たまたまだった。
スーパーへ買い物に行って、必要なものを買って、あぁ本を先に見に行けば良かったななんて思って、重い荷物を抱えたまま大通りの本屋さんへと向かった。
立ち並ぶ街路樹にはクリスマスの飾り付け。
歩道もほどよく賑わっており、夜とは言え人通りもかなり多い。
12月18日。あと少しでクリスマス。
街は賑やかでムードがそれ一色となっており、特別予定のないアリスでさえ胸が躍るような気持ちになった。


「――――……アリス?」

ふと名前を呼ばれて、立ち止まる。
きょろきょろと左右を見渡したが、見知った人は誰もいなくて、「あぁ、やっぱりアリスだ。こっちだよ」という声に後方を振り向けば―――

「――――先生?」

「アリス。久しぶりだね、元気だったかい?」

そこにいたのは、アリスの初恋の人。
アリスの心にどうしようもない傷をつけた人。
アリスのトラウマ。
今はもう亡き、アリスの姉に恋した人。

彼の姿を見た瞬間に、色んな記憶と感情がアリスの中に駆け巡った。
楽しかったこと、辛かったこと、嬉しかったこと、苦しかったこと、その多大なる情報量に一瞬目眩がしたが、アリスはそれをぐっと堪えて先生に微笑みかける。


「お久しぶりです、先生」

姉の葬式以来。実に4年ぶり。
あまり嬉しくない再会に、アリスはとびきり笑顔で応えて見せた。

「はは、本当久しぶりだ。今は何してるの?昔出版社でアルバイトしてたよね」
「今もそこで働いています。学校を卒業して、すぐにそこで本格的に働き始めましたから」
「へぇ、そうなんだ。ご家族は、みんな元気?」
「――さぁ、あまり帰っていないので分からないんですけど、便りもないので元気だと思います」
「……帰ってないって、家を出たのかい?」
「はい、一人暮らしをしています」

犬を飼っているんですよ。

さり気なく、何の違和感も覚えさせないようアリスは言う。
動揺しているのはアリスだけで、先生は懐かしい教え子に出くわした程度の感情しか垣間見えない。
アリスと付き合ったことなどなかったように。
アリスと付き合っていながら、ロリーナに恋したことなどなかったように。
アリスの心にどれだけの痛みを植え付けたかも知らぬまま、「へぇ、そうなんだ」と優しく笑みを浮かべる。
そんな彼の様子が自分にまた痛みを与えているなど、アリス自身認めたくもなかった。

自分などその程度の存在だと。
そうやって、忘れられる程度。
例えアリスがいなくなったって、誰も悲しむ人などいやしない。
母のように、姉のように、誰にも愛されることがないまま朽ちていく。
アリスにとって先生は、正直二度と会いたくなかった人だった。
先生が悪いわけじゃない。
悪いのはきっと自分だけれど、先生に恋した私が、姉に劣等感を抱いた私が、あの日あの瞬間、姉に酷いことを言った自分が悪いと自覚しているけれど、汚いアリスの心が先生に八つ当たりする。
あんなに好きだったのに、憧れていたのに。
自分の心が一番可愛いアリスは、自分より他人を優先させられない。
だからきっと愛されないのだと、自覚しているくせに直らない。
なんて救いようのない人間なのだと、アリスは思わず自嘲した。


「これ、僕の連絡先。困ったことがあったら、連絡して」

一人暮らし、大変だろうから。

頭を掻きながら照れたように笑う先生に、「ありがとうございます」と言ってそれを受け取る。
はにかむように笑う、その笑顔が好きだった。
だけれどアリスの心はもう動かない。
昔はどきりと心臓が跳ねた――あの瞬間の気持ちを、アリスはもう思い出せない。


「それじゃあ」

またね、と言って手を振り去って行く先生に、アリスは深々とお辞儀をする。
その後ろ姿が見えなくなるまで立ち止まっていたアリスだったが、先生の姿が人混みに紛れて分からなくなった瞬間、溜息を吐く。
本屋に行く気分ではなくなってしまった。
重い荷物のせいで腕は痺れてきたし、冬の冷気と賑やかな街並みが、アリスの心を一層寒くする。



「……帰ろ」

ぽつりと呟いて、本屋とは逆方向の家路へと足を進める。
帰ったら、夕飯を作って、今日から3連休だから、少しだけ夜更かししてもいいかもしれない。
あぁでも夜更かしする前に、夜更かしさせられることになりそうだ。
翌日が休みの場合は、毎回抱かれるのが定着してしまっている。

