やってしまった――――

アリスはそう思った。
余所の女とシてきた後で私に触らないで、なんて……そんなのまるで、嫉妬しているようじゃないかと愕然とする。
事実嫉妬しているのだとは、認めたくなかった。
自分とブラッドはヤキモチを焼いたり焼かれたりする間柄じゃないし、そんな面倒な関係に、ブラッドがなりたいと思うはずもない。
ブラッドが自分から離れていく決定打を、自分から放ってしまったことにアリスは絶望する。

違うの。そうじゃないの。
ただ、ただ―――――――――

ただ、何だというのか。
アリスは嫉妬している。
ブラッドの飼い主は自分だけで、そういうことをするのは自分だけであって欲しいと思っている。
恋人同士になりたいわけじゃない。だってこれは、きっと恋じゃない。
でも自分だけがいいと思っている。独占欲。

過去に女の人の家を転々としていたことは知っている。
それも嫌じゃなかったと言えば嘘だ。
どんな女の人だったとか、気にならないと言えば嘘。
でも過去は過去でどうしようもないと割り切ろうとしているのに、現在進行形で複数のご婦人を相手にされるのは嫌だ。
だったら私に触らないで欲しい。
そっちはそっちで勝手にやって欲しい。
私だけじゃないのなら、私に触らないで。
私だけだと大事にされないセックスなんて、意味もないし願い下げだ。
アリスも我が儘なのだ。ブラッドと同じくらい我が儘。
自分が一番で、自分の言う事を聞いてくれなきゃ嫌なのだ。

甘えている。
好きだから?ううん、そんなの認めない。
認めないけど、甘えている。
自分以外は、嫌なのだ。
これが恋じゃないのは断言できる。
じゃあ一体何だというのかと問われれば、アリスには分からない。
依存。執着。どれも合っているようでどれも違うような気がして、アリスの頭はぐちゃぐちゃだった。


ふいに、ブラッドが身体を起こしてアリスから離れていく。
服の中に入っていた手はするりと抜け、押さえつけられていた手首も解放される。
ブラッドがアリスから離れていく。
温もりが失われる。
自分から身体を離して立ち上がろうとしたブラッドに、アリスは思わず手を伸ばした。


「っ!?」

起き上がり、背を向けようとしたブラッドの襟首を両手で掴む。
それを全体重かけて引っ張れば、どさりと音を立てて彼はベッドの上に転がり、驚愕の表情でアリスを見上げていた。
無我夢中のアリスは仰向けに転がったブラッドの上に馬乗りになって、その横っ面を引っぱたく。

まさに無我夢中。
いや自暴自棄だろうか。
アリスは今、ブラッドに自分が何をしているかをいまいち理解していない。
躾?何に対して?
飼い主の許可なく出歩いたから?逃げようとしたから?
だからアリスはブラッドを殴ったのだろうか。
アリスには何も分からない。

ぼたりぼたりと、アリスの目から零れる涙がブラッド頬を濡らす。
半ば唖然とアリスを見上げていたブラッドだったが、女の力とは言え力一杯引っぱたかれた頬の痛みにようやっと我に返った。


「――どこで……知った?」

自分が他の女を相手にしていたと、どこで知ったのか。
アリスと暮らし始めて、食った女は両手じゃ足りない。
裏でやってる仕事の関係だったり、金欲しさだったり、アリスのお小遣い制度は中々興味深くて楽しんでいるが、どうしても金がいる時はいる。
例えば仕事に行くときの身なり。スーツ、靴、時計。
物欲はさほど無いが、ブラッドが今後身を投じようとしている世界はそういう見栄も必要だった。
だから、金がいる。
だから、適当な女を食い物にしている。
性欲処理ですらない、ただの踏み台だ。


「どこで知った?」

ブラッドはもう一度アリスに尋ねた。
ブラッドに馬乗りになり、その上引っぱたいたことによって多少の冷静さが生まれたのか、アリスはようやく落ち着いた様子で「…見たの」と呟いた。

「ホテル、入っていくとこ」
「…………」
「食事だけじゃないでしょ?今何時だと思ってるの」
「確かにそうだな」

だがアリス……君はここから18駅も離れた場所で何をしていたんだ?

