アリスは同年代の同性に比べて稼いでいる方だと思う。
自分一人暮らしをしていく程度なら余裕だし、貯金だってそこそこある。
贅沢にもさほど興味がなく、物欲もない。
趣味と言えば読書くらいで、アリスが娯楽にかけるお金と言えばそれくらいだ。

だからほんの気まぐれに――ペットを飼おうと思っただけ。

雨の中に捨てられていたから。
捨てられたというより逃げてきたという方が正しそうだったが、どちらにせよ、行き場所がなさそうだったから拾っただけ。
目つきの悪い凶暴そうな黒犬。
油断しようものならすぐに噛みついてきそうなその犬を、アリスは何故だか飼う気になった。

今の生活に不満はない。
卒業と同時に出版社で働き始め、比較的裕福だった実家を出て自立した生活を送っている。
仕事人間と言われればそれまでだが、周囲に認められる程度にはバリバリ働いてきたつもりだし、同年代の女子達比べて色気ある生活ではないが、それでも自分は満足している。
遊びや恋に時間を割く女性を羨ましいと思ったことはないし、過去の経験から正直恋愛なんてこりごりで、おしゃれや遊びに時間を費やすなら読書がしたいと思うほどだ。

数年前に姉が死んだ時、アリスは自身に家族などいないと思って生きてきた。
母が死んだ時点で父はいないも同然だったし、妹のイーディスとは年が近かったせいか馬が合わず、姉が死んでからそれは決定的なものとなった。
あれほど大好きだった姉が死んだ時、泣けもしなかった自分自身。
家を出たときから、アリスはリデル家の人間ではない。
そう在り続けたいとも思わなかった。

そしてそれを――寂しいと思うことは許されない。

自分は過去に囚われている。
初恋の人。死んだ姉。
自覚しているのに、「そんなことないわ」と自身に言い聞かせて生きている。

悲しくない。寂しくもない。可哀相なんかじゃない。
自分が決めた道だ。自分が決めて歩いている。

寂しくなんて――これっぽっちもない。


「――――――」


雨の中に捨てられていた黒犬は、まるで自分のようだった。

真っ黒な瞳がアリスを映す。
誰にも心を開かない。開きたくない。
大事なものを作るのはこりごりで、自分以外が全部敵に見えている。
その黒犬が本当にそう思っていたのか分からない。
ただあまりにもその目が、鏡を見ているようだったから、アリスは思わず手を差し伸べてしまった。

救われたいなんて、一度も思ったことないはずなのに。
許して欲しいなんて、一度も思ったことないはずなのに。

その黒犬に手を出さずにいられなかった自分は、本当は救われたくて許して欲しいと思ってるなんて、認められるはずもなかった。

拾った犬は、最初こそ懐かず言う事を聞かなかったが、時間の流れは慣れを生む。
食事を出しても手をつけなかった犬は、いつしか早く寄越せとせっついてくるようになった。
警戒心を露わに睡眠を取ろうともしなかったくせに、今じゃ人のベッドで勝手に寝ていたりする。
時間を追うごとに図々しくなり、自由気ままで我が儘放題になっていくアリスの黒犬。

『犬飼い始めたの?いいよね、ペット!それ中心の生活になるっていうか――』

犬を飼うことにしたのと世間話程度に話した時、アリスの同僚はそう言った。
まさかそんな、気まぐれに飼おうと思っただけだからそんなことにはならないわよ…
アリスはそう思っていたのに、今の生活はどうだろう。
完全に犬中心。同僚の言った通りになってしまっている。
犬に変化が生まれるように、アリスにも変化が生まれた。

まず、仕事はなるべく定時で帰るようになった。
無茶苦茶な仕事の詰め込み方はしなくなったし、有給だってちゃんと消費するようになった。
インドア派で割と出不精だったアリスは、散歩と称して犬を連れて外へ出る。
長期の休みには旅行に行ったりするようになった。
もちろん犬連れで。

いついなくなっても構わない。
そんな心づもりで飼い始めた犬だったのに、今はいなくならないで欲しいと思う。
アリスが勝手に拾ってきた犬。
もしかしたら元の飼い主が連れ戻しにくるかもしれない。
引き離されるのが堪らなく怖くて寂しくて、仕事から帰る度、まだ家にいる犬を見てアリスは思わず安堵する。