(今日は……そんな気分じゃないんだけど)

でもきっと、あの犬はそんなことお構いなしだろうから。
気遣われたくなんてないから、むしろそっちの方がいいのかもしれないけど……
暗く沈んでいく心を叱咤しながら、アリスは明るい街並みを素通りしていく。


ふと――アリスの視界に見慣れた夜色が写った。

思わず立ち止まって、眼前を凝視する。

自分の目が見開くのを自覚した。
抱えていた荷物が、いくつか落ちたのも分かった。


「――――――」


ブラッド――――


声を、かけようとしたが音にならない。
声をかけては駄目な場面だと、アリスが自覚しているからか、それともアリスが信じたくなかっただけか。

いつもはラフな格好で、家の中をごろごろとしている男とは違う。
見ただけで高いと分かるスーツを着こなし、目を見張るような美女の腰を抱いてホテルへと入っていく彼の姿。
きらきらと光る金髪が、彼の夜色に似合っている。
背中の大きく開いたドレスが官能的で、たまたま通りがかった男性達がそちらを振り返る。
だがそんな視線を気にも留めない女性は、その細く白い腕をブラッドに絡ませて階段を上っていった。
その身なりが、仕草が、優雅でかつ妖艶で、隣に立つ男にぴったりと合っている。

暫くそれを呆然と見ていたアリスだったが「大丈夫ですか?」と見知らぬ女性に声をかけられはっと我に返る。
落とした荷物を拾ってくれたらしい女性にお礼を言って、アリスは逃げるようにその場を離れた。

先生に再会したのが、吹き飛ぶような衝撃。

今日は――厄日だ。
初恋の人には会うし、どうやらペットは勝手に家からいなくなってるみたいだし。
ていうかアレが新しい飼い主なわけ?
お金持ってそうだから?
美人だから?
ブラッドに釣り合っているから?
っていうか家を出るなら出るって言いなさいよ。
この恩知らず!

肩で大きく息をしながら、ばんっ!と音を立てて家の扉を開ける。
そして大きな音を立ててそれを閉め、鍵を閉め、チェーンまで閉めて、アリスはその場に崩れ落ちた。
散らばった荷物を拾い上げるのが面倒くさい。
お腹なんて空いてない。むしろ吐きそう。

私、どうして3連休取っちゃったのかしら……

玄関の扉に頭をつけて、ぼうっとアリスはそんなことを考える。
あれだ。ブラッドが取れって言ったからだ。
確か3連休の中日に、行きたい所があるからって航空券取らされた。ホテルも取らされた。すっごい高いとこ。
旅行、そうだ旅行だ。
明日の夕方の飛行機に乗って……え?明日から旅行?
このテンションで?
ブラッドさんオンナノヒトとホテル入っていきましたけど?

ぷすぷすと…自分の頭から煙が出ているような感覚に、アリスは思わず口元を抑えた。
瞬間ぼろりと溢れた涙に、「何よコレ…」と一人呟く。
一体何の涙か分からない。
先生に対してか、ブラッドに対してか。
先生?もう何一つ気にしてなんかいない。
ばっちり与えてくれたトラウマは健在だが、その本人に対して思うことなどないはずだ。
ブラッド?彼はただのペットじゃないか。
行き倒れていた所を拾っただけの、言葉は悪いがぶっちゃけヒモ。
何だかんだと身体の関係を結んでしまったが、別に恋人同士なんかじゃない。
むしろ情事は家賃代わりだとか最低なことを言っていた気がする。そんなのいらないから金寄越せ。

ふらふらと、アリスは立ち上がりリビングへと入っていく。
流れる涙はそのままに、それでもチェーンは外しておいてあげるのだから、女々しいこと極まりない。
ブラッドが帰ってくる可能性なんて、100%じゃないのに。
むしろ帰ってこない方が確率的に高そうだ。
美人でお金も持ってる人なら、アリスよりそっちの方がいいはず。
今回の旅行(本当に行くのかは今となって定かではない)だって、渋々アリスが貯金を叩いたものの、ホテルのランクはブラッドの希望通りじゃないし飛行機だってエコノミー。
っていうか、一般企業に勤めるしかも女にそこまでの財力を期待しないで欲しい。
部屋だって狭いとか窮屈だとか文句ばかり言うし、ベッドも最初はキングサイズがいいとかふざけたことを言っていたし、妥協に妥協を重ねてクイーンにしたもののかなり高かった。
その上本棚まで買わされた。
更に言えば彼の衣類まで全部買わされている。
ブランド品ばかり持ってこられた時はさすがに殴ったし、それ以降はお小遣い制でやりくりさせてもらっている。
衣類とか趣味とかその他日用品、彼の個人的なものは全部。