私はそちらの方が気になるんだが、と問うと、アリスは「仕事だったのよ」と言った。

「取材に行ってたの。ついでに果物が安かったから、そこのスーパーで食材を買って……」
「……重かっただろうに」
「あそこにはお気に入りの本屋さんがあるから、大通りに出て見に行こうとして――」
「あぁそれで私を見たのか」

納得した、とブラッドは胸のポケットに入っていた煙草を取り出す。
この状況で吸う気なのかと眉を顰めたアリスは、ばっとそれを奪い取ってぐしゃぐしゃに潰し、ゴミ箱へと放り投げた。
がこん、とゴミ箱にシュートした音が、やけに大きく耳に響く。

「……君の、そのコントロールの良さには脱帽する」
「未成年が酒だの煙草だの身体に悪いわ」
「何を今更……黙認していただろう。最近は君の方があの酒を作れこの酒を作れと――」
「あぁそうだわ。グレープフルーツとリンゴを沢山買ってきたの。この間のお酒飲みたい」
「……言っていることが矛盾しているぞ?」

呆れたような声を出すブラッドに、アリスはうるさいとその頭を叩く。

「いっ…やめてくれないか、アリス」
「女たらし。色欲魔。恩知らず」
「またそれか。落ち着け」
「最低だわ。余所の女を抱いた後で私を襲おうなんて。今までの所用≠チていう朝帰りも、ずっと女の所だったんでしょう」
「それは――」
「初めて私を抱いた時より前も、抱いた後も、所用の頻度変わってない」

これを、最低って言わずに何て言うの?


「私、そんな軽い女じゃないわ――」


貴方が付き合ってきた女と一緒にしないで。
セックスに狂ってるわけでもなければ、貴方に抱かれたくて貴方を飼ってるわけでもない。
抱かれることに文句はないわ。
いや正直回数は控えて欲しいと思ってるけど、それ自体を拒否はしない。
でも他の女と同時進行なんでごめんよ。
その他大勢の一人でもいいなんて、そんな惨めなのは絶対に嫌。
ヤりたいだけなら他の女とヤってきて。
その代わり二度と私には触らないで。
私は――――


「私は、私だけだと言って抱いてくれる人以外ごめんだわ」
「…………」

『ごめん、アリス。僕は、君のお姉さんが――――』


何故――こんな時に先生を思い出すのだろう。
昨日会ったから?それともまだ好きだから?
ブラッドに先生を重ねているのだろうか。
ブラッドにされていることを、先生にしてもらえたらいいのにとかそういう……自慰行為にもならない願望を抱いているから?

違う。私は別に、先生に抱いて欲しいわけじゃない。
好きでもない。むしろ忘れ去りたくて、消えて無くなって欲しい。
先生を思い出す度、姉も一緒に思い出す。
忘れたくなくて、忘れたくて、忘れちゃいけない大事な人。
姉はアリスの後悔の塊で、先生との思い出はその後悔に直結する。
アリスが見せる先生への執着は、姉への執着と同意義だ。
今この瞬間、抱く抱かれるの話に出てくる人ではない。

アリスは、ブラッド以外に抱かれたいとは思わない。
ブラッドじゃなきゃ嫌だ。
ブラッドだけだ、と思っているのは、アリスの方。

「――出て行くなら、出て行けばいいわ。飼って欲しいなら飼ってあげる。今まで通り、多少の我が儘は聞いてあげるけどお小遣い制はやめないし、広いところに引っ越しもしない。他の女の人と関係を続けてもいいけど、私に触るのは厳禁よ」

嫌なら出て行って。

ぼふっと――三個目の枕をブラッドの顔面に押しつけてアリスは立ち上がる。
午前3時45分。
約45分の攻防戦。たったそれだけの時間しか過ぎてないのに、アリスは疲れ果てていた。

一方枕を顔面に押しつけられたブラッドは、自身の上に乗っていた重みが消えたことに不快感を覚える。
勝手に言って、勝手に納得して、勝手に結論づけてしまった飼い主に、ブラッドは憮然としていた。

二度と触るな?
そんなのごめんだ、とブラッドは思う。
アリスほど抱きたい女はいないし、アリスほど抱いていて面白い女も気持ち良い女もいない。
他の女とアリス。
どちらを選ぶなんて明白だ。
金が楽に手に入らないのは痛いが、別に手に入れる手段がないわけではないし、その面倒を押してでもアリスを抱きたい。
アリスが他の女を抱くのは嫌だと言うのなら、従ってやるのも構わないし、何よりここを出て行く気も毛頭ない。