ふっと目が覚めて、アリスは寝返りを打った。
時刻は午前4時。
休みの日の朝にしては早過ぎる目覚め。
寝返りを打った先に見えた黒色に、アリスは手を伸ばしてその頭を撫でる。

犬を飼い始めてから買ったクイーンサイズのベッド。
今まで使っていたシングルベッドじゃ一人と一匹が寝るのは狭すぎて、アリスが貯金を崩して購入したベッド。
最初こそ床で寝ていた犬だったのに、いつしか勝手に人のベッドを使い、むしろアリスを追い出そうとしてくるのだから図々しい。
こんな大きなベッド買う気なんてなかったし、置いたら部屋が狭くなるじゃないと愚痴を零したが、犬は我関せずと…しかもちゃっかり本棚の購入カードまでレジに並べてくるのだから性質が悪い。
結局ベッドと本棚を購入する羽目になったアリスは、ペットってお金がかかるのねと本当にしみじみそう思った。



「――――…アリス?」
「あぁ、ごめんなさい。起こした?」

犬の頭を撫でていた手をすっと離す。
「まだ4時だからもう少し寝るわ」と言えば、ぐいっと腰を抱かれて引き寄せられる。

「…ねむい」

アリスの身体を抱き枕よろしくしっかり抱きしめ、首筋に顔を埋めてくる犬。
その夜色を撫でれば、乱れたシーツをごそごそと手繰り寄せ、自身とアリスの身体をすっぽり覆って二度寝の体勢に入ってしまった。


犬は名前を、ブラッドと言った。
アリスがつけた名前じゃない。
本人がそう名乗ったわけでもない。
首輪という名の学生証に、そう書かれていただけだ。

ブラッドを拾ったときの、彼の持ち物は財布だけ。
この辺りでは有名な進学校の制服を着て、雨の中座り込んでいた。
警察に届け出たり、学校に通報したり、親元へ帰すというのが常識的な判断だと分かっていたが、そうできないだけの雰囲気が彼にはあって、アリスは犬を拾った気持ちでいようと居直った結果がこれ。

拾って早一年。
ブラッドはずっとアリスの元にいる。
学校には通っているようだが、親元には帰ろうとせず、一度それとなく聞いてみたこともあったが、彼は黙り込んで喋ろうとしなかった。
世間的に騒ぎになっているわけでもない。
学校側から抗議されるわけでも、親から連絡が入るわけでもない。
明らかに訳あり≠フ青年。
この上なく面倒なだけなのに、突き放すことはできなくて、むしろ最近では、自分の方が縋り付いているような状況に、アリスは隠れて溜息を吐く。
彼のいる日常が当たり前になってしまって、壊れてほしくないと思う。

自立した女性を目指したかった。
自立とはなんだろう。
家を出ること?家族と縁を切ること?
誰にも頼らないこと?一人で生きていくこと?
アリスには分からない。
彼を飼い始めて、それが居心地良いと感じるようになってから、アリスはいつも不安に思っている。

こんなはずじゃなかった。

アリスはブラッドの胸元に額を押しつけながら思う。

こんなはずじゃなかった。

アリスは弱くなってしまった。
情けなく、拾ったペットを心の拠り所にしている。
自分より5つも年下の、まだ社会にも出ていない学生に、だ。
飼い主とペット。
こんな意味の分からない関係に甘んじて、何をやっているんだとアリスは泣きたくなる。
 
ふいに、さらりと頭を撫でられた。
二度寝するんじゃなかったのかと頭を上げると、暗い室内でもはっきり分かるほど――翡翠の瞳がアリスを見下ろしている。

「眠れないのか?お嬢さん」
「……私の方が年上よ」
「年上だと言い張りたいのなら、もっとしっかりすればどうだ?……泣きそうな顔をしている」
「うるさいわね。あんたの勘違いよ」

ふいっと視線を逸らして瞼を閉じれば、まるで擦り寄るように抱え込まれ、アリスは思わずその胸板を押す。

「そんなにくっつかないでよ。暑いわ」
「飼い主を慰めようとしているペットの気持ちが分からないとは……酷いご主人だな」
「ペットならペットらしくしなさいよ。昨日の件、まだ許してないわよ」
「あれだけ悦んでおいて何を――」
「悦ぶって言うな!」

