない。
それを面白いと思ったが故に居着いたのだ。

落ちた本を拾い上げて、ブラッドは思案する。
机の上にはクレジットカードの明細書。
取りあえず、彼女には払えない、払いがたい金額であるということは理解できた。
我慢が嫌いな自分にとって、金が自由に使えないというのは正直痛い。
じゃあ出て行けという話になるのだが、それはそれで口惜しい。
女は自分に媚びへつらう生き物だという認識が、ブラッドの中で変わっていく。
自分に媚びるのは、何も女だけじゃない。
男だってそうだし、ブラッドの眼光に怯まない人間も珍しい。

ブラッドにとって、女は珍しい生き物だった。
不細工ではないが美人でもないし、毎日毎日仕事に行って、休日もやることと言えば読書や掃除、片付けだけ。
家族や友人という言葉も聞かない。
そんな女は、今までブラッドの人生の中にいなかった。
自分を囲いたい女なんていくらでもいるのに、彼女にとってはそうでないと言う。
振り向かせてみたい?
そんな子どものような感情は抱かないが、面白いと言えば面白い。
ブラッドは面白いものが好きだ。
自分の常識を跳び越えていくものは面白い。
そんな面白い女のいる、過ごしやすい空間。
今まで関係のあった女達と過ごすよりは、ここにいる方が楽だとブラッドは思う。



「ブラッド」

ふと名前を呼ばれて顔を向ければ、女がキッチンからフライパンを片手に顔を覗かせている。
その顔はどこか不機嫌そうで、眉間に皺を寄せながら言葉を放つ。

「ご飯できたけど、食べる?」

あぁ―――これも女の面白い所だとブラッドは思った。
毎日聞かれる事だが、ブラッドはこれに返事をしたことがない。
それなのに、女は毎日飽きることなくそう尋ねる。
その行為が酷く奇妙で、今更ながらブラッドは感心した。



無言でソファから立ち上がり、キッチンへと近づいてくる男にアリスは「?」と首を傾げる。
いつもは無言でスルーされるのに、何の気まぐれか近寄って来た犬にアリスは「珍しいわね」と声をかけた。

「食べる?」
「…………」

アリスは毎食2人分作っている。
捨てるのは勿体ないから、食べなかった場合は次の日のお弁当にして。
だから本当は、彼が食べようと食べなくとも問題ない。
だが餌をやるのは飼い主の義務だと、アリスは必ずブラッドの分を作った。
無言でキッチンを見回して、食卓用のテーブルにつくブラッドの姿に、アリスは(食べるのね)と一人納得して料理を皿に盛りつけ始めた。

ブラッドはあまり喋らない。
元々饒舌なほうじゃないのか、それとも未だに警戒心が解けないとか、慣れないだけなのか――自分にそれは分からないが、これは良い傾向だとアリスは思う。
もし口に合わないと投げ捨てられたら、今度はフライパンで追いかけ回してやろう。
男とは言え所詮年下。所詮犬。嫌なら出て行けばいいという認識は変わらない。
だがそれでも自分の家にいるというのなら、アリスのルールには従ってもらう。
飼っているのは此方なのだ。文句なんて、言わせない。



「はい。どうぞ」

いただきます、も言わない。
無言で口を付けるブラッドに、アリスは少しだけ安心した。

やっぱり、ペットが餌を食べないと心配よね。
外食ばかりじゃ栄養も偏るし――とアリスはほっと息を吐く。
それに、食事を家で摂ってくれるのなら、出費も安く収まる。
あのクレジットの件に関しては、もう諦めよう。
でも次にやったら絶対に追い出すと思いながら、アリスも食卓につき「いただきます」と呟いた。




「美味しい?」

遠慮がちにアリスが尋ねると、ブラッドは「悪くはない」と言った。
顔を突き合わせて食事をするのは初めてで、アリスは久しぶりに誰かといる&オ囲気を味わう。
三週間一緒にいるはずなのに、他人より他人らしくてやりにくい。

これを機に、色々躾なきゃ……

そう心に決めて、アリスはブラッドを見つめる。
ブラッドが心を開かないのは、きっとアリスにも問題があるのだ。
躾てこそ愛情だ。さっき二回殴ったのも愛故ということにしておこう。
決して怒り任せの感情なんかじゃない。そういうことにしておこう。

「ブラッド」
「…………」
「今月からお小遣い制ね」
「………は?」
「あんたの金銭感覚おかしいわ。私の給料明細と家計簿、そこの棚から見ておいて」

うちはね、あんな贅沢できるだけの余裕は全くないの。

「私はいつ貴方に出て行かれても構わない。でもここにいる以上は、ちゃんと、私と生活しているということを忘れないで。必要最低限のコミュニケーションは大切ね。私も貴方のこと、放ったらかしにし過ぎたわ」

訝しげな顔をするブラッドに、アリスは笑う。


「飼い主らしくするから、犬らしくしなさいってことよ」


普通の生活してればいい。でもルールは私。
お互いの距離感を守って、不干渉に節度ある生活をしましょ。


「…………」
「まぁ―――」


貴方に気を使いながら生活するのが疲れるっていうのも理由の一つなんだけど。


アリスの言葉に、「…さっそく飼い主らしからぬ発言だな」とブラッドはぼやいた。



臆病で勤勉な猛獣使い

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

多分最初はこんな感じだったと思う。拾ったし拾われたけど、距離感をつかみ損ねているというか、お互いのことが分からないから適当に過ごしてたらこうなったっていう……
アリスはブラッドのことどうでもいい。ほんとに犬。
ブラッドもアリスのことは変な奴って思ってるくらいで、基本どうでもいい。
でもこのお互いがどうでもいいっていう距離感がそんなに苦痛じゃなくて、ただ生活するに当たって問題が発生したからちょっとお互い向き合いましょうっていうきっかけ?になったお話。

2015.09.01