「アリス」

身体を起こし、ベッドの上で胡座を掻きながら、ブラッドはアリスの名前を呼んだ。
投げ捨てたクッションを元の位置に戻しながら振り返った彼女の表情は、仕事から帰ってきて一睡もしていないのか隈ができている。

「今日はもう抱かない」
「……そう」
「因みに、一緒に寝るのも駄目なのかな?」
「……できれば遠慮して欲しいわ」

あと早急にベッドから降りて頂戴。
嫌な香水の匂いを振りまいて私の部屋にいないで。

疲れた表情で吐き捨てるアリスに、ブラッドは肩を竦めてベッドから降りる。
そのまま無言で風呂場へと向かえば、背後で飼い主が溜息を吐く音がした。





□■□





「まだ匂うか?」

そう言って近寄ってくる犬の首筋に顔を近づけ、夜色の髪をさらりと撫でる。
いつもと変わらぬシャンプーの匂いに、アリスはほっと息を吐いて顔を緩めた。
ベッドの隅に寝転がっているアリスの脇に、ブラッドは腰を下ろす。
床に座っているブラッドと、ベッドに寝転がっているアリスの視線はほぼ同じ高さだ。
もしかしたらブラッドの方が高いかもしれないが、彼は自分の顔を覗き込んでくるので高低の違和感を感じない。

「ブラッド、もっとこっちにきて」
「これ以上は無理だよ、お嬢さん。だったらベッドに入れてくれないか?」
「それは嫌」

擦り寄ってくるアリスの手を、ブラッドがぎゅっと握りしめる。
彼女がこうも堂々とブラッドに甘えるのは珍しい。
夜の件がよほどショックだったのか、それともまた別の要因があるのかブラッドには分からないが、アリスにはアリスで色んな過去と感情と葛藤があることを知っている。
それを無理に暴こうとは思わない。
妙な所で精神的に脆い5つも年上の女は、珍しくて面白くて可愛くて、どろどろに甘やかしてやりたいと思う反面、ぐちゃぐちゃに踏みつぶしてやりたい衝動を覚える。

やりたいことがやれないのは辛いし、嫉妬されるのは面倒くさい。
束縛されるのも鬱陶しいし、何かを強要されるのも嫌いだ。

だがアリスにならされてもいいと思う。
アリスのためなら我慢できるし、嫉妬されるのも嬉しい。
束縛も歓迎で、何かを強要されるのも悪くない。

空が白んでいるが、時刻は午前5時。
これから就寝につこうとしているアリスの頭をゆっくりと撫でる。


「ブラッド、もっとこっち」
「これ以上は無理だ。ベッドに上がらなくてはいけない」
「こっち」

いやいやと首を振るアリスの額に口付ける。
睡魔のせいで思考が十分に働いていないアリスは、子どものように駄々をこねる。

下ろしていた腰を上げて、膝立ちになってアリスの身体を抱きしめる。
言いつけ通りベッドには上がっていない。
少しだけ安堵の表情を浮かべたアリスだったが、「こっち」とブラッドに抱きつきぐいぐいと引き寄せるばかりで、一向に落ち着く気配がない。

「ねむい…」
「早く寝ないと、明日に響くぞ?」
「ブラッド、こっち」
「ベッドに上がるなと言ったのは君の方じゃないか」

真っ暗な部屋の中で、ここまで女性に甘えられてその気にならない男はいない。
アリスにそのつもりは微塵もないだろうし、むしろ寝ぼけの延長上にある行為だろうが、何時間か前に鬱陶しい女の相手をしていた分その行動はブラッドの心を打つ。

「――アリス」

するりとベッドに入り込み、彼女の身体を抱きしめる。
自身の首筋に両腕を絡めてくる彼女があまりに可愛くて、その胸元に唇を寄せると「いやだ」という風に身動ぎした。

「……アリス、一回だけ」
「…やだ」
「二回も三回も強いない。本当に一回だけだから抱かせてくれ」
「…やだ」
「もう二度と他の女には手を出さない。約束する」
「…………」