午前4時。
近所迷惑になりそうな絶叫をアリスが零したが、叫ばれた本人はどこ吹く風で気にもしない。
昨夜の名残りはベッドの下。
散らばった二人の洋服やら下着が生々しくて、アリスは羞恥心からブラッドの胸板をどんどんと叩く。
びくともしないのがまた憎らしい。
17の男に好き勝手されている22歳独身女性。
過去の恋愛経験の痛手から、この年になっても処女だったそれを奪われたのはもう半年も前のこと。
しかも恋人でもない男……アリスがペットだ犬だと称している男に。

「昨日は駄目って言ったじゃない」
「私は、やりたい時にやりたいことをする」
「どこの貴族様よ、この野良犬。避妊もしないくせに」
「孕めばいい。そしたら結婚しよう」
「私はヒモを飼うつもりはないわよ!」
「私は犬なんだろう?このまま飼ってくれ。奉仕は――するぞ?」
「や、ちょ、いらな……っ、いらないってば!も、どこ触って――」

シーツの中。
器用にくるりと反転され、背後から抱きしめられる形になったアリスは必死に身を捩る。
だが逞しい腕にがっちりと拘束され身動きが取れず、自身の身体を這う彼の手に、アリスは身をぶるりと震わせた。

「ここ……まだ濡れている」
「あぅっ」

耳元で囁かれ、息を吹きかけられる。
くちゅりという水音と同時に、下半身に違和感を感じて足を閉じようとしたが、しっかりと固定されているせいでそれは叶わない。

「あっ……あぁ!うそっ、だめっ」
「このまま挿れたらキツそうだが……君はそういうのが好きだったな」
「好きじゃな…!やだやだいれちゃだめ!」

花芯を擦り、割れ目をなぞっていた指がぐっと奥へ押し込まれる。
ブラッドは「ああぁっ」と鳴いたアリスの耳たぶを甘噛みしながら、中をぐちゃぐちゃと何度かかき混ぜ、そこの濡れ具合を確認した後、指を引き抜き自身の楔を密壺にあてがった。

「……少しだけ」
「ああっ…うそっ、ぜったい少しじゃすまないぃ…っんあ、あっやだ…っ、」

押し開かれ、入ってくる感覚に身を捩る。
だが全く身動きできず、ぐずぐずと自身の中に異物が入ってくる感覚に、アリスはぶんぶんと首を振って嬌声を上げた。

「っ、やはり狭いな……」
「んんっ、あっ…や!ぜんぶ、ぜんぶ入ってきてるっ」
「……物欲しそうにひくついていたから、思わず」
「うそつきっ、うそつきぃ……ぶらっ、ど!ばか、あっあっ、うしろ!うしろやだぁ…!」
 
うごいちゃいやぁ…っ!

涙を流すアリスを抱えて、俯せに組み伏せる。
身体を起こし、アリスの膝を立てるように腰を抱けば、嫌だ嫌だと言いながらも従う彼女の様子にブラッドはにやりと口元を歪める。

男を知らなかった身体を暴いてから早半年月。
抱いた数は数え切れないし、何より、何も知らない女に男を教え込むのは堪らなく楽しい。
アリスの休日を一日潰して蹂躙したこともあった。
服を剥ぎ取り、縛り付け、身動きできぬ状況で玩具責めにした時などは此方の我慢が限界だったほどで、ブラッドはアリスにありとあらゆる快感を教え込む。
これがキモチイイコトと認識したアリスの身体は容易い。
羞恥心を捨てて「もっともっと」と強請る彼女は官能的だ。
自身が気に入っている女ということも相まって、ブラッドがアリスにかける執着は広がる一方。

「バック、好きだろう?」
「い、やぁ…あっ、ああぁ!」
「無理矢理犯されているようだと、お気に入りじゃないか」
「そんなこと、なっ…んんっ、だめ、」
「気持ち良くないのか?」

腰を突き動かしながら、枕元に転がっていたリモコンを手にとって、部屋の電気をつける。
突然明るくなった室内に、アリスは「いやぁ!」と悲鳴を上げたが、ブラッドは無情にもそのリモコンをソファの方へと放り投げた。
アリスの白い肌がよく見える。
動く度に揺れる彼女の豊満な胸に手を伸ばし、やわやわと揉みしだき突起を抓れば、きゅっと締まる内部にブラッドは笑いを隠せない。