……あんな高そうなスーツ、一体誰に買ってもらったのよ。

きっとアリスでは買えない値段だ。
そうやって考えると、ブラッドはきっと我慢していることが多いはずで――いやそれ以前に私の苦労が半端ないのだけれど。
もっと贅沢したいとか、抱くなら美女の方がいいとか、そう思い始めて家出したのかもしれない。
っていうか私にこれだけさせておいて、その上夜だって人の身体を好き勝手しているくせになんて最低な男だろう。
そしてそんな男を甲斐甲斐しく飼って世話して、いなくなったら寂しいなんて思う私は馬鹿だ。
馬鹿の極み。馬鹿というより阿呆。きっともう人として終わってるレベルだ、そうに決まってる。

涙で滲んだ瞳で室内を見渡すと、朝出かけた時のままでその場所は維持されており、ブラッドの私物も数多くある。
置いていくのかしら――腹立つから全部質屋に入れてやる。
そんなことを思いながらテーブルの上に手を滑らせると、一枚の紙切れがアリスの指に当たった。
それがメモだと分かった瞬間、アリスの心臓がどきりと跳ねる。

きっとブラッドが残したメモだろう。
出て行くと書いているのだろうか、それともお礼?
お礼なんて言われても言われ足りないわよ、返せ!
色々返せ!お金とか時間とか処女とか!!

まともな思考ができなくなっているアリスは、迷うことなくそのメモを開いた。
そしてそれを読んだ後、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱へと捨てる。
玄関に散乱した大量の荷物を見て見ぬふりして、いつもは湯船につかるお風呂をシャワーだけで済ませた。

寝着を着て、電気を消して、大きすぎるベッドの上へと身を滑り込ませれば、ブラッドの匂いがして、アリスはまた泣きたくなった。


『所用ができた。明日の朝には帰る』


所用って何よ!!!!!!!!!!!
金髪の美女が、ちらちらと脳裏に過ぎって鬱陶しい。
ブラッドの所用とやらはこれが初めてじゃない。だったら今までの所用も女遊びだったってこと!?
私の所じゃ贅沢できないから、時々でもそういう贅沢がしたいってこと!?
出てけ!!!!!!出てけこの野良犬!!!!!!!
ブラッド本人に言えば何をされるか分からない暴言を、アリスは心の中で吐き捨て枕を抱えた。

明日の朝には帰る。
帰る。

帰る、その一言が、アリスにどれだけの安堵をもたらしたことなど、認められるはずもなかった。





□■□





がちゃりと玄関の扉を開けると、何故かリンゴが転がってきた。
ころころと転がっていくそれを目で追って、一時停止した所でそれを拾い上げる。
もう一度がちゃりと玄関の扉を開けた。
真っ暗なそこに足を踏み入れると、今度はパキリと音がする。
どうやら何か踏みつけたらしいが、室内が暗すぎて分からない。

午前3時。
割と見事な朝帰りだが、ブラッドは不審に思って玄関の明かりを付けた。
普段ならアリスを起こさないよう明かりはつけないようにしているのだが、明らかに何かが散乱している状況にライトを付けざるを得なかった。
パチンと明かりを付けて、眼前に広がった状況にブラッドは唖然とする。
まず、踏みつけたのは卵だった。
靴が汚れたが、まぁそれは置いておこう。
他にも色々散乱している。
食材をメインに日用品まで……
何故――――?
そう考えるより早く、ブラッドは靴を脱ぎ捨て室内へと飛び込んだ。