それが嘘でも本当でも、守ってくれても破られても、正直な所、アリスにはどちらでも良かった。
ただアリスに対してそう言ってくれるのなら、例え嘘でもそう誠実に振る舞ってくれるのなら、それでいいとすら思った。

アリスがブラッドに抱く感情は恋じゃない。
アリスがブラッドに見せる執着は、そんな生やさしいものではないと自覚している。

アリスだって、実は十分ブラッドに対して酷い。
ブラッドという存在に甘えて、頼って、依存して生きている。
アリスはきっと、これ以上ブラッドに望んではいけないのだ。
だから口先だけでもいいと――アリスの本音が結論付ける。
それ以上を望んだら、失うのは自分だと気付いている。
長い目でブラッドを手放したくないのなら、これ以上望むのはルール違反。
だから、ブラッドの言った約束が、守られても守られなくてもいい。
嘘でも誠実に振る舞ってくれるのなら、アリスは夢を見続けることができる。


「アリス――」

服の上から、ブラッドがアリスの突起を噛み潰す。
びくりと震えた身体はブラッドを求めるように躾けられており、ここまで来たらアリスに拒否することは不可能だ。

「嫌なものを見せて悪かった。説明は後でしてあげよう」
「……私、あんな高いスーツ買ってあげてないわ」
「今日あの女と会うために、別の女に買わせた」

帰ってくる時に捨てたがね。

「あぁ、でも深く考える必要はない。私は君の言うお小遣い制とやらは割と楽しんでやりくりさせてもらっているし、安物の服も案外悪くないことに気付いた。今日からの旅行にしても、ホテルの部屋など天井があってベッドがあれば変わらないし?飛行機にしたって我慢できないほどじゃない。一人の女の家にこれほど長く住み着いたのは初めてだし、こんなに長い期間回数もこなして抱いた女は君が初めてだ。そもそも、私が抱きたいと思う女は君以外にいないよ、アリス」
「……出て行かない?」
「私を追い出そうとしたら、私は今度こそ君を殺す」

物騒なことを言いながら、ちゅっと額に口付けるブラッドの様子に安堵する。
いい。何でもいい。ここにいるのなら何でもいいと、心の弱っているアリスはそう思う。

「他の女の件で聞きたいことがあるなら、また後で聞いてくれ」
「…ん」
「私も、君の過去の男に関して聞きたいことがあるんだ」
「……ん?」
「あぁ、今日はそういうプレイにしようか。私のことは先生と呼びなさい」
「……え、は?ちょっと、なんで――」
「知らないと思っていたか?あぁ、知らなかったとも。さっき、風呂に入ってから玄関を片付けていたら見慣れないメモを見つけてな――?」
「!!」
「…心当たりがあるだろう。名前と、住所、ここに小さく走り書きしたのは君の字だろう。せんせい=c平仮名でえらく可愛らしい走り書きだな。名前と住所の字体から察するに男…今君の反応から見ても男で間違いないな」
「そ、そう、だ、けど…」
「君は、私の女関係に嫉妬した。おっと、責めているわけじゃないぞ?むしろ、嬉しいくらいだ……だから、私も嫉妬している」

連絡先を受け取るほどの男だ。
どんな関係だったのか、後でじっくり聞こう。

ブラッドはにっこり笑ってアリスの頬を撫でる。
対してアリスの顔は蒼白だ。
眠気?吹っ飛びましたとも。
ついさっきまで、彼に甘えていた自分の頬を引っぱたいてやりたい。

「いいか、アリス。先生、だぞ?私に突かれながら別の男を呼ぶ君の姿は、想像しただけで腸が煮えくり返りそうだが……」
「だったらやめればいいでしょ!?」
「いいや、やめない。……一回きりという約束だからな。特別酷くしてあげよう」
「っ、やだ、ブラッド――っ」
「違う」


先生だ、と言っただろう?


声色はとんでもなく甘いのに、その眼光があまりに冷たくてアリスは身震いした。


あと結局、耐えきれなくなってブラッドと呼んだ結果一回じゃ終わらなかった。


焦燥を噛み潰す癖

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

不完全燃焼?でもこれが二人の関係なんです。割り切ってるようで割り切ってなくて、割り切ってないようで割り切ってる。
飼い主とペット。お互いの過去も知らなければ今も知らない。未来さえ見えない。ただ寂しいから一緒にいたい。共依存。

2015.08.31