「気持ち良くないのか?」

再度、ブラッドはアリスの耳元で囁く。
脳髄が蕩け始めているアリスは、時折「いやぁ」と言いながらも甘い嬌声を上げるだけで、額を枕に押しつけてその快感に耐えていた。

「アリス」

名前を呼べば締まる内部。
情事中に名前を呼ばれるのが好きなのだと気付いたのは、そう遅いことではない。

「あっあっ…きもちいいっ、きもち、いいぃ…!」
「そう、イイ子だ。そのまま、きちんとおねだりができたら、貴族様だの野良犬だのの暴言は水に流して、好きな体位で抱いてやる」

ちゅっと目尻に口付けてやれば、アリスは艶めいた吐息を吐きながら「ぶらっど、」と彼の名前を呼ぶ。

「あぁっ、イきたい…イカせてくださいっ」
「…………」
「んあっ…ちゃんと、抱いて……!もっと、キモチイイコト、してぇ…っ」
「…………」
「ああぁん!ぶらっど、ぶらっど!もっと、はげしくっ…んあ!」

おねが…!にかいめっ、にかいめがしたいのぉ…!

イく前から、2回目を強請るアリスに口元を緩める。
ブラッドとアリスの情事は一回や2回じゃ終わらない。
アリスのハジメテはブラッドで、ブラッドしか知らない彼女の身体は彼に馴染み、実によく慣らされていた。
そういう風にしたのはブラッドで、自慰行為だって教え込んである。
一から手ほどきをして、時折することを強要し、プレイの延長からブラッドの目の前でさせることもある。
そこまでしているのに、未だ恥ずかしがり羞恥心から情事を拒否する姿勢はいつまで経っても変わらず、抱いたときの反応だって生娘そのもの。

珍しい。
ブラッドにとって、アリスは珍しくて貴重な生き物だった。
 
あの嵐の日。
表面上は真面目に学校へ通っている学生のふりをして、裏では危ないことに手を出して怪我したブラッドを見つけたのはアリス。
足には銃痕。
右手には拳銃。
どこからどう見ても見て見ぬふりをしたい男に、この女は近づいてきた。
「大丈夫ですか?」と尋ねてくる女に拳銃をつきつけ、「慈善活動に興味があるのか」と問えば、女は動じた様子もなく「そうかもしれないわね」と言った。

『警察は嫌。病院も嫌。学校も嫌で家もどこか分からない。だったらうちに来る?』

頭のおかしい女だと思った。
イカれているな、と……イカれている自分自身に思わせた女が面白くて、気味が悪くて、興味を持った。

『大型犬を拾ったつもりでいるから、貴方もその気持ちでいて』

そしてこんな自分を犬だと言う。
『私が飼い主、貴方はペット』そう繰り返して言った女が本当に面白かったから、ブラッドは執着した。



「あああっ!イ…ちゃ、ああ!」

嬌声を上げるアリスの首筋に、ブラッドは噛みつくように口付けた。
自分の飼い主が、殊更に可愛くて。
日頃飼われているのは自分の方。
こういうご奉仕なら決して悪くないとブラッドは笑う。

女の名前はアリス=リデルといった。
出版社に勤めていて、1LDKという一人暮らしをするには広い部屋に住んでいる。
貰っている給料も世間一般人の平均値。
むしろ平均よりは貰っている方かもしれないとは思う。
少なくとも、彼女自身と17の男が楽に食べていける程度はある。
実家はあるらしいが絶縁状態だと聞いた。
彼女もあまり、過去を語りたがらない。

飼われるのが面白いと思ったのは初めてだ。
こう堂々と犬だペットだ言われたのは今回が初めてだが、女に養って貰うという構図は初めてじゃない。
養ってもらう代わりに身体で満足させるのも、手慣れた行為。
ブラッドはそうやって女の元を転々としていた。
家が嫌で両親が嫌で、過去を思い出すのが嫌で、学歴欲しさに学校は通っているが、裏でやっていることも多い。
一人の女の家に軽く一年。
これほど居座ったのは初めてで、居心地が良いと思ったのも初めて。
飼い主が可愛くて堪らないのも初めてで、むしろ自分が飼い殺してやりたいと思ったのも初めて。
そこそこ顔は整っているが、今まで関係があった女達と違って美人とは言いがたい。
性格も根暗で地味な方。
多少気の強い所もあるが、つっつけば泣き出す脆さもある。
22という年齢にして処女。
男慣れもしていないし、手練手管などあったものじゃない。
そんな女に拾われた自分。
そんな女が、自分を飼おうと思った運命。