「アリス!」


大声で、家主の名前を呼びながらリビングの扉を開ける。
真っ暗な室内を突っ切って、再度彼女の名前を呼びながら寝室に飛び込むと――――

「アリ――っ!?」

ぼふん、と……柔らかいが結構な衝撃がブラッドの顔面を襲った。
散乱した玄関。
それは明らかにアリスが買ってきたと思われるもので、誰かに襲われたとか何か事件に巻き込まれたとか、もしくは身体の不調で倒れているんじゃないかと色々考えたブラッドの思考が一瞬で吹き飛ぶ。
顔を片手で押さえながら、手探りで部屋のスイッチを探し電気をつける。
ぱっと明るくなった室内に目を向ければ、そこには第二弾の枕を振りかぶっているアリスの姿があった。

「ま――っ!?」
「出て行けこの色欲魔!!」

ぼふんっ

見事に的中したアリスの第二陣。
ブラッドは鼻を押さえてその場に膝をつく。
枕と言えど、力一杯顔面にぶつけられればそこそこ痛い。
一体何なんだ、とブラッドがようやく顔を上げれば、そこには鼻を赤くして涙を零すアリスの姿があった。

「……お嬢さん?」
「っ私の方が年上よ!」
「……とりあえず、元気そうで何よりだ」

立ち上がり、アリスの方へ近づこうとすると、彼女は慌てて今度はクッションを握りしめる。
今にも投げつけてきそうなその姿勢だが、ぼろぼろと零れる涙にブラッドは戸惑うばかりで、思わず両手を上げて降参のポーズを取った。

「……クッションは、多分枕より痛い」
「少しは痛がればいいのよ!そんな鼻折れちゃえばいいんだわ!」
「いやいや待て待て落ち着け。クッションで鼻が折れるとは思わないが、君のその気迫だと別の物で折られそうだ」

あと、なんだ……色欲魔?
それにあの玄関……何があったのか私に説明して欲しいんだが――――

と続けた瞬間にアリスの投げたクッションがブラッドの顔横を掠める。
掠ったのは髪の毛だったが、割と凄まじい威力で壁にぶち当たったそれを見て、ブラッドは思わず冷や汗を流す。
何やら、私の飼い主様はそれはもうご機嫌斜めらしい。

「あんた…っなんか!っ死んじゃえばいいんだわ!」
「……落ち着け、アリス」
「女たらし!色欲魔!恩知らず!不能になっちゃえばいいのよ!」
「ふの…っ、不能って……そんなことになったら君を悦ばせられな――っ」

ばん!

壁にぶち当たるクッション第二弾。
今度は顔面に直球コースだったが、何とか避けたブラッドは目を白黒させてアリスを見る。

「悦ぶって言うな!」
「…アリス、落ち着……」
「不能になって誰にも相手されなくなったらいいのよ!そしたらずっと私が飼うわ!」

「――――――」

「誰にも…っ相手にされなくなればいいのよ……そしたらずっと、私が飼っていられるわっ」

ぼろぼろと泣きながら、次に投げるクッションを掴もうと一瞬視線を逸らしたアリスに、ブラッドは一気に距離をつめてその腕を掴んだ。
あっと声を出したアリスの細い身体を抱えてベッドの方へ放り投げれば、彼女は簡単にその場へひっくり返る。
慌てて起き上がろうとしたアリスの上に馬乗りになれば、彼女はもう何もできないも同然だった。

「っ――卑怯者!」
「何が卑怯なんだ一体……」

左手で彼女の両手首を押さえ、一度黙らせるかとアリスの乳房をぎゅっと掴み上げる。
それに息を呑んでびくりと身体を強ばらせたアリスは、ふいっと顔を背けて歯を食いしばった。

まるで絶対に屈しないと言わんばかりの態度に、ブラッドは「ふーん?」と口元を緩めてアリスの胸を揉む。

「っや――ちょ、」
「このままじゃ埒があかない。一度素直になってもらう」
「い、や……いや!!」

じたばたと暴れるアリスに対して、ブラッドはびくともしない。
服の中に手を滑り込ませ、さて一体どういう風にしてやろうかと思案する。
が、ふとアリスの顔に視線を向けると、彼女はぎゅっと目を瞑り、聞いたことの無い声量で「いや!!!」と叫んだ。
たったそれだけのことなのに、思わずブラッドの手が止まる。
今までに無いほど全身で拒絶を露わすアリスの姿に、ブラッドは「どうしたんだ」と言いかけた所で――


「余所の女とシてきた後で私に触らないで!!」


――――本当に一瞬だけ、ブラッドは後悔した。



焦燥を噛み潰す癖

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

恋人同士じゃないけど。飼い主とペットだけど。だけど、それでも―――――。

2015.08.30