絶対に手放さない――――

どっちが飼い主でどっちがペットか分からない思考回路に、ブラッドはそれすら面白いと笑う。






「ん…っ」

午前6時。
彼女の中からずるりと自分自身を引き抜くと、収まりきらなかった白濁が一緒に外へと溢れ出す。
太ももまで滴る愛液に、一瞬「もう一度…」と思ったが、片腕で顔を覆って荒い呼吸を落ち着かせようとするアリスの姿に、ブラッドは身体を離してカーテンの外を見た。
白んだ空が夜明けを教える。
ブラッドの嫌いな時間。
今日は学校をサボろうと思いながら、3日ぶりの休日であるアリスの身体を抱きかかえて風呂場へと向かった。





□■□





「ねむい……」

湯船の中で、目をとろんとさせたアリスが呟く。
そんな彼女を後ろから抱きかかえている形だったブラッドは、「寝てもいいぞ?」とその耳元で囁いた。

「貴方、学校はどうしたのよ」
「だるい。今日はサボる」
「いつもそんなこと言って…学生の本分は勉強よ」
「君の休みが、学校の休日に被らないのが悪い」
「そんなの私のせいじゃないわ」

ぱしゃりと音を立てて身体を反転させる。
ブラッドの胸元に擦り寄るように抱きつくと、彼は軽くアリスを抱きしめ、その栗色の髪を撫でた。

「……腰が痛い」
「昨日の夜からぶっ通しだったからな。飼い主に悦んでもらえるよう、私も誠心誠意尽くして――」
「そんなことに誠心を尽くさないで」

あと悦ぶって言うな。

そう言った、アリスの声に覇気はない。
よほど眠いのか、瞼がうつらうつらと下がっており、ブラッドはその目尻を撫でる。

「……してあげてたの?」
「ん?何がだ?」

ぼんやりとした表情で呟くアリスに、ブラッドが首を傾げる。
色んなものを省略した問いかけに、ブラッドは「一体何をしてあげてたというんだ」と、アリスの額に口付けた。

「……こういうこと」
「こういうこと?」
「お風呂。入れてあげてたの?」

他の女の人にも、同じことしてた?

アリスは少しだけ、ブラッドのことを知っている。
その端整な顔立ちからとてつもなくモテること。
女の人の家を転々として養って貰っていたこと。
その人達と身体の関係があったこと。
そこで培われた手練手管が、今自分に使われていること。
アリスはブラッドの肝心なことを知らないくせに、そんなことばかり知っていた。
もちろんこれらは、ブラッドを拾って少し会話が弾むようになった頃に、本人の口から聞いたことだ。

「毎回入れてくれるじゃない。その…あぁいったことが終わってから」
「…えらく今更な質問だな。まぁ、終わった後に君をこうして風呂に入れるのは、最早癖みたいなものだが……」
「癖?」
「君のハジメテは、私が無理に犯したようなものだっただろう?」
「――――驚いたわ。自覚があったのね」
「まぁ、君もさほど嫌がっていなかったとは言え、あれを同意というのには些か無理があるし……それを押し通して抱いているくらいだから、風呂にくらい入れてやらねばと思うだろう」

初回でそうしてしまったから、その後も続けてしまったということだ。

「――だから、他の女をこうして風呂に入れてやったことはないよ?お嬢さん」
「……私の方が年上よ」
「大体、この私がそんな面倒なことするわけないだろう」

君だけだよ。

ブラッドの言葉に、アリスは「そう…」と呟いて俯く。
その頬が朱いのは、お湯にあたったせいか、照れているからか、それはアリス自身にも分からない。
 
ブラッドはアリスに優しい。
情事中は全然まったく優しくないし、むしろ鬼畜の極みだと思っているが、それ以外では優しい。
今まで関係のあった女の人には全く執着しておらず、むしろ名前や顔もいまいち覚えていないほど最低な男だが、アリスにだけは優しい。
養ってもらえないと困るから、演技をしているのかもしれないと思った時期もあったが、その考えは割と早々に捨て去った。
ブラッドはアリスが他の男と話していると拗ねる。
家に帰ってくるのが遅くなると怒る。
この究極の面倒くさがりが、スーパーで買い物をして来てくれるし、時折夕飯を作ってくれたりする。
日中は学校に行っているが、休日なんかは片付けをしていてくれたり……元来真面目で几帳面な男なのだと思う。
多分やらないと気が済まないタイプだ。
今までの女の人の所でもそうだったかもしれないという考えも、何度も言うとおりこの極度の面倒くさがりがそんなことをするはずもないと切り捨てる。

一年も一人の女の場所に居たのは初めてだという。
だったら今まではどれくらいいたのか、と問うと、長くて2週間という返事が返ってきた。
短ければ、家に足を踏み入れた瞬間嫌になって出てきたこともあるらしい。
料理がまずいだとか外食が多いだとか、
香水が気に入らない、部屋が片付いていない、セックスに飽きた、鬱陶しい、甘えるな、馴れ馴れしい、エトセトラ……
よくそれだけ女が切れなかったと呆れるべきか軽蔑すべきか、いっそ尊敬すべきか、アリスには分からない。
これほど甲斐甲斐しいのは君にだけだよ、とブラッドは言う。

「何だ。他の女の話など珍しい……ヤキモチか?」
「うるさいわね。違うわよ」

違わない。ヤキモチだ。
自分と他の女を比べて凹んでいる。
自分がとんでもなく優遇されているのは分かっているが、元が根暗なアリスはそれを素直に受け入れられない。
いつか飽きられる。
いつか捨てられる。
いつか、いなくなる。
アリスが拾ったのに。
アリスが飼い主なのに。
決定権はブラッドの方にあるなんて――

飼い主とペット、この関係を変えたつもりはない。
多分ブラッドにもない。
でも男と女の関係を結んでしまってから、アリスの心にじわじわと薄暗いものが沸き上がっている。
 
簡単に言えば所有欲だ。独占欲。

誰にも渡したくないと思う。
いなくならないで欲しいと思う。
恋……ではない気がする。
依存や執着に近い感情。
遙か昔、家庭教師の先生に片思いをしていたふわふわとした感情じゃない。
どろどろとして、蓋をしても溢れ出てくるような醜い想いだ。

「ふむ……ご機嫌斜めだな」
「昨日の夜から嫌って言ってるのに無理強いするからよ」
「あれほど悦んでおいて――」
「だから悦ぶって言うな!」

はぁ、とこれ見よがしに溜息を吐くブラッドの首筋に抱きつく。
これは「もう上がりたい」というアリスの意思表示だ。
この行為も一体いつから定着してしまったのか、正直アリスは覚えていない。
ブラッドは、そんなアリスを軽々抱き上げ浴槽から立ち上がる。
この後身体を拭いてもらって、着替えさせてもらって、髪を乾かしてもらうのが、情事後にお風呂へ入った後の恒例となっている。
恋人同士なら甘ったるい一時だ。
だがブラッドとアリスは恋人同士ではない。
飼い主とペット。

「卵焼きが食べたいなぁ」
「……それは、私に朝食を作れということか?」
「今日は甘い卵焼きがいい。ハムも切って。サラダもつけてよ」
「…………」

嫌なら学校に行きなさい。

そう吐き捨てたアリスに、ブラッドは舌打ちをして黙り込む。
それでも丹念に手際よくアリスの髪を乾かし続けるのだから、確かに甲斐甲斐しい男だ。

「お昼は駅前のパスタを食べに行きたいの。平日だから、きっと空いているわ」
「この快晴の日に外へ出るのか……だるいな」
「散歩よ、散歩」

犬は散歩に行くものだもの。

「飼い犬の気持ちが分からないご主人だな」

ブラッドの呟きに、アリスは(その通りよ)と苦笑した。



虚妄の隷

material from Quartz | title from 模倣坂心中 | design from drew

社会人アリス(22)と学生ブラッド(17)

2015.08.29